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読めなくなった本の続きを、私は書いている。

    目は見えているのに、文字が読めなかった。

    ページの上に、ひらがなも漢字も、たしかに並んでいる。
    けれど、理解することができない。

    一文字ずつ目で追っているはずなのに、意味を結ぶ前に頭の中からさらさらとこぼれていく。
    何度も同じ行に戻る。
    今、何を読んでいたのか分からなくなる。
    登場人物の名前も、文章の流れも、つかまえようとした瞬間に指の間から逃げていってしまった。

    本が嫌いになったわけではなかった。
    むしろ、好きなままだった。
    だからこそ、つらかった。


    幼い頃から、本が好きだった。「本が好き」という言葉は、私にとって趣味というより、自分自身を説明する言葉に近かった。
    本のある場所にいると安心した。図書館の静けさ、本棚の背表紙、ページをめくる音。そこには、いつも私の知らない世界が並んでいた。

    本を開けば、どこへでも行けた。知らない町へも、遠い国へも、現実では会えない人の心の中へも。自分の暮らしている場所から動かなくても、ページの向こうにはいくつもの人生があった。

    子どものころの私は、本の中に逃げていたのかもしれない。でも、それはただの逃避ではなかった。本は、世界から離れるためのものでもあり、同時に、世界を知るためのものでもあったから。

    自分の言葉ではうまく説明できない気持ちに、物語の中で出会う。
    誰にも言えなかった寂しさを、登場人物が代わりに抱えてくれているような気がした。

    「私だけではなかったのだ」と、何度も救われた。

    本を読めなくなったとき、私はただ趣味をひとつ失ったのではない。
    帰る場所を、ひとつ失ったのだ。

    大学生のころ、私は病気をした。 病名を告げられたときのことよりも、今でもはっきり覚えているのは、活字が頭に入らなくなった日の感覚だ。

    本を開いても、読めない。新聞も、授業の資料も、小説も、どれも同じだった。文字はそこにあるのに、私の中に入ってこない。
    それまで息をするように当たり前にしていた「読む」という行為が、急に遠いものになった。

    本好きだった私にとって、それはあまりにも大きなショックだった。
    病気であることも怖かったし、これからどうなるのか分からないことも不安だった。でも、それ以上に「私はもう本を読めないのかもしれない」と思ったことが、私を深く落ち込ませた。

    本が好きな私。
    本を読んできた私。
    本のそばにいることで、自分を保ってきた私。
    その「私」の輪郭が、ぐらぐらと崩れていくようだった。

    読めなくなって、初めて知ったことがある。
    読むことは、決して受け身の行為ではない。
    ただ目で文字を追えば、自然と文章が入ってくるわけではないのだ。

    読むには、力がいる。
    集中する力。
    想像する力。
    前の一文を覚えながら、次の一文へ進む力。
    文字を意味に変え、その意味を自分の中にそっと置く力。

    本を読むとは、こんなにも能動的な営みだったのだ。

    読めていたころの私は、そのことに気づいていなかった。本が読めることを、あまりにも当たり前のこととして受け取っていた。 心と体が、どうにか今日を生きることで精一杯のとき、文字は簡単に遠ざかる。疲れきっているとき、物語の中に入ることはできない。自分の中に余白がないと、誰かの言葉を受け取ることはできないのだ。

    本を読めないことがある。
    言葉が入ってこない日がある。
    ページを開いただけで、苦しくなる夜がある。
    そのことを、私は自分の体で知った。

    それでも、私は言葉を手放せなかった。 長い文章は読めなくても、短い言葉なら拾える日があった。本の世界に入れなくても、自分の中からこぼれた言葉を、ノートの上に置くことはできた。

