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Photo byayakonishihara

本を開けない人のために、席を残す。

    本を一冊も開かずに帰った人を、図書館の利用者と呼べるだろうか。
    私は公立図書館で働く司書として、その人のためにも席を残したいと思う。

    図書館の成果は、貸出冊数や来館者数のような、数えられるものによって語られやすい。
    けれど、ただ椅子に座って帰っただけの人にとって、その時間がどんな意味をもっていたかまでは、数字に残らない。

    街のなかで、何も買わず、用事を説明せず、何者にもならずにいられる場所が、どれだけあるだろうか。
    図書館には、まだ、座る理由を問わない椅子がある。
    もし図書館まで「本を読む人」のためだけの場所になったら、本を開けない人は、どこへ行けばいいのだろう。

    開館前の図書館には、空の椅子が並んでいる。
    まだ誰のものでもない席が、扉の開く時間を待っている。

    やがて、本を何冊も抱えた人がやってくる。
    新聞を広げる人、ノートに何かを書きつづける人もいる。
    本を開かず、しばらく座って帰る人もいる。

    私はいつも、そんな風景をカウンターから見つめている。
    その人が何をしているかは見えても、何を抱えてここへ来たのかまでは見えない。

    私にも、本が好きなまま、本を開けなくなった時期があった。
    読みたい本がわからなかったのではない。
    目だけが文字の上を滑り、意味は残らなかった。
    もしあの頃、「何が読みたいですか」と尋ねられても、うまく答えられなかっただろう。

    だからといって、何も読んでいない人の気持ちがわかるわけではない。

    疲れているのかもしれない。
    待ち合わせかもしれない。
    ただ少し、家ではない場所にいたいだけかもしれない。

    その人の理由を、私は知らない。
    知らないまま、同じ時間を過ごすことはできる。

    司書は、本と人をつなぐ仕事だ。
    本を探す人には、できるかぎりの手助けをする。
    けれど、何も求めていない人の沈黙まで、急いで言葉で埋めなくていい。

    本を読む。勉強する。調べものをする。
    図書館で過ごす時間にも、私たちはつい目的を求める。
    けれど、何もしなかった一時間が、その人の明日を支えることもある。
    私には、それを確かめる方法はない。
    むしろ、確かめなくていい。

    未来のために、司書の私ができることは、立ち止まった人を急かさず、ただそこにいる時間を守ること。
    誰かが何者にもならずにひと息つける余白を、街に残す。

    閉館後、椅子はまた空になる。
    明日、誰が座るのかはわからない。
    わからないまま、その席を残しておく。





     
     
    本が好きなのに、今は読めないあなたへ。 本とことばで、忙しい毎日に小さな余白を届けます。 図書館司書/4歳娘の母/ブックシェアコーディネーター。 メンバーシップ「凛のことのはライブラリー」運営中。

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