
図書館には、出席簿がない。
毎日来なくても、遅刻しても、誰にも叱られない。
一冊も借りず、ただ椅子に座って帰るだけでもいい。
本好きを公言する私にも、活字が読めなくなった時期がある。
大学3年生のころ、病気になった。
教科書を開いても、文字は目に入るのに意味にならない。
同じ行を何度読んでも、内容が頭を滑り落ちていった。
本が大好きだった。
本を読むことは、私の一部だった。
だから、読めなくなった私は、もう私ではないような気がして。
勉強も就職活動も止まり、私を置いて、未来だけが先へ進んでいくようで、こわかった。
そんなとき、妹がお見舞いに差し入れてくれたのが、仏像の写真集だった。
文字を追わなくていい。
意味を覚えなくてもいい。
静かな仏像の顔を眺め、ただページをめくる。
そのあいだだけ、止まっていた時間が、ほんの少し動きだすようだった。
それから、犬の写真に添えられた短い言葉が読めた。
好きな歌の歌詞を、一行ずつ目で追うこともできた。
「読めない」の中にも、小さな「読める」が残っていた。
一冊を読み切れなくても、私は本から完全に離れたわけではなかった。
妹が届けてくれたのは、ただの本ではない。
私が世界へ戻るための、小さな入口だった。
学びは、一本道ではない。
教科書を最初から最後まで読むことだけでも、決められた速さで、みんなと同じ道を進むことだけでもない。
立ち止まり、遠回りをし、ときには一枚の写真から始めてもいい。
いま、私は図書館で働いている。
図書館では、何冊読んだかを競わない。
読む速さも、理解した量も問われない。
昨日来られなかった理由を、説明しなくてもいい。
未来のために私ができることは、図書館を「読める人だけの場所」にしないこと。
長い物語だけを「読書」と呼ばず、写真集も、絵本も、短い言葉の本も、その人なりの入口として手渡したい。
九月が来るのがこわい人へ。
学校へ行けない日があっても、学びまで消えるわけではない。
今日を生きることで精いっぱいなら、今日はそれでいい。
あの日、妹が私に届けてくれた本のように、
今度は私が、誰かの小さな「読める」を守りたい。
図書館には、出席簿がない。
学びは逃げない。
本は、あなたが読める日まで、静かに待っている。