
向かいにいた人が、隣にいる。
付き合い始めたのは2017年4月。
恋人になって初めてふたりで入った喫茶店は、珈琲館だった。
テーブルの向こう側に座った彼は、まだ私の「夫」ではなかった。
これからふたりの関係がどこへ向かうのか。結婚するのか、家族になるのか。そんな未来は、まだ輪郭さえ持っていなかったころ。
そこで彼は、なぜかきっぱりと言った。
「俺はずっとこのまま変わらない」
ずいぶん思い切ったことを言う人だ。
その言葉が妙に心に残ったのは、私はすでに、人が関係の中で変わる怖さを知っていたから。
以前、付き合っていた人は、付き合う前とあとでずいぶん変わった。恋人になると私の女友達にまで張り合うようになり、大切な友人との時間にも見えない綱引きが生まれた。どちらにも気を配りつづけて、私はすっかりへとへとになった。
近づくはずだったのに、恋人になるほど息苦しくなっていった。
だから私は知っていた。人は変わる。少なくとも、関係が変われば、見せる顔は変わる。
それなのに、目の前の彼は自分のことを疑いもせず、「変わらない」と言い切った。
ほんとうかな、と。
すぐに信じることはできなかった。それでもその言葉が消えなかったのは、心のどこかで、ほんとうであってほしいと願っていたからかもしれない。
――あれから、9年がたった。
付き合い始めて3年後の2020年4月、私たちは付き合い始めた日と同じ日に籍を入れた。恋人になった日は、家族になった日でもある。
2022年には娘が生まれた。2026年の今、付き合って9年、結婚して6年。
答え合わせをするなら、夫はたしかに、あまり変わっていない。
家事を率先してやってくれる。仕事帰りには私の好きなものを買ってきてくれる。私がぐるぐる考え込んでいると、話を聞き、落ち着いて意見をくれる。だいたい正論なので、私はときどき黙り込む。
そして、ときどき確かめるように私に言う。
「俺って、いい旦那だと思うよ」
そのひと言さえなければ完璧なのに。
靴下の片方を探しているところも、自分がやった家事をきちんと申告するところも、昔から変わらない。やさしくて、真面目で、少しだけおしい。
けれど、たぶんその「少しだけおしい」ところまで含めて、夫なのだ。
付き合いはじめの頃、夫が好きな小説の話をしてくれたことがある。
その物語には、「この人が大丈夫と言うなら、大丈夫なのだろう」と、誰かの言葉を信じる場面がある。夫は、自分もそんな人になりたいと言った。
今、4歳の娘が転びそうになったとき、初めての場所で不安そうにしているとき、夫は静かに言う。
「大丈夫だよ」
娘は、その言葉を迷わず受け取る。
あのころ夫が思い描いていた人に、夫はもうなっているのかもしれない。そして私もまた、「この人が大丈夫と言うなら」と思う一人になっている。
やっぱり、夫の根っこは変わっていない。
夫は、私の世界を狭めなかった。友人も、書くことも、私が追いかける夢も、自分の競争相手にはしなかった。むしろ「好きなことをしてほしい」と、外へ向かおうとする私の背中を押してくれた。
誰かと近くなることは、その人以外の大切なものを手放すことではなかった。それは、以前の私が知らなかった近さだった。
けれど、本当に夫が何も変わらなかったわけではない。
恋人だった人は夫になり、父親になった。
私たちが大好きな横浜へ行くと、夫は今も海のほうを見る。付き合っていたころ、私は少し離れたところからその横顔を眺めていた。今はその手を娘が握り、私もすぐ隣を歩いている。
海を見る仕草は同じなのに、そこに重なる景色は変わった。恋人の横顔だったものが、いつのまにか父親の横顔になっていた。
変わらない人のまわりに、新しい時間が積み重なっていく。それを、家族になるというのかもしれない。
ただし、結婚したからといって、ふたりの距離が近づきつづけるわけではなかった。
同じ食卓にいても、夫の視線が携帯電話に落ちたままだと、私だけ取り残されたように感じる夜がある。
ほんとうは「今はこっちを見てほしい」と言いたい。それなのに、仕事で疲れているのだからと、理解のある妻のふりをして言葉を飲み込んでしまう。
向かい合っていたころには見えなかったものが、隣にいるとよく見える。
やさしさも、頼もしさも。不器用さも、弱さも。
そして、すぐそばにいるからこそ生まれる、さみしさも。
隣にいることと、いつも心が近いことは、同じではない。
夫婦の距離は、一度縮まったら終わりではなく、近づいたり離れたりしながら、何度も測り直していくものだった。
家族で上野動物園へ行った日のことを思い出す。
帰り際、娘が売店のぬいぐるみを欲しがった。夫と私は、相談も目配せさえもしなかった。それでも、ほぼ同時に「今日は買えないよ」と伝えた。
そのあと、娘は泣き、夫は腹を立て、私も泣きたくなった。
同じ答えを持っていても、同じ歩幅で進めるとは限らない。夫は少し離れ、私は泣きつづける娘を抱いた。家族なのに、三人がばらばらの場所に立っているようだった。
けれど、駅前で見かけたパントマイムに娘が笑い、張りつめていた空気は少しずつほどけていった。
帰り道、夫はぽつりと言った。
「今日を、上野の乱と呼ぼう」
私は笑った。さっきまであんなに遠く感じていた人が、そのひと言で、また隣に戻ってきた。
夫婦は、いつでもぴったり寄り添えるふたりではない。
同じ場所にいながら、違う景色を見てしまう日もある。
うまく言葉を渡せず、背中を向ける夜もある。
それでも、何度でも同じ側へ戻ろうとする。
夫の「大丈夫」だったり、私のたどたどしい本音だったり、「上野の乱」のような笑い話だったり。そのたびに私たちは、少し離れてしまった距離を測り直している。
結婚前に話しておいたほうがいいことは、たくさんある。
お金のこと、仕事のこと、家事や子どものこと。お互いの家族のこと。
けれど今の私が、あの日のふたりにもうひとつ尋ねられるなら、こう聞いてみたい。
「ふたりの距離が離れたとき、どうやって隣へ戻る?」
たぶん、当時の私たちには答えられない。結婚して6年たった今も、立派な正解は持っていない。
ただ、正解のない日々のなかで、何度も隣へ戻ってきたことだけは知っている。
もし、あの珈琲館に戻れるなら。
テーブルの向こうで「俺はずっとこのまま変わらない」と言った彼に、9年後の私は教えてあげたい。
あなたは、たしかに変わらないよ。
やさしくて、真面目で、少しだけおしいまま。
でもね、あなたの座る場所は変わる。
私の向かい側から、隣へ。
私の世界を狭めずに、そのまま隣へ来てくれる。
ふたりのあいだには、小さな娘がやってきて、私たちは近づいたり離れたりしながら、それでも同じ暮らしを見ていくことになる。
向かいにいた人が、隣にいる。
それが、付き合って9年、結婚して6年の、私たちなりの答え合わせだ。
(本文2762字)
【あとがき】
なぷしゃる様のエッセイコンテストに応募しています。
特別賞テーマ:「結婚前の答え合わせ」で綴りました。
来年で、付き合って10年。
変わらないものと、変わっていく距離の両方を大切にしながら、これからも何度でも、同じ側へ戻っていけたらと思います。
お読みいただき、ありがとうございます。
喜木 拝