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幕間の告白

    人に惹かれたことはあるだろうか。
    それは恋愛的にではなく、ひとりの人として、という意味で。
    私にはある。今もこうして思いを馳せることができるほどに脳裏に焼き付いた光景がある。もしこれを読む貴方が、未だに人に惹かれた経験を持っていないのであれば、私の経験を少しばかりお裾分けしよう。
    忘れもしない、鳥肌が立つほどの高揚感。それは、その人が持っていた才能を間近で目撃した時のことである。


    幕間の告白


    非日常感、というのは言い様もない高揚感をもたらすものである。パイプ椅子が敷き詰められた体育館に足を踏み入れた時、ありきたりな表現だが、慣れ親しんだ筈の場所が新しい場所のように思えたものだ。
    「1組はどんな劇なんだろうね」
    「熊ちゃん先輩役者やるらしいよ」
    それって主役かなー、なんて公開前に拡散された微かな情報をかき集め雑談に花を咲かせる後輩が後ろから近づいてくる。弾むその声を聞いて、ようやく自分が体育館の入り口近くで立ち止まっていたことに気づいた。通路の妨げになってはいけないという規範意識と、上級生としての自覚に背中を押され、漸く自分の仕事にかかるべく舞台裏へと駆けだす。筒状に丸めた台本、何度も握りしめたそれに手汗が染み込む感触がした。

    中学校生活を彩る最後のイベントとして企画されていたものがある。
    それは3年生各クラスによる演劇。シナリオ選びから始め、舞台準備と運営までを行う一大イベントである。この学校の恒例行事であるそれは、教師陣と在校生が語り継いだ感想を聞くに、毎年完成度が高いらしい。思えば私が1年のとき、知り合いもいなければ興味もない劇を半ば強制的に観せられるこのイベントが大嫌いであったが、機材が惜しみなく使われた舞台は学生とは思えないクオリティに仕上がり、結果的にとても楽しかったのを覚えている。立場が追い付いた今、あの頃の私のように斜に構えた観客を何とか楽しませようと今の3年生達は必死だった。
    「配置OKでした、ついでにもう1・2年が入り始めてます。」
    舞台裏に入ってすぐ、全体に聞こえるように声をかける。舞台裏には自クラスを含め、各クラスの大道具・役者・監督達が蠢いていた。
    「ありがとう、ところで熊谷知らない?どこにも居なくて、今クラス総出で探してるんだよね」
    そう聞き返してきたのは狩野さんである。狩野さんは声の調子で機嫌の分かる人だった、こと早口になっている時はイラついている。今がそうだ。けれども、どのような状況でも聞くべきことは聞く、そういう軸の強いところが彼女の魅力であり、人気の理由だ。我がクラスの監督として名が挙がったのも納得できる。渦中の人、熊谷はその逆であるが。
    「熊くんまた・・隠れたのか…」
    思わず本音が漏れる。私のクラス、4組で主役を務める熊谷は、控えめに言ってマイペース過ぎるところがある。今日のような失踪も、実はこれが初めてではない。練習の時点で失踪事件は頻発していた。その都度クラスの男子群が構内を駆け巡り、暫くすれば熊谷が捕まった宇宙人のように連行される、という一連の流れが伝統芸のようになっていた。なお、彼はその都度
    「緊張をほぐすために一人になりたかった」
    と供述している。
    「熊くんの居場所か…分からない、でも本番前には帰ってくると思うよ。多分」
    熊谷とは小学校からの付き合いなので、中学から知り合った連中より彼の性質は理解しているつもりだった。マイペース過ぎるが、クラス全員が本気で挑んだ劇を逃げて台無しするほど薄情な奴ではない。
    「本番前だと意味が居んだよね。着替える時間もあるしさ、メイクだってちゃんとしたいしさ、時間ないのにさ」
    エンジンを吹かすように、言葉の区切りが徐々に強くなってゆく。彼女の心配は尤もだった。監督なのだから裏方の私よりも背負う重圧が大きいだろうに、無責任な発言は良くなかったかもしれない。
    「そうだね…見つけたら連絡するよ」
    「よろしくね」
    そう念押しすると、彼女はそのまま客席方面に姿を消した。一旦教室へ戻るのだろう。私も付いて行くべきか考えたが、並走したところで問題は解決しないことは明白だった。地道に聞き込み調査をするため、或いはそれをダシに他クラスの偵察するため、つま先を再び舞台裏に向けた。

