
Chapter 56 大きな転換点、社名が変わる。
1988年、私たちの会社は大きな転換点を迎えました。
長く「電通映画社」の名前で親しまれてきた会社が、「電通プロックス」へと社名を改めたのです。
映画やテレビコマーシャルから、イベント、展示、空間演出、映像、情報システムへ。仕事の幅は、すでに大きく広がっていました。新しい社名は、そんな会社の姿を表すものでした。
そして私自身も、この年、新しい立場になりました。
これまで現場で積み重ねてきた経験を、人や組織を育てるために使う。そういう役割が、いよいよ自分にも回ってきたのです。
頭ではわかっていました。ただ、長年身についた仕事のやり方は、そう簡単には変えられませんでした。
小さな制作室が、会社の柱に
「PROX」という名称には、専門性を表す「Professional」、創造性を象徴する「Creative」、代理・代行を意味する「Proxy」という考え方が込められていました。
その変化を支えてきた一つが、私たち事業制作部門でした。
発足した頃の事業制作室は、十名にも満たない小さな組織でした。イベントや展示の仕事を一つずつ開拓し、やがてスペース制作やシステム部門なども加わって、「事業・映像制作本部」へと発展しました。本部全体では、約300名を擁するまでになっていたのです。
映画やCM制作部門の脇で始まった小さな制作室が、会社を支える第二の柱になった。
立ち上げから関わってきた私には、感慨深いことでした。目の前の本番を何とか成功させようと、走り続けてきた。その積み重ねが、いつの間にか会社の姿まで変えていたのです。
この年、私は副本部長待遇の「事業・映像制作本部 プロモーション第一事業室長」を拝命しました。
長い肩書ですが、私にとっては、一つの部門の経営を任されるということでした。
現場の責任に、人と組織への責任が加わりました。
自分がいない現場を、どう育てるか
会社には、映画やCM制作の長い歴史がありました。一方、イベントはまだ新しい分野です。現場の事情を十分に理解している役員や上司は、多くありませんでした。
その分、私たちには大きな裁量がありました。
自分たちで考え、進められる。ただし、問題が起きれば、自分たちで解決するしかありません。
当時は、イベント業界そのものも発展途上でした。制作手順や管理方法が、最初から整っていたわけではありません。演出、美術、施工、照明、音響、映像、運営。それぞれの専門会社と、仕事をしながら仕組みをつくってきました。
現場で判断し、その結果を引き受ける。私も、そうやって仕事を覚えてきました。
けれども、室長になれば、自分が判断できるだけでは足りません。
私がいない現場でも、担当者が考え、決められるようにする。そこまでが、私の仕事になったのです。
事業制作室の発足から、まだ十年にもなっていませんでした。組織は急速に大きくなりましたが、経験豊富な人材は限られていました。
案件は大型化し、いくつもの仕事が同時に進む。人を育てることが、ますます大切になっていました。
任せた後が、難しかった
イベントは、経験がものをいう仕事です。
何を優先するか。誰に相談するか。どこで決断するか。
私自身、現場で責任を負いながら覚えてきました。部下にも、自分で考え、決める機会が必要でした。
そこで、室長になっても当面は現場を離れず、プレイングマネジャーとして仕事を続けることにしました。
指名案件や国家的事業、新規クライアントの仕事、会社の信用に関わる大規模イベントには、私が前に立つ。一方、部下が経験を積める仕事は、部長や担当者に任せ、私は監修に回りました。
難しかったのは、任せた後です。
経験があるだけに、気になるところが見えてしまう。つい口を出したくなるし、自分で決めたほうが早いと思うこともあります。
でも、それでは、部下はいつまでも私の補佐役のままです。
任せなければ、人は育たない。けれども、任せた結果については、私が責任を負う。
どこまで見守り、どこで前に出るか。
自分で現場を動かしていた頃とは違う難しさがありました。部下を育てるつもりで、私自身も、任せることを学んでいたのだと思います。
頼もしさと、少しの寂しさ
1988年には、第1回東京湾大華火祭や、日立のオリエントエクスプレス運行キャンペーンなど、大きな仕事が続きました。
東京湾大華火祭では、あの武藤君が実務責任者となり、私は全体演出を担当しました。
初開催です。船舶の航行、交通規制、観客誘導、安全対策など、初めて取り組む課題がいくつもありました。担当者がそれぞれ判断し、関係者と調整しなければ、仕事は進みません。
武藤君は、その難しい調整を見事に仕切りました。大会はその後も続き、毎年の恒例行事として定着していきました。
日立の仕事でも、できるだけ担当者に現場を任せました。全国を移動する列車を使った、複雑なキャンペーンです。
この仕事を成功させたのは、アルバイトから実績を積み、専属となった若いプロデューサー二人でした。
任せると決めた以上、自分たちで考えてもらう。何かあれば、私が前に出る。そのつもりで見守っていました。
ところが、私が前に出なければならない場面は、ほとんどありませんでした。
彼らは、自分たちの力で仕事を進めていたのです。
頼もしい。うれしい。
それなのに、少し寂しくもありました。
これまでの私は、現場で必要とされることに励まされてきました。自分の経験や判断が役に立つ。それが、仕事を続ける大きな力になっていました。
その現場が、私が出ていかなくても動いている。
部下が育った証拠なのに、素直に喜ぶだけでは済まない。自分の出番が減ることを、どこかで寂しく感じていたのです。
私のやり方を、手放していく
1989年には、築地本願寺で行われた日比野電通元社長の社葬、大阪花博関連のキャンペーン、幕張メッセで開催された東京モーターショーなどにも関わりました。
一方で、ホンダの年賀会や販売店大会、広告電通賞贈賞式、東京湾大華火祭などの継続案件は、少しずつ部下へ引き継いでいきました。
長く携わった仕事ほど、自分なりの進め方が身についています。引き継いでも、気になることはありました。
ただ、部下には部下の考え方があります。私のやり方をなぞるだけでは、いつまでたっても、その人自身の仕事になりません。
任せるというのは、仕事を渡すだけでは済まないのですね。
私自身が、自分のやり方へのこだわりを少しずつ手放していくことでもありました。
そのうちに、クライアントから部下が直接指名されることが増えてきました。
自分で考え、現場で判断し、相手の信頼を得る。その積み重ねが、次の仕事につながっていたのです。
私を通さず、部下の名前で仕事が来る。
それは、私たちの部門が、一人ひとりの力で信頼を得られるプロデューサー集団へ育ち始めたということでした。
そして私も、部下の名前が呼ばれることを、うれしく思うようになっていました。
仕事の喜びが、もう一つ増えた
私は、室長を実質二年間務めました。
それまでは、自分が仕事を成功させ、相手に認めてもらうことが、大きな原動力でした。
人に認められたい。その思いに背中を押されて、ここまで来たのだと思います。
室長になってからは、そこに、部下が力を発揮できる環境をつくるという役割が加わりました。
すぐに気持ちを切り替えられたわけではありません。口を出したくなることも、出番が減って寂しくなることもありました。
それでも、部下が自分の判断で仕事を成功させ、次の指名を受ける。その姿を見ているうちに、私の中にも、これまでとは違う喜びが育っていきました。
1988年は、電通映画社が電通プロックスへと生まれ変わった年でした。
私自身の仕事への向き合い方も、この頃から少しずつ変わり始めました。
自分の名前が呼ばれるとうれしい。
部下の名前が呼ばれても、うれしい。
仕事の喜びが、もう一つ増えたのです。