
「ママがよかった」の朝、チョコが固まる午後。
上履きの白より先に、娘の涙がにじんだ。
「いってらっしゃい」が、今日は少し重い。
2月14日、涙の朝と甘い午後が、同じ一日にやってきた。
3歳の娘の、幼稚園の体験入園。
保育園には通っている。
だから平気なはずだと頭ではわかっているのに、
場所が変わるだけで、母の心はこんなにも落ち着かない。
教室の前で、娘は泣きながら「だっこ」と腕をのばした。
先生がやさしく抱き上げてくれて、
わたしはそのまま、手を振ってお別れした。
先生の肩越しにこちらを見る、涙の残った顔。
あの数秒が、思っていたよりずっと長かった。
保護者は子どもたちと別れて、ホールで説明を聞く。
先生の声はやわらかく、配られた資料も丁寧で、
きっと大事なことをたくさん話してくれていたのに、
わたしはそわそわして、ほとんど頭に入らなかった。
メモを取ろうとしても、浮かぶのは要点じゃなく、
さっきの泣き顔ばかり。
「いま、どうしてるかな」
その一文だけが、心の中でずっと太字だった。
お迎えのとき、先生は笑って言った。
「すぐに楽しく遊べていましたよ」
その言葉で、胸の結び目がひとつ、静かにほどける。
子どもは、泣きながら前に進める。
泣くことと慣れていくことは、ちゃんと同じ道の上にあるんだ。
パパは仕事だったので、帰宅してから娘に聞いた。
「今日どうだった?」
娘は少し口をとがらせて、
「……ママがよかった」
と答えた。
そのひと言に、
うれしさと、申し訳なさと、くすぐったさが混ざる。
パパは「そっか」と笑って、ちょっとだけ拗ねた顔。
わたしはその横顔まで、なんだか愛おしくなった。
午後は、バレンタインのチョコレートづくり。
コンフレークを砕く音が、台所にぱりぱりと降る。
湯煎のボウルで、チョコがゆっくり艶を取り戻していく。
型に流し込んで、飾りをのせて、
固まるのを待つ時間まで、ちゃんと楽しい。

「味見!」と言って、娘は2個ほおばった。
口のまわりを甘くして笑っていたのに、
自分から歯ブラシを持ってきて、ちゃんと歯を磨いた。
まだ小さいのに、もう少しだけお姉さん。
その境目が、今日はやけにまぶしい。
朝は泣いて、
午後はチョコを作って、
きちんと歯を磨く。
たった一日の中に、
「まだ小さなあなた」と「もう育っていくあなた」が同居している。
子どもが離れる練習をしているなら、
親は、見えない時間を信じる練習をしているのかもしれない。
いつか「ママがよかった」と言わなくなる日が来る。
だから今日のその言葉を、
チョコの甘い匂いと一緒に、心の引き出しにしまっておく。
固まったチョコみたいに、
この日の記憶も、静かに形を保ったまま。
喜木 拝