    数分後、4組のグループチャットでは熊谷捜索令が出されていた。


    この時期に関して、他クラスとの交流はあまりない。気軽に情報交換ができるような友人が他クラスにあまり居ない事もその一因だが、演劇の時期に入ると謎のライバル意識が芽生え、クラス間交流が希薄になる傾向が代々あるのだ。けれども本番当日であれば、そんな意識も薄れる頃だろう。
    公演の順番はクラス順とのことで1組がトップバッターだ。舞台裏には出番の近い1組の裏方が多く、幸いにもその中に私の数少ない友人が含まれていた。
    小道具の確認を手伝いつつ出来栄えを聞いてみたが、それはもう誰かに話したくて堪らないような様子で、つつけば、振った直後の炭酸飲料のように止めどなかった。どうも1組の主役はクラスで一番の陽キャらしく、その他の役者も所謂一軍で構成されているようだった。演技はそこそこだが、メイクと衣装が豪華で見ごたえがあると大いにPRされてしまった。聞けば語りたくなるものだ。お礼とばかりに4組が秘匿し、それでも半信半疑で囁かれる情報。即ち4組の主役の名前を教えた。誠に遺憾ながらこれが中々信じて貰えなかった。日頃から私が冗談ばかり言っているから、という部分もあるかもしれないが、やはり奴の性格を知る者からしたらまずありえないと思うことだろう。こちらの台本に記載されている役者名を見せてやっと落ち着いた程だった。
    「どんな役なん?」
    「それは見てからのお楽しみ」
    してやられた云うような表情を見て私は大いに満足した。語りすぎず、相手の興味を引いて関心に繋げる。PRとはこうやるのだ。
    「それでその主役様なんだけど、見てない?」
    「割と早い段階からここに居るけど、見てないな。少なくとも体育館にはいないと思う」
    「だよねぇ」
    ため息交じりに吐き出す。半ば分かり切った質問であった。一人になりたい人物が、人の多い場所に来る訳がないからだ。丁度その時、上着に忍ばせたスマホが短く振動する。慣れ親しんだそれは、チャットアプリに新規通知が届いたことを知らせる振動である。実はこの振動、体育館に踏み込んだ時から継続的に発生していたのだが敢えて先ほどから見ていなかったのだ。いよいよかなと思い、スマホを取り出し画面を覗く。滝のような新規投稿を搔い潜るとささっと既読だけつけてポケットにしまう。捜査状況は難航しているようだった。4組が恐慌状態に陥っている傍ら、1組の落ち着きようは羨ましい程だった。クラスの統制力に関してはそちらに軍配が上がるだろう。カースト制が活きるトップダウン組織の魅力を隣で噛みしめていると、ふと1組の台本に気になる名前を見つけた。その役は語り手のような立ち位置で出番は一瞬のようだ。役名は”少年”その下には手書きで”佐伯さえき”の文字。
    「この役は佐伯さんが?」
    思わず口に出た。これは質問というより確認に近い。
    「ああ、少年ね。導入の、本当に最初の1シーンだけだけどね。佐伯さんが立候補してくれたんだよ。意外だよね」
    佐伯さんは、1組の中でも大人しい部類の女子だった。名前に目が留まったのは彼女がカースト上位でなく、ましてや陽キャでもないからというのもある。いつも窓側の席で読書をしている彼女は、表現はあまり良くないが空気みたいな人で、自ら役者を志望するようなキャラクターに見えなかった。一軍で固められた配役の中で彼女の存在が許されたのは、恐らくその役が最初にしか登場しないチョイ役であることが大きいだろう。台詞はほんの数行程度、しかし舞台で一番最初に言葉を発する緊張感のある役である。

