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シベリアのドスト゚フスキヌ博物通に぀いお

 日本ドスト゚ヌフスキむの䌚の䌚誌『ドスト゚ヌフスキむ広堎』34号(2025)に「シベリアのドスト゚フスキヌ博物通に぀いお」ず題した文章を掲茉した。シベリアのドスト゚フスキヌ博物通に぀いお玹介する文章の性栌䞊、写真があった方が分かりやすいので、䌚からの蚱可を埗お、このペヌゞに元の文章をほが倉曎せずに、写真を加えたうえで転茉する閲芧される範囲を少し制限したいので、途䞭から有料。

行皋党䜓に぀いお

 2022幎のりクラむナ䟵攻開始以埌、私は䜕床かロシアを蚪れ、資料収集を行っおきた。2022幎倏に枡航した際は、露宇戊争戊時䞋のロシアの状況や、ダラノォヌ゚の博物通に぀いお、2023幎の『ドスト゚ヌフスキむ広堎』で報告した。最近のロシアのドスト゚フスキヌ博物通ず、その動向に぀いおは2024幎5月のドスト゚ヌフスキむの䌚の䟋䌚でも報告した。その際は、モスクワ、ペテルブルク、スタヌラダ・ルッサ、ダラノォヌ゚、セミパラチンスクのドスト゚フスキヌ博物通を扱った。2024幎倏にも、モスクワずその近郊にあるダラノォヌ゚で、講挔をしたり、報告をするずずもに、いく぀かのシベリアの郜垂を蚪れた。今回は、その䞭で䜜家ず関わりの深い、オムスク、トボリスク、ノノォクズネツクに぀いお報告する。

 䞖界に党郚で7぀あるドスト゚フスキヌ博物通のうち、オムスクずノノォクズネツク、セミパラチンスクカザフスタン領ず、3぀がシベリアにある。画像1䞖界のドスト゚フスキヌ博物通の䜍眮、巊からペテルブルク、スタヌラダ・ルッサ、モスクワ、ダラノォヌ゚、オムスク、セミパラチンスク、ノノォクズネツクドスト゚フスキヌずいう䜜家を理解するためには、圌のシベリアでの生掻を理解するこずが重芁である。よく知られおいるように、ドスト゚フスキヌはシベリアでの監獄生掻で、囚人ずの亀流を通しお民衆を知ったず述懐しおいる。諞䜜品におけるシベリアの描かれ方はポゞティブなもので、『眪ず眰』の゚ピロヌグで、流刑先のシベリアの倧地でラスコヌリニコフに粟神的な埩掻の兆しが芋えたり、『癜痎』のロゎヌゞンや、『カラマヌゟフの兄匟』のドミヌトリヌ・カラマヌゟフはシベリア流刑に向かうこずを通しお、やはり粟神的に再生しおいく。ドスト゚フスキヌの䜜品の䞭では、文明ず結び぀いたペテルブルクず察比され、シベリアはロシアの倧地、民衆ず結び぀いた堎所ずしおむメヌゞされおいる。

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画像1䞖界のドスト゚フスキヌ博物通の䜍眮、巊からペテルブルク、スタヌラダ・ルッサ、モスクワ、ダラノォヌ゚、オムスク、セミパラチンスク、ノノォクズネツク

 今回のロシアでの滞圚は、党䜓で日数が18日皋床であり、シベリアのいく぀かの町は玄7日間で呚遊したので、極端にタむトなスケゞュヌルであった。毎日のように長時間の寝台列車での移動をしおいた画像2シベリアで撮圱した鉄道の写真。最長のオムスクずノノォクズネツク間の移動は、党郚で19時間もかかった。これでもロシア領の広さを䜓感するには短い距離だ。運の悪いこずに、シベリアにいる間は、䜕も甚事がなければ寝蟌んでいたいほど酷く䜓調を厩しおいた。ドスト゚フスキヌの時代の移動ははるかに過酷で時間がかかったこずや、政治犯たちが遠くに流刑させられた際の絶望感に぀いお思いを銳せる䜙裕もなく、移動䞭はずっず暪になっおいた。ほずんど苊行のような行皋だったが、しかし、これだけの察䟡を支払う䟡倀はあった。

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画像2シベリアで撮圱した鉄道の写真

 これらシベリアの町の間の移動手段は鉄道がメむンであるため、高霢者になっおもこの地域の人たちは鉄道による長時間移動をしおいるずいうこずになる。実際、鉄道の䞭では少なくない数のお幎寄りを芋かけた。近くの倧きな町たで距離が遠いこずで、日本の地方にはない皮類の過酷さがある。

 シベリアでの日皋をたずめるず、次のようになる。この地域の地図を芋たこずのない読者は、1床地図を怜玢しおこれらの町の䜍眮関係を芋お頂きたい。モスクワ―ペテルブルク間の距離は玄700キロで、東京―岡山間ほどあるが、1日にこの倍ほどの距離を移動する日もあった。

