
「ママはあっちいって」に、ちゃんと傷ついた。
最近、ちゃんと傷ついたことがある。
娘に、「ママはあっちいって」と言われたことだ。
たったそれだけの言葉、と言えばそうなのかもしれない。
3歳の子どもが言うことだ。
機嫌の波もあるし、自分でやりたい気持ちが強くなってきた時期でもある。
成長しているということ。
母親に安心しているからこそ言える言葉なのだ、とも聞く。
信頼の証なのだ、と言われれば、たしかにそうなのかもしれない。
育児書をめくるように、頭では、だいたいわかっている。
でも、わかっていることと、傷つかないことは、別だった。
「ママはあっちいって」
その言葉を聞くたびに、胸のどこかが、ほんの少しだけひやっとする。
大げさに痛むわけではない。
泣くほどでもない。
けれど、たしかに刺さる。
ああ、いま私は、いらないのだな、と思ってしまう。
ほんの一瞬でも、拒まれたような気持ちになる。
たぶん私は、母になってからずっと、娘の「いる」がうれしかったのだ。
見て。
来て。
読んで。
いっしょに。
だっこして。
そんなふうに求められることに、少し疲れる日もありながら、でもどこかでは、それを愛していた。
必要とされること。
自分がそばにいると安心してくれること。
それが、母である私の輪郭をつくっていた気がする。
だから、その反対側の言葉には、思っていたより弱かった。
「あっちいって」
それはたぶん、娘にとっては、その場の気分や、自分でやりたい気持ちの表れにすぎない。
でも私は、そこにいちいち意味を足してしまう。
私、邪魔だったのかな。
さっきの言い方が嫌だったのかな。
今日の私は、うるさかったかな。
そんなふうに、言われた以上のものまで勝手に受け取ってしまう。
しょっちゅう言わなくてもいいのに、と思う。
一日に何度も聞く日がある。
靴を履くとき。
服を着るとき。
何かを自分でやりたいとき。
気分がのっていないとき。
「ママはあっちいって」
「ママこないで」
「ママやだ」
きっと娘に悪気はない。
それもわかっている。
でも、悪気がないからこそ、なおさら無防備に刺さるのかもしれない。
子どもの言葉は、飾らない。
思ったことが、そのまま飛んでくる。
そのまっすぐさに、私はときどき、ちゃんと傷つく。
母親なのだから、もっと大きく受け止めるべきなのかもしれない。
成長の証として、笑って流せたらいいのかもしれない。
「はいはい、自分でやりたいのね」と、余裕のある声で一歩引けたらいいのかもしれない。
でも実際の私は、そんなにできた母ではない。
わかっているのに傷つくし、傷ついたことを、すぐには認めたくない。
子どもの言葉で傷つくなんて、大人げない気がしてしまう。
3歳相手に本気でへこむなんて、情けない気もする。
だから最初は、平気なふりをする。
「はいはい」と言って離れてみたり、別のことをしたりする。
けれど、平気なふりをしたままの気持ちは、どこかに小さく残る。
最近、ちゃんと傷ついたこと。
それは、娘の言葉そのものよりも、その言葉に傷ついてしまう自分を見つけたことなのかもしれない。
ああ、私、娘に必要とされたいのだろうか。
こんなにも。
ちゃんと、そばにいてほしい人でありたいのだ。
うるさがられても、手を焼いても、最後には「ママ」と戻ってきてほしいのだ。
それはたぶん、母のエゴでもある。
でも、愛情って、きっと少しエゴを含んでいる。
大事だからこそ、近くにいたい。
好きだからこそ、拒まれると痛い。
春から新しい場所へ通い始め、少しずつ自分の世界を広げている娘。
昨日まで当たり前に差し出されていた「一緒に」が減っていくかわりに、ひとりで立ちたい意志が育っていく。
それはとても喜ばしく、自然なこと。
「ママはあっちいって」 そのひとことで傷ついてしまう私は、たぶん少し幼い。
でも同時に、ちゃんと娘を愛しているのかもしれない。
どうでもいい相手の言葉なら、こんなふうに胸には残らない。
だから今日は、傷ついたことを、そのまま認めておきたい。
成長だとわかっていても、信頼の証だと知っていても、やっぱり痛かった。そんなしょっちゅう言わなくてもいいのに、と。
母だって、そんなに強くはないのだから。
それでも明日になれば、私はまた娘の服を選び、髪を結び、靴をそろえて、小さな手をひきながら幼稚園へ向かうだろう。
「ママあっちいって」と言われて、少し傷ついて、でもたぶん、その数分後には「ママ、きて」と呼ばれて、またすぐそばへ行ってしまうのだろう。
そうやって私は、傷つきながら、母でいる。
最近、ちゃんと傷ついたこと。
それはきっと、娘が少しずつ大きくなっている証であり、私がちゃんと母でいる証でもある。
喜木 拝
「最近、ちゃんと傷ついたこと」