    ◆

    佐伯さんと知り合ったのはつい最近になる。
    いつ頃からか両腕いっぱいに本を抱え、教室の入り口から半身を乗り出すように此方の様子を見に来ては去っていく他クラスの女子。オタク気質で内気な人、というのが最初の印象だった。私も似たような性質であるから、または、そんな彼女の存在に気づいていながらも誰も声をかけようとしない教室の空気感に堪えかねて、私の方から声をかけたのが始まり。
    「誰か探してる人居るんですか?」
    「あ、いえ。特にそういう訳じゃないです…。何となくというか。4組ってどんな感じなんだろうと思って。」
    「どんな感じかって、普通だと思うけど。1組みたいに陽キャが仕切る感じでもないし、3組みたいに強いリーダータイプが居る訳でもないし。…まー変な奴が多いかな」
    4組は寧ろ陰キャの立場が強いところがあるが、そこは黙っておいた。本気になればとことん、そうでなければ手を抜くようなオタク群と、そんな奴らを馬鹿じゃないのと言いながら受うまく誘導し、受け入れてくれる姉御・兄貴肌の構成だ。無論、姉御肌の代表格が狩野さんになる訳だが。
    「そうなんだ」
    「…」
    「…」
    会話はそこで終わった。彼女は口は噤んだものの、視線は教室内と私の目以外を揺れ動き、もぞもぞと自分を抱きしめるように本を抱え直しては何かを考えこんでいる。私もその場で暫く待った。だがそれでも二の句はなく、同じように入り口から離れる気配も感じなかった。別に、何か悩みでもあるのかと探る様な関係性でもない。かといってこのまま自席に戻るのも後味が悪い。だから雑談に入ったのは惰性であり、ただの暇つぶしだった。
    「因みに、その持ってる本は何?…あ!これ気になってたやつだ」
    佐伯さんが抱えていた本はいずれも厚さが2センチ程で、背表紙がやけにカラフルに見えた。おまけに両腕の中で一番上に位置する本の表紙には、どこかで見たキャラクターが笑っている。彼女が持つ本、それらは全て漫画の単行本だったようだ。有名な作品からニッチな作品までジャンルの幅が広く、それぞれの1~3巻まで揃っている。まるで推しの布教のような、”試しに読んで見なよ”と持ち掛けやすい状態が用意されていた。
    「…読んでみる?」
    「え」
    「どうぞ」
    すかさず紡がれた言葉が、私が微かに期待していた言葉と同じであったから、一瞬頭の中を読まれたのかと思った。けれどよくよく考えると彼女の目的は初めからこれだったのかも知れない。
    「あ、ありがとう…では、遠慮なく」
    そこからの展開は早かった。何を隠そう私もオタク側なのだ。
    空いている椅子を後ろに向けて、1つの机を挟むように向かい合わせで座る。お勧めの漫画はどれか、どの作品がアニメするか、あれよあれよと盛り上がりそして当然のように帰り道を2人で歩いた。この日から、私の休み時間と放課後は少し忙しくなる。話題の大半は漫画の話で、彼女の抱えている作品の中から一つでも興味を見せるとこれ幸いと手に持っていた本を差し出してくる様子が印象的だった。例えるならチョウチンアンコウと言ったところだろう。次から次へと展開されるマシンガントークに気圧されて、気づけば最終下校時刻まで話し込んでしまうことも多々あった。驚くべきことに、ここまで出会ってから約2週間で起きたことだった。