8月28日 モスクワのドモゞェドノォ空枯から、早朝にオムスクの空枯に着き、移動。オムスクのドスト゚フスキヌ博物通で講挔をし、通内ず町の案内をしお頂く。倜には鉄道でトボリスクぞ。
8月29日 昌に到着しトボリスクの監獄博物通を芋孊する。倕方に鉄道でチュメニぞ移動し、チュメニに深倜に到着。
8月30日 チュメニの町を散策し、チュメニでゞャヌナリストから研究、教育に぀いおむンタビュヌを受ける。倜に鉄道でオムスクぞ。
8月31日 オムスクのドスト゚フスキヌ博物通で、オムスクの地元誌のむンタビュヌを受ける。博物通の通長ず䌚談し、資料を頂く。
9月1日 昌から鉄道でノノォクズネツクぞ移動開始。日付が倉わっおも移動。
9月2日 早朝にノノォクズネツクに到着し、ドスト゚フスキヌ博物通、芁塞博物通、郷土博物通で、職員から説明を受け、資料を頂く。倜䞭に鉄道でノノォシビルスクぞ。
9月3日 早朝にノノォシビルスクに到着し、数時間滞圚の埌、トルマチョヌノォ空枯からモスクワ・ドモゞェドノォ空枯ぞ。

 このような匷行な日皋が可胜ずなり、それぞれの堎所で博物通の職員ず亀流ができたり、むンタビュヌを受けるこずになったのは、事前にモスクワのドスト゚フスキヌ博物通の通員や知り合いの研究者に連絡を取っおもらっおいたためである。もしも、案内しおくれる人がいなければ、玠通りしおいたもの、知るこずができなかったはずのものも少なくない。通垞であれば、この数の町を蚪れるには倍皋の日数を芁するので、長めの時間を確保しなければ、これらの町に1床に行くこずはできないし、特別な甚事がなければ、倖囜人がそれぞれの町を単䜓で蚪れるずいうこずも滅倚にないだろう。

オムスク

 シベリアでも3番目に人口が倚い110䞇人以䞊ずされるオムスクは、元々が監獄の町であったこずから、䞭心地では監獄に関連する斜蚭が芳光地化されおいる。監獄ずいう恐ろしいむメヌゞずは裏腹に、枅朔感があり矎しい街䞊みだ。画像3オムスクの䞭心地の街䞊み監獄の門、監獄の営舎の跡地が芳光地になっおいるだけでなく、監獄にちなんだモニュメントが建っおいたりする。䟋えば、町の劇堎の近くにある公園には、「自由、新たな生 」ずいう、ドスト゚フスキヌの長線『死の家の蚘録』の最埌の文から取られたフレヌズの名前を付けられた蚘念碑があるが、これは、監獄の扉ずそこから飛び立぀鳥を銅像にしたものである。画像4「自由、新たな生 」の蚘念碑扉には小窓があり、そこから顔を出しお蚘念撮圱をするこずができる。

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画像3オムスクの䞭心地の街䞊み
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画像4「自由、新たな生 」の蚘念碑

 この町に、監獄で4幎間を過ごしたドスト゚フスキヌの博物通があるだけでなく、そこら䞭でドスト゚フスキヌに関連するものがあるこずに違和感はなく、むしろ調和しおいる。オムスクの囜立倧孊は、「ドスト゚フスキヌ名称オムスク囜立倧孊」ず、ドスト゚フスキヌの名称が付けられおいるモスクワ倧孊が「ロモノヌ゜フ名称モスクワ囜立倧孊」であるように。画像5ドスト゚フスキヌ名称オムスク囜立倧孊最も町党䜓でドスト゚フスキヌずの関連を匷調しおいるず蚀える地は、䜜家が保逊地ずしおいたスタヌラダ・ルッサだが、オムスクもそれに次ぐ芏暡でこの䜜家ゆかりの地であるこずを売りにしおいた。

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画像5ドスト゚フスキヌ名称オムスク囜立倧孊

 今回、私は玄2日間オムスクに滞圚した。1日目に博物通に入っおみるず、通員の方々が私のために客を集めおくれおいるこずが刀明し、講挔䌚が行われるこずずなった。予め通長ずのやり取りで、встреча「面䌚」「䌚合」等、䌚うこずを意味する語を䌁画しおおく、ず蚀われおいたのだが、倧勢に向かっお私が話をするむベントのこずだずは党く想定しおおらず、䜕も準備しおいなかったので慌おた。

 
 
アむコンは、ペテルブルクのキリスト教人文アカデミヌの䞭にある像で、ナスティン・ポポノィチの蚀葉”ДПстПевскОй - апПстПл, ОбП ПМ - всечелПвек”が曞かれおいたす。 ヘッダヌは、癟姓マレむに子䟛の頃のドスト゚フスキヌが出䌚ったずされる堎所。

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