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書けなかった日を祝う

    書けなかった夜を、そっと祝おう。
    白い画面が虚しく光るだけで、何も残せなかった一日。
    書けないのは敗北だと、数えきれないほど自分に刻んできた。

    けれど今夜は、その「書けなかった」を、優しく抱きしめてあげたい。

    書かなければ、と思っていた。
    せっかく今日という一日をここまでたどり着いたのだから、せめて一行でも、下書きのままでもいい。ただ「今日は何も書けなかった」という記録にしたくなかった。
    なのに、言葉は指先でするりと逃げていく。胸には書きたいことがいくつも浮かんでいるのに、いざ画面を前にすると、どれもほどけてしまう。

    書くことが好きなのに、書けない。
    それは思った以上に苦しくて。書けた日は少しだけ自分を好きになれるのに、書けなかった日は「書く人」から遠ざかったような心細さが残る。

    あの日の夜。
    家のことを終え、ようやくパソコンを開いた。静かな時間。
    ここから自分の時間が始まるはずだった。

    娘が眠たそうな声で呼んだ。

    「ママ」

    小さな声だった。
    私はすぐに立ち上がり、布団のなかへ。娘は私の顔を見て安心したように手を伸ばし、私はそのあたたかい手を握った。やわらかな頬、少し汗ばんだ前髪。眠る前の、頼りきったまなざし。

    「そばにいて」

    言葉にはならなかったけれど、そのしぐさがそう伝えていた。 私はパソコンには戻らなかった。
    白い画面は白いまま、一行も増えなかった。結局その夜も、何も書けなかった。

    けれど、不思議と。
    いつもの敗北感だけが残るわけではなかった。

    今日は書けなかった。
    それでも今日はこの時間を生きたのだ、と思えた。

    娘の呼びかけに応え、手を握り、眠るまで隣にいた。文章にはならなかったけれど、たしかにここにあった時間。目の前の大切なものに、自分の時間をちゃんと使った夜だった。

    それから少しずつ、書けなかった日の見え方が変わっていって。
    書く人は、書けた日だけでできているわけではない。
    むしろ、書けなかった日まで抱えて、書いていくのだと。

    何も残せなかったと思った夜のぬくもり。
    言葉にならなかった焦り。
    暮らしのなかで立ち止まった時間。
    そういうものが、すぐには文章にならなくても、心の底に静かに積もっていく。そして、ある日ふいに、一行を支える土になる。

    書けなかった日は、空白ではない。
    白いまま閉じた画面の向こうにも、ちゃんと息をしていた時間がある。
    誰かを思ったこと、手をのばしたこと、疲れた体で今日を終えたこと。
    そんな一日ごと、自分の言葉の底に流れ込んでいく。

    だから私は、書けなかった日を祝いたい。

    うまくできなかった自分を責める代わりに、温かい紅茶を淹れる。
    ゆっくりと一口飲み、その香りに包まれながら、「今日もよく生きた」と自分に囁やく。

    書けた日だけが、書く人の人生ではない。
    迷った夜も、立ち尽くした時間も、暮らしのほうを選んだあの瞬間も。
    いつか生まれる一行を支える、豊かな土になる。

    書く人は、書けなかった日まで抱えて書いていく。

    まだ足りない、ではなく、今日もちゃんとここにいた、と。
    祈るように、白い画面をそっと閉じる。

    そうやって祝われた夜の底で、
    私たちの言葉はまた、静かに生まれ直していく。


    (1289文字)


    「灯火杯 6th 2026Spring」に応募します。

    ともちゃん、みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。
    書く人へのエールが伝わりますように。
    喜木 拝

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    本が好きなのに、今は読めないあなたへ。 本とことばで、忙しい毎日に小さな余白を届けます。 図書館司書/4歳娘の母/ブックシェアコーディネーター。 メンバーシップ「凛のことのはライブラリー」運営中。

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