    中3の後半に差し掛かる。卒業は間近だった。
    友情を築くにしても今更だって思うタイミングでもあったし、別段友人を求めていた訳でもない。こちらの動機は単純で、”どうせもう卒業するし”というシンプルなものだった。これで何事も許容できるようになる。ただそれだけのことだった。それだけの理由で繋がった関係だった。
    こちらのそんな思惑とは裏腹に、彼女の登場頻度は加速していく。お昼休憩や放課後にやってくる彼女は、それがいつの間にか通常化していた。ある日は流行りのトークゲームで疑い合い、ある日はカードゲームで協力し合い、またある日はボードゲームで競い合った。漫画はもう必要なかった。
    共に過ごす時間が増える程、人は相手を理解するもので、残された時間と反比例するように彼女と言う人間の輪郭が見えてきたのもこの頃からだ。何故急に現れたのか、何故漫画を勧めていたのか、何故休み時間を共に過ごしてくれたのか、それら正当な疑問を前に、それ以前に、確実なものがあった。彼女はとても押しが強いのだ。グイグイ来るタイプと言うべきか、人と距離をとりたい私にとって此方のペースを押して進む彼女は紛れもなく侵略者 インベーダー。どうせ卒業するし、と考えて居た手前やんわりと、これ以上の好感を持ちたくないと思っていた。しかし、そんな思いを知らない彼女はそれはそれは豪快に詰め寄ってくる。
    「今日は何する?」
    「え、うーん」
    「特にないなら皆で人狼ゲームやりたい!人集めて来るね!席の確保よろしく!」
    こちらの返答は彼女の中では決まっているらしく、報告だけ済ませると教室を出て行ってしまった。実際、別に嫌ではない。遊ぶのは私の中でも決定事項だたが、それが相手に当然のことのように察されるのが癪だっただけである。そのためだけの時間稼ぎ、もとい心の整理の時間が先ほどの曖昧な間であった。やれやれ感を出しつつも、時期にやってくるであろう友人らのために机と椅子を用意するのも愛しい習慣となっていた。思い返せば、始めましてからここまで実に濃密な4週間だった。
    既に馴染んだ4組で、佐伯さんは生き生きとしていた。どうやら、私が抱いていたこの人の第一印象は大外れだったようで、本を片手に教室の入り口から此方を伺う不安そうな少女、なんて無害な存在では無かったのだ。実際はこんなにも押しが強く、こんなにも明るいやつだった。なんて情熱的な人なのだろうか、謙虚さの裏に秘めた熱意に火傷しそうな程だった。しかし、その暖かさに慣れる時間もなく卒業演劇の時期がやってくる。

    中学校最後の大イベント、演劇の話題が出始めてから彼女との関係性は当初の期待通り・・・・になった。黒板の日付が変わるごとにクラスの士気は高まり、次第に他クラスとのライバル意識が芽生え始める。当日まで他のクラスのネタバレを食らいたくない気持ち半分、演劇に本気になる姿を隠したいと思う照れ隠し半分。放課後の教室は原則として、他クラスの侵入を許さない。なんて暗黙のルールが出来上がる程度には本気だった中学最後の共同作業。
    まさかいつも気だるげな熊ちゃんに演技の才能があったなんて、だとか。狩野さんはキレると早口になる、だとか。最後にしてどんどん明らかになるクラスメイトの一面が新鮮で、なんだかんだ楽しかった。私は裏方を選んだので役者に比べれば練習時間も少ない、それでも、夢中だった。本気で準備して、その分だけ当日を楽しみ思う気持ちが強くなった。全員が1つのことに没頭していた期間だった。それ故に、教室の入り口から消えた、彼女の姿を私は惜しまなかったのだ。

    そして季節は桜の映える頃に至る。

    ◆

    「じゃあそろそろ持ち場に着くから」
    「持ち場って言っても、君は小道具担当でしょ」
    1組の台本を返しつつ、自分もそろそろ教室戻らなければと思い返す。
    「本番頑張ってね」
    「おう、終わったら感想聞かせて。主に小道具の」
    1組の友人と話し終え舞台裏を出ると、既に体育館内は人でいっぱいだった。パイプ椅子は8割近くが埋まっており、後輩たちの話し声も大きくなってきた。これは役者陣は緊張するだろうなと他人事のように想像しつつ漸く体育館を後にした。
    4組の教室に戻ると、捕まった宇宙人のように両サイドを背の高い男子に包囲された熊谷が居た。クラス1の俊足帰宅部とサッカー部の男子、いつもの熊谷確保ペアだ。怖いくらい静かな狩野さんの指揮の元、されるがままに衣装とメイクが施されてゆく。その手腕は凄まじく、動画を2倍速で見ているようなスピード感で諸々の準備が整っていた。最高効率が求められている作業を邪魔しないように、というのは言い訳だが、こっそりと抜け出し1組を覗きに向かう。暫くの間、他クラス禁制となっていた1組は既にもぬけの殻だった。出番が最初であるから、それはそうだろう。それでも1組に足が向いたのは佐伯さんのことが気になったからだ。私は彼女が1組であったことすら知らなかったのである。先ほど、台本を見て、その時に初めて知ったのだ。私は彼女のことを何も知らなかったのだと突き付けられたようだった。
    「ぼちぼち移動しないとかも。体育館にはもう観客が8割くらい入ってたし、1組はもう全員行ってるみたい」
    クラスに戻り、丸めた台本をポンポンと手のひらに打ち付けながら全体に声をかける。右目だけが大きくなった熊谷、腕を組んでいた狩野、その他の面々が一斉に時計を確認し、やばいやばいと席を立つ。衣装は何とかなったが、流石にメイクは体育館の方で仕上げるしかなさそうだ。ややあって動き出し、10分後には4組も体育館に向かった。最後に消灯と、忘れ物確認を済ませたのち私も後に続く。

