
エモいって、読者の「記憶の本棚」が勝手に開くことだと思う。
「エモいエッセイって、どう書けばいいんでしょうか」
その一行を読んだ瞬間、胸の奥で、カタン、と音がしました。
読者の「記憶の本棚」が、勝手に開くときの音。
わたしが初めて「エモい」と言ってもらったエッセイは、夫との話でした。
がっつり愛の話。けれど、エモさを狙ったわけではありません。
こちらです👇
……と紹介しておきながら、ひとつ困ることがあります。
うちの夫、たぶん読んでません。
読まないんです、ほんとに。
感想はコメント欄ではなく、食器洗いで表現する男。
「読んだよ」とは言わないのに、なぜか翌朝シンクが空っぽだったりする。
だから私は、ときどき思います。
この人にとって「スキ」は、洗濯物を取り込むことなんだろうな、と。
でも、春がくるたび思い出すんです。
夫とのなれそめを。
桜の名所でも、ドラマの夜景でもなくて。
わたしたちの“物語の発生地点”は、もっと生活感のある場所でした。
ショッピングモールの外、エスカレーターの下。
「待ち合わせには便利だけど、告白の舞台としては地味すぎない?」っていう地点。
だけど、そこがよかった。
特別じゃない場所で起きたから、特別に見えた。
イベントとしての恋じゃなくて、生活としての恋が、始まった気がした。
そして、あの瞬間の私は、最高に不器用でした。
告白って、本来は「好き」って返したら終わるはずなのに、
私はたぶん、変な返事をした。
自分でも「今それ言う?」ってなるようなやつ。
でも夫は笑って、ちょっと困った顔をして、
それでも受け止めてくれました。
名セリフじゃない。
名場面でもない。
でも、“格好悪い言葉”が出てしまったときに、相手が離れないこと。
たぶん、愛ってこういうところにあるんだな、と思ったんです。
それから、結婚式が延期になった春が来ました。
予定していた未来がいったん宙に浮いて、
「大丈夫」と言い切れない空気が、部屋に薄く残る。
でも桜は咲いて、わたしたちは歩きました。
桜並木を、ふたりで。
そのときの会話の内容は、正直、あまり覚えていません。
たぶん「今日の晩ごはんどうする?」とか、そういうやつ。
人生の多くは、案外そういう会話でできている気がします。
それでも覚えているのは、足音です。
歩幅が合う感じ。
隣にいるだけで呼吸が少し楽になる感じ。
言葉の代わりに、体温が「ここにいるよ」と言ってくれる感じ。
そして、桜柄の婚姻届の台紙に名前を書いた日。
ペン先がカリカリ鳴って、文字が増えていくたびに、
胸の奥が静かに熱くなりました。
人生の大事な場面って、意外と“紙”でできている。
誓いも、手続きも、決意も。
夫婦の始まりが窓口で確定するのは、現実的すぎるのに、なぜかちゃんと沁みる。
あの紙に名前を書いた指先の感覚は残っている。
あの日から、わたしたちは「好き」だけじゃないところを一緒に生きている。
予定がずれても、気持ちが揺れても、日々が続くってことを、ふたりで覚えていった。
たぶん、あのエッセイが「エモい」と言われたのは、
大恋愛だったからじゃなくて、
こういう“どうでもいいようで、どうでもよくない細部”が、ちゃんと置いてあったからなんだと思います。
ヤスさんも仰る通り、思い出そうとしなければ思い出さない記憶って、ふいに呼び起こされる。
その瞬間に、人は「エモい」と感じるのかもしれません。
それから、なんとなく、エモいエッセイを書こうとしてました。
あの感じを、もう一度出したくて。
でも狙えば狙うほど、文章は整うのに体温が消えるんです。
「泣ける」と書くほど泣けない。
「尊い」と書くほど尊くない。
エモさは、追いかけると逃げる。
今回の質問をみて、はたとエモいとは何だろうかと考えました。
言語化する機会をありがとうございます!
わたしの暫定結論は、こうです。
エモいって、書き手が感情を押し付けることじゃなくて、
読者の中で勝手に“検索”が始まること。
文章を読んでいる途中で、読者の「記憶の本棚」が勝手に開く。
そこから読者は、自分の過去を勝手に取り出して、勝手に熱くなる。
泣くのも笑うのも、たぶんその人の人生のほうで起きている。
だから書き手ができるのは、たぶんひとつだけ。
読者の本棚の鍵になりそうなものを、そっと置くこと。
エスカレーターの下。
春の風。
並んで歩く足音。
紙に名前を書く指先。
感想の代わりに食器を洗う人。
こういう細部が、読者の中の「わたしにもあった」を呼び起こす。
そして気づいたら、カタン、と音がする。
エモいって、読者の「記憶の本棚」が勝手に開くことだと思う。
その音が鳴ったとき、愛も一緒に戻ってくる。
しらんけど。
喜木 拝
追伸 もしこの文章で、あなたの胸の奥でも「カタン」が鳴っていたら、嬉しいです。