
誰がご飯を炊いたのか【風まかせ文芸部】
定年退職を機に、俺は念願の田舎暮らしを始めた。築百年の古民家を手に入れ、庭には小川、裏山には竹林。これからは悠々自適の生活だ。
ところが、住み始めてすぐに妙なことが起きた。
冷蔵庫に入れておいたアジの開きが半分なくなっている。昨日は買った覚えのない漬物が入っていた。さらに炊飯器には、知らないうちにご飯が炊かれていた。
「まさか……俺が忘れてるのか?」
いや、そんなはずはない。俺は几帳面で通ってきた男だ。
不安になって遠くに住む娘に電話した。
「なあ、家の中で物が動いてるんだ。魚が消えたり、知らない漬物やご飯が出てきたり……」
娘は真剣な声で言った。
「お父さん、それ……認知症の初期症状かもしれないよ。“物盗られ妄想”ってやつ」
「な、なに? 俺が?」
受話器を置き、俺は台所で腕を組んだ。そんなバカな。俺はまだ六十五だ。頭は冴えてる。冴えてるはずだ。
だが違和感は続いた。
夜中、廊下からガサガサ音がする。まるで誰かが台所をうろつくような……。心臓がドクドク鳴る。俺は懐中電灯を握り、音のする方へ踏み出した。
台所に着くと、窓の外で猿の群れが騒いでいた。
「ギャーッ! ギャーッ!」
どうやら生魚の匂いに反応しているらしい。猿たちは窓越しに騒ぎまくり、縁側や屋根を走り回る。俺は腰を抜かしてしまった。
さらに天井裏からドタドタと音がした。今度はイタチが飛び出し、俺の頭をかすめて外へ。縁側には狸がちゃっかり座ってこちらを見ている。
腰を抜かして畳にへたり込む俺に、翌朝、近所のおばあちゃんがやってきた。
「おや、よく眠れたかい?」
「いや、眠れなかった! 冷蔵庫の魚が……炊飯器も勝手に……!」
おばあちゃんはにこにこ笑って言った。
「都会の人は知らんだろうけど、この辺じゃよくあることよ。猿は魚に騒いでいただけ、天井裏にはイタチ、縁側には狸。漬物はお裾分け、炊飯器は私がセットしておいた。ひとりじゃ大変だろうと思ってね」
翌日、娘に電話して報告した。
「……結局、野生動物と近所のおばあちゃんか」
「そうだ、俺の“異常現象”は全部、自然と親切心のせいだった」
娘は少し笑いながら言った。
「お父さん、サファリパーク暮らしね、楽しそうじゃん!」
俺は縁側に座り、庭を見渡した。
その時、狸がこちらをじっと見つめ、まるでこう言っているかのようだった。
「ふふん、ようこそ我が領域へ」
俺は思わず口を開いた。
「……俺、住人じゃなかったのか?」