
そもそも論_noteに手を伸ばした経緯
ここまで、とりあえずnoteを投稿してきたが、今更ながらなぜnoteを始めたのか、整理しておこうと思う。
(初心忘るるべからず、と言いながら、忘れてしまうのが人間というものなので、、)
日々の息苦しさからの脱出
まずはこれだ。とにかく、毎日が息苦しい。
原因はいろいろあるんだろうが、ぱっと思いつくのは、やはり、この繰り返しの日々と、固定化された人間関係が、これからもずっと続いていくのかということへの絶望感、のようなものだろうか。
どれだけ自分ができることを突き詰めて、精一杯あがこうとも、世の中や社会、果ては、自分のいる小さな職場の中でさえ、変えられる部分はほんのわずか、1桁%程度なのだと、ここ5年ほどで悟った。
他人は変えられないという言葉があるが、それをもっとしっくり来る言い方をすれば、
自分の周りの「環境」は、自分の思う方向にはほとんど変えられない
とかだろうか。
そうこうする中で、確実に何かを失っていく。
生活は、ものを言わずにただ続いていく。
そうであれば、やはり抜け出すしかないのだ、自分の脚で。
人生の短さを思って
身内の死というものを経験して、ようやく、人生がいかに短いものか、そして人はあっけないほどにきれいさっぱりと消えてしまうものなのか、それを言葉ではなく、感覚で理解できるようになった。
(それでも、自分の死ではない限り、どこまで行っても他人事としての死しか経験できないのだけれど)
我慢して生きようが、好きなように生きようが、自分を犠牲にしようが、周りに迷惑をかけようが、最後には何もなくなる。
時が過ぎれば、存在しないことが当たり前になる。存在した時間が、本当にあったのだろうかと疑ってしまうようにすらなる。
そうであれば、なぜ何かに遠慮して、何かに怖がって、何かに備えて、生きる必要があるんだろう。そう思った。
冗談ではなく、生きている時間はそんなに長くない。それを本気で考えるようになってから、少し自分の「感性の背骨」みたいなものが、変わってきたような気がしている。
できることに手を伸ばしてみたい
もともと、文章を書くことには興味があった。
大学生の頃には、とても青臭い話ではあるが、小説家になって、自分の書いた本で生計を立てられればと思ったこともあった。
(何の計画もチャレンジもせず、ただただ本が好きだ、ということの延長線上に夢見ただけのことなんだけれども)
もちろん、それはただの「雰囲気」でしかなかった。
ファッション、と言い換えても差し支えは無いだろう。思いつきで叶うようなものではないと理解していた。
だけど、ここまでに書いたようないろんなことがあって、むしろそういう、「現実的で理知的な自分」の枠を超えないようにすることが、今の行き詰まった自分を作り上げたのではないかと思うようになった。
何かをするには、完璧な準備をしなければならない。誰もが認める、確実な何かを積み上げた上でしか、物事は決してうまくいかない。甘さがあるうちは、何をやってもダメ。
理想が高く、自分に厳しいというふうに取られるかもしれないが、これこそが、新しい芽を全て摘んでしまっているのではないか。
ぐちゃぐちゃ言ってないで、できることは、とにかくやってみればいい。
あまりまとまっている気もしないし、頭の中にあることを表現できているとは言えないが、
とにかく、やる。
とりあえずこの1年は、この言葉に愚直になってみたい。
うまく言える日が来たら、また書き直せばいい。
そんなふうに思っている。