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Photo byflower_koibana

本は、手を覚えている。|#ミニカキングダム【掌編小説】

    吾輩は本である。

    名前はある。表紙にも背にも、きちんと書かれている。けれど図書館では、名前よりも背中の番号で居場所を決められることが多い。

    人間は、自分たちだけが本を読んでいると思っている。

    とんでもない。

    吾輩たちもまた、人間を読んでいる。

    ただし、顔は覚えていない。吾輩に見えるのは、ページの上に落ちる影と、自分を開く手だけである。

    手は、口よりも正直だ。

    続きを急ぐ手。結末を怖がる手。同じ一行を何度もなぞる手。泣いたことを隠すように、雫の跡を袖で拭う手。

    長く棚にいると、いろいろな手に出会う。

    なかでも、忘れられない二つの手がある。

    ひとつは、細い金色の指輪をはめた、しわの深い手。もうひとつは、ページの端まで届くのがやっとの、小さな手だった。

    二つの手は、毎週土曜日に吾輩を棚から連れ出した。

    小さな手は物語の続きを待ちきれず、いつも右下の角を二度叩く。

    とん、とん。

    すると、しわの深い手が、その上にそっと重なった。

    「だいじょうぶ。お話は逃げないから」

    声が最後の行へたどり着くと、二つの手は一緒にページをめくった。

    季節が巡るたび、小さな手は大きくなった。届かなかったページの端にも、いつしか楽々と指が届くようになった。

    それと入れ替わるように、しわの深い手は薄くなり、一枚をめくる時間が長くなった。

    やがて、小さな手は来なくなった。

    本は、人間の事情を尋ねない。ただ背を向けて棚に並び、もう一度選ばれる日を待つのみである。

    しわの深い手は、それからも、ときどき一人でやってきた。

    最後の日、その手は吾輩の表紙を何度も撫でた。

    「たくさん読ませてもらったね」

    それきり、二度と現れなかった。

    幾年かが過ぎた。破れた背は直され、透明なフィルムも張り替えられた。

    ある雨の日、女の手が吾輩を棚から抜き出した。そばには、まだ字の読めないほど小さな女の子がいる。

    「これね、ママがおばあちゃんに、何度も読んでもらった本なの」

    女の手が、右下の角を二度叩いた。

    とん、とん。

    吾輩のページが、かすかに震えた。

    あの小さな手だ。

    女の子が、続きを急いでページへ手を伸ばす。その上に、かつて小さかった手がそっと重なる。

    「だいじょうぶ。お話は逃げないから」

    人間の手は、いつか離れる。

    それでも、触れたぬくもりまで消えるわけではないらしい。

    吾輩は本である。

    遠くへは行けないが、ここで待つことならできる。

    おかえりなさい。

    吾輩は背を少し軋ませ、あの日の続きを差し出した。



    (本文・1000字)




    あとがき

    書く部の企画「#ミニカキングダム 」に参加します。
    今回のテーマは「手」。

    前回は掌編小説で撃沈しましたが、今回も懲りずに、エッセイではなく創作で挑みます。

    冒頭の「吾輩は本である」には、夏目漱石『吾輩は猫である』への小さなオマージュを込めました。

    手から手へ受け継がれていく物語を、図書館の本の視点から綴っています。

    ご感想をいただけたら、とても嬉しいです。

    喜木 拝

    企画についてはこちら👇


     
     
    本が好きなのに、今は読めないあなたへ。 本とことばで、忙しい毎日に小さな余白を届けます。 図書館司書/4歳娘の母/ブックシェアコーディネーター。 メンバーシップ「凛のことのはライブラリー」運営中。

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