    ◆

    ざわつく会場は改装した体育館。並べたパイプ椅子には全校生徒が座る。その手には公演スケジュールが握られており、いくらか薄暗くなった室内で開演を告げるブザーを音を今か今かと待っていた。
    隣で能面のようになっている主役を茶化しつつ、私もその時を待っている。

    最初の公演が始まった。
    空気を揺らすブザーの音、徐々に暗転していく室内は次第に完全な暗闇を作り出した。全校集会でもここまで静かになった事はないだろう、そう思うほどに周りは静かで自分の存在を忘れそうだった。ガラガラと舞台のカーテンが重たい音を立てる、その音が止んだ時、誰に言われるでもなく全員が視線を前方に向けた。
    最初の劇は1組か、どんな物語だろうと期待に胸を膨らませると同時に、先ほど見た台本が脳裏を過ぎる。確か一番最初に登場するのは主役でもない、語り手役。役名は確か”少年”だったと。

    -明転-

    やがて目が暗闇に慣れた頃、舞台上に光が差した。
    上から下にスッと落ちたひと一人分の光の線。限定的に照らされたその場所に立っていたのは一人の少年。まるで最初からその場にいる事が運命づけられていたかのように、何の違和感もなくそこに居た。
    登場してから次第に、会場の空気が緊迫し始める。それもそのはず、実際には数秒だが、体感にして十数秒ほど無言が続いたのだ。緊張で台詞が飛んだのかと勘ぐってしまった。皆もそう考えたのだろう。しかしそうではないことは直ぐに分かった。堂々とした視線をそのままに、暗闇の向こうから注がれる観客の視線をそのままに、ただ真っ直ぐ前を向く姿は手作り感のある背景を置き去りにする程の気迫があったのだ。
    会場の張りつめた空気は動揺ではなく、次第に緊張感に置き換わる。白いシャツに膝丈のズボン、肩から下に伸びるサスペンダーとハンチング帽。ピンと張った静寂のなか、会場がざわつき始めるギリギリのタイミングで少年が放った第一声は、これまで静まり返っていた空気を張り替えるに十分な魅力があった。
    心が震える、と言う言葉は何度か耳にした事がある。
    ひどく感動した時など、感情を刺激された時に使われるものだと知っていた。
    だが、体感したのは初めてだった。
    朗々と響くその声は性別を意識させる事はなく、利発で自身に満ちていた。緩やかに動き出す両足と、しなやかに伸ばされる腕。指の先まで神経の通った仕草。ただ歩く、という動作だけに釘付けになる。目線は決して合うことは無いが、それでも合っていると錯覚してしまうのは、ミュージカル俳優のような独特な発声によるものだろうか。知っている筈なのに、知らない誰かを見ているようだった。舞台上に“彼女”は居た。今は"彼"であるが。その姿には、ありとあらゆる緊張感の頂、その一番槍を見事にこなすだけの度胸が備わっていた。
    張りつめた空気にキンと軽い耳鳴りさえする。心臓が鼓膜を揺する程どくどくと音を立てる。意識外で口角があがる。頭は真っ白だった。
    かっこいい。いや、凄い。そもそも、そんな大きな声が出せたのか。
    短い感想が次から次へと高速に浮かんでは消えた。緊張感による吊り橋効果もあるのだろうが、ともかくこの瞬間。彼女に心を惹かれたのだ。
    本を両腕に抱え不安そうに視線を彷徨わせていた彼女。内気でオタク気質かと思えば、慣れた頃には大型犬のように絡んでくる彼女。一転して今は観客を誘う優雅な少年。一体どれが本当なのだろうか。もしかすれば、今まで見てきたどれも本当ではないのかもしれない。彼女の演技を見た今、一気に過去が信用できなくなった。そう想像してしまうことが楽しかった。こんな人が直ぐ側にいたなんて、心が湧き立つ。
    絶対に友達になってやる。

