
公園のベンチと短編小説【読書さんぽ】
ホワイトデーの今日。
甘いお返しの話題が似合う日なのに、わたしの一日は、少しちがうやさしさで満ちていた。
今日は、3歳の娘の卒園式だった。
といっても、2歳クラスまでの小さな保育園。
「卒園式」と呼ぶにはまだ幼くて、けれど、たしかにひとつの区切りになる日だった。
ついこの前まで、朝の別れ際に泣いていた気がする。
まだ言葉もうまく追いつかなくて、気持ちをぜんぶ抱えたまま、先生の腕の中へ渡していたあの頃。
それが今日は、いつもより少しきちんとした服を着て、名前を呼ばれて、前に出て、拍手を受けていた。
子どもの時間は、どうしてこんなにも早いのだろう。
うれしいのに、すこしだけさみしい。
そんな気持ちを胸のどこかで持て余しながら、帰り道、公園のベンチに腰を下ろした。
午後の光はやわらかくて、
春がちゃんと近づいていることを、風が教えてくれていた。
娘は少し先で遊具のほうへ走っていき、
わたしは鞄の中から文庫本を取り出した。
長編を読むには短すぎる午後。
でも、何も読まないまま通り過ぎるには、少し惜しい午後。
そんな日に、短編小説はちょうどいい。
今日のわたしに必要だったのは、長い物語ではなく、いまの気持ちにそっと寄り添ってくれる短い物語だった。
公園のベンチで読む短編には、
部屋の中で読むのとはちがう読み心地がある。
子どもの声が遠くで響いて、
ブランコのきしむ音がして、
ページをめくる指先に、風が少しだけ触れる。
物語の世界に深く沈みこむというより、
今いるこの場所と、物語のあいだを行き来しながら読む感じ。
現実から離れすぎず、
でも、ほんの少しだけ別の景色を見せてくれる。
それが今日のわたしには、ちょうどよかった。
今日がホワイトデーだということを思い出したのは、
帰宅してからだった。
けれど、もうひとつ、今日は忘れたくない日でもあった。
父の誕生日だ。
夕方、卒園式の余韻がまだ残るなかで、じいじに電話をした。
電話口に出た父の声は、いつも通りで、
でも、娘が「じいじ、おたんじょうびおめでとう」と言うと、
その声がふっとゆるむのがわかった。
うれしそうだった。
ただそれだけのことなのに、胸があたたかくなった。
生まれてきたことを祝われる日と、
育ってきたことをたしかめる日が、
同じ一日の中に重なっていた。
娘の卒園。
父の誕生日。
公園のベンチ。
そして、短い物語。
大きな出来事と、小さな読書が、
今日は不思議なくらい自然に並んでいた。
たぶん、短編小説が好きなのは、
人生のこういう“途中”に寄り添ってくれるからだと思う。
何かが完結する日ではなく、
何かが少しだけ動いた日。
言葉にするほどではないけれど、心に残る日。
そういう日の隣に、短編は静かに座っていてくれる。
今日は、きっと忘れない。
卒園式の帰りに見た公園の光も、
ベンチの少し冷たい感触も、
電話の向こうでうれしそうに笑う父の声も。
そして、そんな一日の途中で読んだ短い物語のことも、
わたしの中では、きっと同じ引き出しにしまわれていく。
この続きでは、
今日みたいな日に、どうして短編小説がこんなにも心に合うのか。
そして、公園のベンチで開いた一冊について、少しだけ書いてみたいと思います。