
「つくられた遺跡」は自然に還るのか。「霞ケ浦どうぶつとみんなのいえ」が仕掛ける、タイムスケールのバグ
ところどころ崩れ落ちたコンクリートの壁の隙間から光が差し込む室内を、のそのそと歩くカピバラ。屋根が抜け落ち、四角い壁だけになった吹きさらしの空間にできた水たまりを泳ぐのは、ペンギンの群れだ。かつては立派な正面玄関であったであろう、外壁と一体化された幅の広い屋外階段には、高所を好むヤギやヒツジがたむろしている。
人の手が離れて数十年後か、数百年後か。動物たちにとっては、自然も建築も、等しく生活を営むための拠り所になるのだと、この遺跡に来ると気づかされる。近代の数百年にわたり、人間は自然を制御しようとしてきたが、寄せては返す波のように、自然との間で相互のせめぎ合いを繰り返してきたのが人類の歴史なのだ。

ヤマアラシにビーバー、ダチョウ、そしてキリン。屋根や壁が崩落し、屋外化したコンクリートの箱が点在する一帯に、動物たちが棲みついている。親切にも細い曲線状の回廊が附属され、ここへ訪れた人が自由気ままに暮らす動物たちを観察するためのルートが設けられている。動物たちを横目にカーブを描く回廊を上っていくにしたがい視界が開け、隣接する湖を見晴らすことができる。いつの間にか、建物の間を闊歩するキリンを見上げていたはずがキリンよりも高い位置にいることに気づく。人工物と自然、その間に相対的に漂う自分を確認する瞬間だ。
一部扉が設けられた室内では、リクガメが歩き回る床の上に据えられた枯れ木にナマケモノがぶら下がり、色鮮やかな鳥たちが木から木へと飛び移る、熱帯雨林の日常が再現されている。

施設の名は「霞ケ浦どうぶつとみんなのいえ」。
かつてこの場所にあった「霞ケ浦ふれあいランド」の中核施設、「水の科学館」を改修してつくられた建築だ。設計は建築家の髙橋一平。髙橋は建物の設計だけでなく、地域交流の場を兼ねた自然学習施設という枠組みの企画・運営にも深くかかわっている。
老朽化した建物を改修し、新しい用途につくりかえる際、古くなった部材を更新し、断熱性能などを高めてグレードアップするのが一般的だろう。だがここで髙橋はあえて既存建物を部分的に破壊したうえで、回廊と受付棟を新設するという方法をとった。これにより、建物が崩れ落ち、廃墟となった場所に動物たちが侵入して新たな生態系が生まれ、その後回廊を新規に挿入することで動物たちの営みを観察する施設が完成した、そのような嘘の時系列を想起させる環境ができあがっている。既存建物に対するこの2段階の介入は、霞ケ浦という、人為と自然との綱引きが繰り返されてきた場所を象徴しているように思えてならない。

霞ケ浦は、かつて茨城県に広がる内海の一部だった。
河川から運ばれた土砂が沿岸流によって押し戻され、堆積する。「霞ケ浦どうぶつとみんなのいえ」が建つ敷地は、そのようにして陸地化していった場所だと考えられる。陸地というには不安定な、海岸沿いの砂浜。
江戸時代に入ると、霞ケ浦は淡水化し湖となる。これが人為的な河川工事によって起こったといわれるとにわかには信じがたいのだが、実際そうなのだから仕方がない。新潟県と群馬県にまたがる大水上山から発し東京湾へと流れていた利根川を、千葉県の銚子から太平洋へ流れ出るように流路を付け替える「利根川東遷」工事が行われた。たびたび洪水に見舞われていた江戸を守るためとも、東北地方から食糧や物資を運ぶ水運のためともいわれている。ともかく、この工事によって利根川が運ぶ土砂が河口付近に堆積し、海から流れ込む海水がせき止められ、淡水化が進むこととなる。それからしばらくは海水と淡水が混在する汽水湖であった霞ヶ浦も、1963年の常陸川水門の建設によって完全に淡水化し、現在のような湖となったというわけだ。
敷地周辺は湖の対岸との距離が狭まった場所にあり、江戸時代以降は舟の往来が日常化し、自然地形を人びとが利用する光景が生まれていた。

自然への人為的な介入によって海が湖と化す。そんなダイナミックな変化が起こるのだ。
ところで「みんなのいえ」の敷地はというと、この時期にあっても不安定なままだ。当時の詳細な土地利用はわからないが、明治期以降の測量図を見ると、1982年の時点においても「荒地」の表記。周辺が田んぼや水産試験場として利用が進んでいくなか、なにもない空き地だったと思われる。
少し遡って1960年、米の増産を目的とした干拓事業が霞ヶ浦に計画される。農林省の主導で干拓のための事務所も設置されたものの、地元の漁業者からの反対や減反政策への転換もあって、事業は中止となる。もし干拓が実際に行われていたら、敷地周辺も田んぼとなっていたかもしれない。
これと並行して、交通利便性を高める目的で敷地周辺と対岸とを結ぶ橋を求める声も上がっていた。干拓事業が行われていれば、大掛かりな橋の建設は不要になっただろう。しかし事業が中止となったことで橋建設の声が大きくなり、1981年にはルートが決定、1987年に竣工した。

洪水でもびくともしない、コンクリートの橋の建設は、自然を人為的に制御しようとする近代土木インフラのあり方そのものだ。田んぼや荒れ地だった橋の両端は、造成工事によって固められる。自然の一部か、人の生活圏か。「霞ケ浦大橋」の建設は、長らく両者をゆらぎながら歴史を刻んできた同地を人間のための場所として固定化する契機となった。
その後1992年には「霞ケ浦ふれあいランド」が建設され、制御された自然に触れる学習施設として使用されてきた。一時は年間20万人を超える来場者数を数えたものの、2018年には5.5万人と落ち込み、休館に至る。その後、行方市が施設を取得し、再生整備事業者を募集、髙橋らによる提案を採択することとなった。
人と自然、どちらがどちらを制圧するでもない、せめぎ合いの場。そうした自然との関わり方に対する現代的な態度を読み取ることができるのではないか。人類の開発が生み出したさまざまな地球環境問題に直面するいま、自然学習施設に必要な視点だと思う。
人と自然との間で揺れてきた、霞ヶ浦の砂浜が、コンクリートで突き固められた後、いかにして自然の側に引き戻すのか。時間を早回しする「遺跡化」のデザインが、自然からの浸食を演出している。「どうぶつとみんな」の「みんな」には、人がコントロールし得ない、自然の力が暗示されているのだ。