    そこから先は目眩く演劇、しかし物語の内容は全く覚えていない。主役の衣装や小道具も何も。少年の出番は最初の数分で終わってしまったが、その数分がそれくらいに衝撃だった。
    上映後、体育館全体が明るくなる。安全性を第一考えられたムードの無い昼白色の照明だ。この間は2組と入れ替えるための休憩時間になる。周囲でわっと繰り広げられる感想会に参加する気はなかった。にべもなく、一目散に向かったのは舞台裏。他クラスだが大道具入れ替えの手伝いをするだけだ、などと尤もらしい言い訳を用意しつつたどり着いたそこは戦場のようで、1組と2組の大道具担当が背景の描かれた人形立てを1人または2人で運んでいた。そこに目当ての人はいない。舞台袖から客席を見ると、役者陣が後輩に囲まれていた。中には着替えずにそのままパイプ椅子に座り公演スケジュールを眺める者も居た。その姿のまま観劇するのだろう。そこにも目当ての人はいなかった。視線を後方に滑らせると、蟻が巣に戻る時のようなとぎれとぎれの列が出入り口にかけて形成されていた。その列の中に1組の衣装や小道具担当の面々も混ざっている。手に持っている荷物を見るに、トイレ休憩というよりは教室に荷物を置きに行くようだ。そこで思い返し、行動に移すべく私も行列に交じった。ファンが役者に合うにはどうすべきか、答えは昔から決まっている。出待ちである。

    はやる気持ちを抑え込みのろのろと進む行列に耐える。出入り口を抜けたあとは、速やかに列から外れて教室に向かう。なにせ確実なのはその場所だからだ。
    3年生の教室は4階にある。行列で取られた時間を取り返すように慣れ親しんだ階段を駆け上がり、4階の踊り場で右に曲がる。廊下に接続する扉を開ければその先が3年の廊下だ。冷たいノブ、金属のきしむ音。扉向こうの直線、まさにそこに"少年"の背中があった。
    「ねえっ」
    何と呼ぶべきかは決めていなかった。衣装のままのなので役名で読んだ方がそれっぽい気がした。けれども本当は、彼女の名前を口にすること自体が久々過ぎて咄嗟に出てこなかっただけだ。それでも彼女は振り返ってくれた。
    「すごかった。劇。最初だけだけど、演技、上手いね。感動した。」
    4階まで急いできたので、思いは息継ぎの合間に紡いでいた。途切れ途切れの、言葉というより衝動に近かった。この衝動をどうしても伝えたかった。相手の表情は良く見えない。
    4階の廊下、同級生の足音が遠のいていく。
    少し間を置いてから、彼女はハンチング帽に手をかけた。そのまま帽子を脱ぐと、鍔を胸に当てる。もう片方の腕は流すように広げられ、同時に片足が半歩後ろへ引かれる。くたびれた上履きが床を滑る。
    そうして彼女は、観客こちらへ身を傾けるように一礼した。
    まるで舞台の終わりに俳優がみせるような優雅な礼だった。本気でやっているのか、照れ隠しなのか、分からなかった。ただ、忘れかけていた緊張感を彷彿とさせるその所作の解釈が難しかった。
    彼女と過ごした期間は約4週間。たったの4週間だった。不安そうな顔でこちらを見ていたその人ではない。情熱的なアプローチで距離を詰めてきたあの人でもない。また、知らない誰かを突き付けられる。
    この人は一体何者なのか。
    こちらのリアクションを覗くように視線だけが上げられる。その瞳に、難題を突き付けられたような心地になる。しかしそこに怖さはなかった。

    この人をもっと、知りたいと思った。

    ◆

    劇と劇の幕間、本当は演技を褒めに行ったつもりだった。
    でも今になって思えば、あの感想こそが答えだったのだと思う。
    貴方に心を奪われた、という。

     
     
    北海道で生まれた東京育ちです。息抜きに散文を書いてます。哲学とか数学とか、好きです。

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