
同じ絵本のなかに、去年の君と、今日の君がいる。
今夜、3歳の娘が「これ読む」と持ってきたのは、谷川俊太郎さんの絵本『まり』だった。
思わず、「ああ、懐かしい」と声が漏れる。
娘が2歳のころ、何度も何度も読んだお気に入りの一冊。
小さな手で抱えてきては、「もういっかい」とせがまれて、同じページを繰り返し開いた日々を思い出す。
あのころの娘は、ただ絵本のリズムを楽しんでいた。
ことばの響き。
ページをめくる感触。
目の前で弾む「まり」の動き。
意味を理解するというより、まるごと身体で、その世界を浴びるように受け取っていたのだと思う。
けれど、今夜は少しちがった。
読み始めると、娘はじっと絵を見つめて、こう聞いた。
「どうして転がるの?」
去年にはなかった問いだった。
2歳のころの娘は、絵本の世界をそのまま受け取っていた。
「ころがるんだね」
「たのしいね」
そんなふうに終わっていた時間が、3歳になった今は、「どうして?」へとつながっていく。
暗い部屋のなかで、絵本ライトのやわらかな光がページを照らしていた。
オレンジ色の光に包まれながら、娘はじっと絵を見つめている。
私はふと、目の前で娘の成長そのものを読んでいるような気持ちになった。
最近の娘は、なんでも「自分で!」と言う。
服を着るのも、靴を履くのも、ボタンを留めるのも。
できるかどうかより先に、まずは「自分で!」。
時間がかかっても、うまくできなくても、とにかく自分の手で触れて、試して、たしかめてみたいのだ。
その姿は頼もしくもあり、忙しい夕方には、正直ちょっぴり大変でもある。
でも、今日の絵本時間のなかで、はっとした。
ああ、この「自分で!」は、生活のことだけじゃないんだな、と。
絵本の世界だって、もう受け取るだけではない。
「どうして?」とたずねて、自分の頭で考えようとしている。
ことばを聞くだけでなく、その先にある理由や仕組みにまで、手をのばそうとしている。
そうやって娘は少しずつ、世界を“自分で”知ろうとしているのかもしれない。
同じ絵本。
同じ読み手。
それなのに、そこにいる娘は、もう去年の娘ではない。
お気に入りだった絵本を、時を経てもう一度ひらくと、懐かしさだけではなく、
「あのころはこうだったな」という記憶と、
「今はこんなふうに聞くんだ」という現在が、そっと重なって見えてくる。
絵本は物語を運んでくれるだけじゃない。
親の記憶まで静かに包んで、とっておいてくれる。
まるで、小さなタイムカプセルみたいだ。
2歳のころ、夢中になって聞いていた『まり』。
3歳になった娘は、うれしそうに耳を傾けながら、問いを重ねていた。
一冊のなかに、去年の君と、今日の君がいる。
そのことが、なんだかたまらなくうれしい。
「自分で!」が増えていく日々は、手を貸すタイミングに迷ったり、見守る根気を試されたりもする。
けれどそれは、この子が自分の足で立ち、自分の力で世界へ向かっていこうとしている証なのだろう。
絵本の前でも、暮らしのなかでも。
少しずつ、でもたしかに。
今日も娘は、自分の手で一冊を選び、自分のことばで問いを見つけた。
オレンジ色の絵本ライトに照らされた、小さな横顔。
その真剣なまなざしが、なんだかとても、まぶしかった。
喜木 拝