    きれいな文章ではなかった。誰かに見せるためのものでもなかった。ただ、書いた。

    苦しい。
    不安。
    怖い。
    どうして。
    助けて。

    そんな言葉ばかりだったかもしれない。けれど、書いているあいだ、私は少しだけ自分とつながっていられた。

    頭の中でぐるぐるしていたものが文字になると、ほんの少し距離を置いて見られるようになった。自分の中にあったものが、紙の上に出てくる。それだけで、呼吸がしやすくなることがあった。

    読むことが、外から言葉を受け取ることだとしたら。 書くことは、内側にある言葉を外に置くことなのかもしれない。

    私は、読むことで世界とつながってきた。そして読めなくなったあと、書くことで自分とつながり直そうとしていた。 もちろん、書けばすべてが解決するわけではない。文章にしたからといって、病気が消えるわけでも、現実の不安がきれいになくなるわけでもない。それでも、書くことには、私を私のまま生かしてくれる確かな力があった。


    今、私は図書館で働いている。
    本を読めなくなったことのある私が、本のそばで働いている。
    少し不思議なめぐり合わせだ。

    カウンターに立ち、本を受け取り、本を渡す。棚に本を戻す。誰かが探している一冊にたどり着けるように手伝う。 図書館には、本をたくさん読む人も来る。久しぶりに本を借りる人も来る。子どもに絵本を読んであげたい人も来るし、何を読めばいいのか分からないまま、棚の前に立っている人もいる。

    本は、読める人だけのものではない。
    今は読めない人にも、読む気力がない人にも、何年も本から離れていた人にも。
    本は「いつかまた開かれるかもしれない扉」として、そこにある。
    私はそれを、少しだけ信じている。

    母になってからは、娘と絵本を読む時間が増えた。 子どもは、同じ本を何度も持ってくる。こちらがもう暗記してしまったようなページを、何度もめくる。読んでいる途中で別の遊びを始めることもあるし、こちらの声を聞いているのか分からないこともある。

    でも、ふとした瞬間に、絵本の中の言葉を口にする。
    ああ、届いていたのだと。

    言葉は、すぐに芽を出すとは限らない。読んだその日に、何かが変わるとは限らない。けれど、どこかに残ることがある。ずっと後になってから、ふいに心の中で開くことがある。

    私自身もそうだったように。

    子どものころに読んだ本の言葉が、大人になってから急に戻ってくることがある。昔は分からなかった物語の意味が、人生の別の場面で、やっと分かることがある。 本は、読み終わった瞬間に終わるものではない。その人の中で、時間をかけて続いていくもの。

    だから私は、今、書いている。
    読めなかった日の私に向けて。
    言葉が遠くなってしまった誰かに向けて。
    本を好きだったはずなのに、ページを開けなくなってしまった人に向けて。うまく生きられないまま、それでも今日を越えようとしている人に向けて。

    届くかどうかは分からない。
    私の文章は、誰かの人生を大きく変えるものではないかもしれないし、賞を取るような特別な文章でもないかもしれない。 けれど、かつて私が本に支えられたように、誰かがほんの一瞬でも「私だけではなかった」と思えるなら。それだけで、書く意味はあるのではないか。

    幼いころ、本は私に世界を見せてくれた。
    病気をしたとき、本を読めなくなった私は、その世界から閉め出されたように感じた。でも、言葉は完全には私を見捨てなかった。

    読めない日があってもいい。
    本から離れる時期があってもいい。
    言葉を受け取れない夜があってもいい。

    物語はまだ終わっていないのだから。

    読めなくなったあの日、私の読書人生は終わったのだと思った。
    でも、終わりではなかった。

    読む人だった私は、書く人にもなった。
    本の中に居場所を探していた私は、今度は誰かが少し腰を下ろせるような言葉を、そっと置いてみたい。

    読めなくなった本の続きを、私は今日も書いている。

     
     
    本が好きなのに、今は読めないあなたへ。 本とことばで、忙しい毎日に小さな余白を届けます。 図書館司書/4歳娘の母/ブックシェアコーディネーター。 メンバーシップ「凛のことのはライブラリー」運営中。

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