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最初の扉の向こう側

    「『ま』って、どうやって書くの?」

    その日、4歳になったばかりの娘が突然、私に聞いた。

    どうして「ま」なのだろう。

    少し不思議に思いながら、私は食卓に置かれた、色とりどりのチラシを一枚手に取った。

    裏の白い部分には、すでに娘が描いたいくつかの線や、家族の覚え書きが散らばっていた。

    私はその隙間を見つけ、ボールペンで見本を書いた。

    「こうやって書くんだよ」

    娘は見本をじっと眺めながら、同じようにペンを動かす。

    初めてなのに、案外上手に書くものだなぁ。

    私は感心しながら、その小さな手元を見つめていた。

    娘はひとつ目の「ま」を書き、続けてもうひとつ「ま」を書いた。

    まま。

    娘の書いた「ま」は、丸くなりきれず、少し角ばっていた。

    それでも、ふたつ並べば、たしかに「まま」だった。

    「まま、書けた」

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    娘は少し照れくさそうに言った。

    その二文字が、私を指しているのだとわかった瞬間、涙が出るかと思った。

    「上手に書けたね」よりも先に、口からこぼれたのは、

    「ありがとう」

    だった。

    なぜ、お礼を言ったのだろう。

    文字の書き方を教えたのは、私のほうなのに。

    けれど、あの丸が惜しい、たどたどしい「まま」は、文字の練習というより、娘から受け取った小さな手紙のように見えて。

    私にとって、文字はずっと、さまざまな世界へ続く扉だった。

    本を開けば、知らない場所へ行ける。
    会ったことのない人の心にも触れられる。

    けれど、その扉を開けられなくなった時期もある。

    病気で活字が読めなくなったとき、私は本の世界から締め出されたように感じた。

    だからこそ、文字の扉は、いつでも誰にでも簡単に開くものではないことを知っている。

    娘に無理に文字を教えようとはしなかった。

    一緒に絵本を読み、娘が知りたいと言ったときに答える。
    それくらいでいい。

    いつか娘が自分から扉を開けたくなったとき、そっと手を添えられればいい。

    ずっと、そう思っていた。

    あの日、私は「ま」の形を見せただけ。

    その文字をふたつ並べ、ひとつのことばにしたのは娘。

    同じ文字を二回書けば完成するから、たまたま選んだだけかもしれない。

    そこに、大人が考えるような深い理由などなかったのかもしれない。

    それでも、娘が初めて「書きたい」と思ったことばは、「まま」だった。

    私は娘のために、ことばの扉を開いてあげているつもりだった。

    けれど、あの日、扉を開けたのは娘のほうで。

    小さな手でボールペンを握り、たくさんの線や文字が散らばるチラシの裏に、丸が惜しい「ま」をふたつ並べて。


    その扉の向こうに、私がいた。





     
     
    本が好きなのに、今は読めないあなたへ。 本とことばで、忙しい毎日に小さな余白を届けます。 図書館司書/4歳娘の母/ブックシェアコーディネーター。 メンバーシップ「凛のことのはライブラリー」運営中。

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