
辞書も漫画も、写真集も——私にとっての「本」の定義
えなりかんなさんの「『本』の定義について考えてみた」を拝読しました。
辞書は本なのか。
漫画は本なのか。
写真集や画集はどうだろう。
記事を読みながら考えてみたけれど、私にとっては、どれも本だった。
辞書は、最初から最後まで通して読むものではない。
知りたい言葉があるときに引き、必要なところだけを読む。
漫画は、文字だけではなく、絵やコマの間、ページをめくるタイミングまで含めて物語を受け取る。
写真集は「読む」というより、「眺める」と言うことが多いかもしれない。
けれど、写真の選び方や並び方、余白にも、作り手の意図がある。
考えてみると、「本であること」と「本を読んだと感じること」は、分けたほうがよいのかもしれない。
辞書は引く。
写真集は眺める。
雑誌は拾い読みする。
絵本は声に出して読む。
漫画では、絵と文字を行き来する。
触れ方を表す動詞が違っても、それだけで本ではなくなるわけではない。
最近は、個人で制作するZINEもよく見かける。
部数が少なくても、ホチキスで綴じただけでも、誰かの小さな世界が一冊の形になっている。
雑誌も、書籍とは流通や刊行の仕方が異なるけれど、広い意味では本と呼べる気がする。
雑誌と書籍のあいだにはムックもある。
こうして境界に立つものを見ていると、本と本ではないもののあいだに、きっぱりと一本の線を引くことの難しさがわかる。
図書館では、資料を整理し、見つけやすくするために、図書や雑誌などを分けて扱う。
けれど、その区分はあくまで届けるためのものだ。
読者が何を本と感じるかまで、決めるものではないと思う。
私にとって本とは、
「誰かが選び、並べ、ひとまとまりにして、ほかの誰かへ手渡せる形にした世界」
なのかもしれない。
この定義では、法律や流通の世界では曖昧すぎるだろう。
けれど、ひとりの読者としては、これくらい広くていい。
辞書でひとつの言葉を引いた日も。
写真集の一枚に立ち止まった日も。
漫画の登場人物に心を重ねた日も。
それはすべて、本に触れた時間だ。
本の定義は、入口を狭くするための線ではなく、入口を増やすための輪郭であってほしい。
喜木 拝
本とは何かを、定義から考えたのは初めてかもしれません。
えなりさん、素敵な問いを投げかけてくださり、ありがとうございます。