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【ファンタジー小説部門】『√365』│私を好きになって。

    ▼このお話は『√365』の一部です。「序章」を読んでいただければ、あとはどこからでも1話完結で読めます。

    #創作大賞2025
    #ファンタジー小説部門



     今日も、顔を上げることができなかった──。

     深夜のコンビニで、おにぎりを2つと、板チョコレートを1枚買ったときのことだ。
     店員はほっそりした、若い男の子だった……と思う。なめらかな白くて長い節くれだった指先しか見ていなかったからだ。

     手渡されたビニール袋を受け取り、「ありがとうございました」とぼそぼそ言って店を後にした私は、大きなため息をついた。情けない。いい年をして、人の目を見るのがこわい、なんて。

     コンビニに限らず、お店ではたいていそうだ。



     だから、さっき居酒屋で言われたことは腑に落ちなかった。

     薬指に真新しい指輪をした同期のミサが、頬を染めてスマホに向かってピースサインをしている。
     細長い個室の端で、後輩の三田くんとベテランの剣崎さんといっしょに、ぼんやりとそちらを眺めていた。


    「人見知りぃ? それなんかの謙遜すか」

     だぼっとしたオーバーサイズの背広に身を包み、太い黒縁のめがねをした三田くんはへらへらして手を振った。顔が赤い。3杯目のビールを飲み干したグラスの中で、溶けた氷がからんと音を立てた。

    「七瀬さん人見知りじゃないっす……。偏屈オタクの三田ですよ。俺と話そうなんて七瀬さんくらいのもんすよ」

    「そうよー。あたしなんてお局ツルギって恐れられてるんだからあ」

    「七瀬さんは、優しいんですよ」

    ……そんなことない。だって、私。





     頬が痛い。コートの襟元を合わせるようにしながら家に戻った。見上げると首が痛くなるほど高い。エントランスを抜け、エレベーターで一番上まで。

     玄関ドアを開けると、東京の夜景が広がった。

     部屋は仕切りひとつない、広い、広いワンルーム。
     窓ぎわに置かれたキングサイズのベッドを見てため息が漏れる。朝些細なことで喧嘩した夫は、こちらに背を向けてふて寝していた。


     店で10杯ほど飲んだけど、夜風ですっかり醒めたみたい。葡萄味の缶チューハイをあける。炭酸が抜ける音が好きだ。

     変な組み合わせだと思いながらも、おにぎりを頬張る。何度か寝返りを打っていた夫が起き出して、トイレに立った。

     リモコンを手にソファに沈みこんだ。
     海外ドラマを流す。


     再びふとんに潜り込んだ大きな背中がまた目に入り、灯りを落とした。

     ようやく映画の世界に没入できた。

     ヒロインに心惹かれる。──この人、この間の映画では見ているだけで苛立つような嫌な役だったのに。メイクも服もあまり違わない。なのに瞳が澄んでる。光が灯ってる。応援したくなる。

     不思議だ。演技がじょうずなのだろうな。

     演技。
     突然、答えが降ってきた。


     人との関係を築くために、わたしはきっと、いつも、なにかの役割を演じているのだ。

     お互いに助け合える信頼感のある同僚の役。
     親孝行で周りに自慢したくなるような娘の役。
     東京でバリバリ働いているキャリアウーマンの役。


     高校に入るまで、人間関係がうまくいった試しがなかった。

     ありのままの自分でぶつかるとうまくいかない。だから、試しにそれをやめてみた。といっても無意識にやったことで、今、答え合わせをしているような感じなのだけれど。

     嫌なことはオブラートにくるんで飲み込んでしまえ。相手の気持ちになって、言われたらうれしいだろうな、と思うことを選んで伝える。やってほしいと思っていることを考えて動く。


    「そのままの私を好きになって」


     その思いを捨てたら、人間関係は驚くほどよくなった。
     私が店員と目を合わせられないのは、演じる役割が思いつかなかったから、なのでは。
     それなら「感じのいい客」を目指せばいい。



     エンドロールが流れる。夫はむっくりと身体を起こして、カーテンの隙間から、夜の東京の街に目を落としていた。ベンチャー企業を経営しているとは思えない、どこか幼く頼りない横顔。

     同じ幼稚園だった彼は、演じる前の私を知っている。だから、うまくいかないのだろうか。


     役割を考えてみようか。

     物分かりの良い妻?
     同僚にうらやまれるような妻?
     ――よくできた完璧な妻?



     あれこれ思い巡らしながら、小鍋に牛乳を入れ、弱火にかける。

     ふつふつと小さな泡が立ってきたころ、板チョコレートをパキンと割って入れた。少しずつチョコレートの茶色がマーブル模様になっていく。ほぐれて、溶けていく。広い部屋のすみずみまで、甘ったるいにおいが広がっていくのを感じた。



     起き上がってきた夫にほかほかと湯気を立てるホットチョコレートを差し出す。
     彼は無言で隣に腰を下ろした。

    「観たい映画あるんだけど。眠くなるまで観る?」

     まだ少し棘のある声で、まっすぐ向いたまま彼はリモコンを手にした。私は頷いた。


     やっぱり演じられなかった。それはきっと、彼も。




    「”私”を好きになって」

     その思いが消えない限り、私たちは何度もぶつかり、互いにいらいらして、そして最後には仲直りをするのだろう。

     映画がはじまった。彼の肩にそっと頭を預けた。






    (2,000字)





    ▼この小説は『√365』の一部です。どのはなしから読んでも大丈夫な短編集ですが、序章と終章を読むと印象が変わると思います。

    ▼先週更新したのはこれ。

    ▼全5話の「恋が叶うサロン アンシャンテ」シリーズ




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    創作大賞2025/26中間選考通過(ミステリー小説&ホラー小説/エッセイ)│ 著書『時間が貯まる 魔法の家事ノート』(扶桑社/9刷)『365日のとっておき家事』(三笠書房)など国内外で9冊📚 │ 毎日更新4000日超✍️別名義で小説の大賞受賞歴があります。💛🏀🏹

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