
魔法が使えない母の話。
私の母は、わりと「できる人」だった。
専業主婦だった頃は、家の中をきれいに整え、料理を作り、お菓子まで作ってくれた。
働き始めてからも、家事の多くをひとりで担っていたように思う。
子どもの頃の私は、それを当たり前のように見ていた。
夕方になればごはんができている。
洗濯物は畳まれている。
部屋はそれなりに片づいている。
たまには手作りのお菓子が出てくる。
思えば、あれは当たり前なんかではなくて。
母はきっと、眠い日もあっただろう。
疲れている日もあっただろう。
何もしたくない日だって、あったはず。
それでも子どもの私から見る母は、何でもできる人だった。
家の中を整え、食卓を整え、家族の毎日をくるくるとまわしていく。
まるで、杖を振る魔法使いみたいに。
今は私にも3歳の娘がいるけれど、ついに気づいてしまった。
私は、魔法が使えない。
部屋はすぐに散らかる。
洗濯物は畳む前に山になる。
料理は手抜きの日も多い。
お菓子作りなんて、よほど気持ちに余裕がある日でなければできない。
仕事をして、娘を迎えに行って、ごはんを食べさせて、お風呂に入れて、寝かしつける。
それだけで一日が終わってしまう。
寝落ちして、夜中に目が覚めて、流しに残った食器を見てため息をつく。
朝になれば、また慌ただしく一日が始まる。
少し前まで、母になれば自然とできるようになるのだと信じていた。
あの頃の母のように、家のことも、子どものことも、仕事も、きっと何とかできる力が自分の中に湧いてくるのだと。
でも、そんな魔法はどこにもなかった。
できない自分が、苦しかった。
母ならもっとちゃんとできるはずなのに。
もっと穏やかでいられるはずなのに。
そんな見えない「はず」が、いつの間にか私をきつく縛り、責めていた。
母のようにはできない。
それは、ずっと少し苦しい。
でも、私は私なりに、今日も娘のそばにいる。
寝る前に絵本を読む。
娘の言い間違いを、心の中でそっと宝物にする。
小さな手をつないで歩く。
疲れて怒ってしまった日は、「さっきはごめんね」と言う。
完璧な食卓ではない日もある。
片づいていない部屋で笑っている日もある。
余裕がなくて、反省ばかりの夜もある。
それでも、娘は私の膝にのってくる。
「ママ、見て」と言う。
「読んで」と絵本を持ってくる。
そのたびに、 魔法が使えないままでも、私は私のまま、母でいていいのかもしれない、と思えて。
いつか娘が大きくなったとき、私のことをどう思い出すのかはわからない。 料理上手なお母さんではないし、いつも部屋をきれいにしていたお母さんでもない。何でも完璧にこなす、魔法使いのような母では、きっとない。
それでも。
一緒にめくった絵本のページ。
帰り道に見上げた空のグラデーション。
ぎゅっと手をつないだときのやわらかな感触。
眠る前に耳元で聞こえた声。
何でもない日に、ふたりで笑い合ったこと。
そういう小さな記憶の欠片が、娘の中に残ってくれたらいい。
完璧ではないデコボコな日々も、あとから振り返れば、少しだけ魔法みたいに光ることがあるのだから。
母は魔法使いではない。
少なくとも私は、魔法が使えない母だ。
それでも今日も、こぼれた牛乳を慌てて拭く。
娘の髪を不器用に結ぶ。
絵本を一冊読む。
「おやすみ」と囁く。
そんな小さなことを、ひとつずつ、ひとつずつ重ねながら、私は私なりの母になっていく。
魔法は使えない。
なにか魔法みたいに残るものを、いつか娘に手渡せたら、それでいい。
喜木 拝