メインコンテンツへスキップ

アートの現場から伝えたい:「四季の染み込んだ身体が、画面の底に息づく」~佐藤信太郎~

    佐藤信太郎、と聞くと都市の風景を思い浮かべる人が多いのではないか。建設中のスカイツリー、非常階段から見下ろした夜景。私もその一人だった。

    だからこそ、写真家・佐藤信太郎の「Boundaries」を見たとき、まず心を掴まれたのは単純にその美しさだった。

    崖に生い茂る草木の有機的な形と、デジタル処理による幾何学的な組み替えが同居し、自然美と造形美、人工美が一枚の画面の中で溶け合っている。異なる季節、異なる時間に撮られた画像が、植物の輪郭に沿って切り抜かれ、幾層にも重ねられている。

    けれど作家自身はこの作品を、「感情移入しやすい一般的な写真の遠近法とは違う」「感情移入を拒む画像は写真の物質性をあらわにする」と語っている。

    物語への没入を意図的に断ち切る構造のはずなのに、私はただ美しいと感じてしまった。ここに、作家の意図と鑑賞者の感覚の、ちょっとしたパラドックスがある。

    もっとも、佐藤ほどのキャリアを持つ作家が、この画面の美しさに気づいていないはずがない。物語的な没入の回路を塞いでおいて、質感や層そのものへの感覚的な没入を差し出す——そういう、もう一段深いところでの「わな」に、まんまと私がはまっただけなのかもしれない。

    そこで気づいたのは、Boundariesが四季という「境界」をいったん解体し、同時に見せてしまう作品でもあるということだ。

    日本には古くから、屏風の四季絵のように、移ろう季節をひとつの画面に共存させる美意識がある。四季のある国に生きてきたからこそ生まれた発想なのかもしれない、とふと感じた。


    もう一つは、佐藤の経歴である。
    代表作「非常階段東京」は、空気の澄んだ真冬を選んで撮影されている。

    裏路地の非常階段に幾度も足を運んでは、寒さやビル風を全身で受けながら、都市の光を見つめ続けてきた。共同通信社の写真記者出身という経歴も、現場に足を運び、過酷な状況も含め、その場の空気を体で受け止める。日本の四季のなかで。

    そんな体質、というか道のりとも無縁ではないだろう。

    都市の夜景に、佐藤は隅から隅まで気を配った厳格な構図をとっている。
    大胆に都会を切り取っているようでいて、そこに大型カメラを据えるまでには、幾晩にもわたる場所選びや試行錯誤があったはずだ。

    Boundariesの画面構成と色彩も、極めて繊細だ。ここにこの色がなければ、という一種の厳格さを感じる。それもまた、身体で場所を選び、条件を選び抜いてきた経験の延長線上にあるのだろう。


    風景写真家や自然写真家は、季節のいちばん美しい瞬間を狙って撮る。
    だが佐藤にとって四季は、撮る対象である前に、長年「耐える環境」だったのではないか。

    もし彼が四季のない土地に生きる写真家だったなら、Boundariesの発想には至らなかったかもしれない。

    画面上でデータを切り貼りし再構築する手法自体は、模倣しようと思えば誰にでもできる。けれど佐藤の場合、その手前に何十年分もの身体的な蓄積がある。真冬の非常階段に幾度も通い、凍えながら大判カメラを構えてきた、その経験があるからこそ、パソコンの前で画像を組み替える作業が、単なる技巧ではなく「身体が覚えた四季の記憶を、データという形で再演している」行為になる。

    デスクの前だけで完結する制作とは、決定的に違う質感を持つのは、そのためではないか。「重みの違い」は、素材の違いというより、その素材を獲得するまでにかけた身体的コストの違いなのだと思う。


    Boundariesの静かな美しさの奥に、何年もかけて都市の寒暑を全身で浴びてきた写真家の記憶が、意図せず滲み出ているのではないか——そんな、こじつけかもしれない解釈を、私は勝手に楽しんでいる。

    9月の佐藤の個展では、このことをご本人に問いかけてみたいのだ。


    佐藤信太郎「都市百景」ギャラリートーク
    会場:MONO GRAPHY Camera & Art
    詳細・お申し込み:https://peatix.com/event/5129361

    佐藤信太郎の作品を見られるサイト
    公式サイト(都市シリーズ、Boundariesなど作品を掲載):https://sato-shintaro.com/jp/

    あなたへのおすすめ