
【noteでBL】俺じゃない影法師
「noteでBL」9月の企画に、参加します。
今回のお題
第三者目線一人称のブロマンス〜BL小説
ジャンル
現代ドラマ
あらすじ
ある美術館で、派遣の警備員を務めている後藤。前職の激務の疲れから、背景のような存在になれるこの仕事に就いたはずだったが、一方で、そんな毎日に空虚さを感じてもいるのだった。ある日、花形のエリート学芸員・佐伯が、人違いで後藤に声をかけてきた。佐伯が、同僚の警備員・東山に関心を抱いていると感じた後藤は、ふたりの関係性に思いを馳せるようになる。
以下、本文(文字数:9,935 文字)
俺じゃない影法師
坂本エンジン
1
最後の入館者が退出すると、展示室はようやく静かになった。
革靴の底からじわじわと突き上げてくる鈍い足の痛みに、ようやく意識を向ける余裕ができる。立ちっぱなしで張り詰めていた緊張の糸が、ゆっくりと解けていくのを、俺は感じた。
制服の肩をうごかして、ほぐす。
今回の特別展の目玉はモネの『ルーアン大聖堂』だった。
この連作を一目見ようと、朝から途切れることのない長蛇の列が美術館を取り囲んでいた。結界を超えて顔を近づける鑑賞者や、展示室内での不意のフラッシュ撮影(禁止されている)への注意、湿度の管理を巡るスタッフ間の慌ただしいやり取り。朝から晩までトラブルの火種を消して回るのは――そしていくつかの火種が炎上して消火に右往左往するのは、まったく骨の折れる仕事だった。
派遣先が美術館だと知ったとき、静かな空間でたたずんでいればいいだけだと考えた俺の予想はまったく裏切られたということだ。
そして、どれほど足を棒にして展示室を巡回し、声を嗄らし、汗をかいたとしても、ここで俺という人間が誰かの記憶に残ることはない。
来場者にとって、紺色の制服を着た警備員は、展示室の隅にひっそりとある温湿度記録計や消火器と同じだ。視線は俺の頭上や脇を通り抜け、壁に掛けられた名画へと注がれる。道を聞かれる時でさえ、彼らが見ているのは俺の顔ではなく、胸元のネームプレートか、制服のエンブレムだ。同僚や美術館のスタッフたちにとっても同様である。彼らは俺の脇を通り過ぎる際、わずかな会釈をするだけで、目を合わせることすらない。
それは、しかし、俺自身が望んだことのはずだった。
かつての、広告代理店で働いた日々が、遠い前世のことのように思い出される。あの頃は、一枚でも多く名刺を配り、プレゼン資料に目を留めてもらうことに腐心し、飲み会やパーティーにも必ず行った。そうして自分の存在を主張し続けなければ、会社で無価値な存在になってしまうと思っていた。
そんな毎日にほとほと疲れ果てていたから、ただ彫像のように立っていればいいだけの仕事は、心を癒してくれるものと思っていた。たとえ収入が半減したとしてもである。
だが彫像には彫像の孤独があったのだ。
派遣の警備員としてここに立つようになってから、俺は自分が風景のなかに塗り込められる空虚さを知った。今はその感覚にさえ慣れつつある。胸の奥に澱のように溜まるむなしさを、靴底の痛みとともに飲み込む。
ポケットの警笛を指先で弄びながら、来場者退去の最終確認のために展示室をもう一回りするべく、歩みを進めようとした、その時だった。
「おつかれさま」
低く落ち着いた声だった。
背後からの不意の呼びかけに、俺は肩を跳ねさせ、反射的に振り向いた。
スーツの男だ。ブリティッシュスタイルのツーピース。
細いメタルフレームの眼鏡は見覚えがある。学芸員の――たしか、佐伯という男だ。歳は俺とさほど変わらない、三十になるかならないかだと思うが、テレビやアート誌でもよく顔を見る。
同じ美術館を職場としていても、当然ながら接点はない。片や看板ともいえる花形で、俺は派遣の警備員。文字通り住む世界が違うのだ。
佐伯は俺と目が合った瞬間、足をぴたりと止めた。
彼の整った眉根が、ほんの数ミリだけ寄る。視線が俺の顔から胸元、そして全身のシルエットへと素早く滑り、眼鏡の奥の瞳がわずかに揺れた。何かを確かめるように見開かれた瞳が、すっと冷め、かわりに困惑と落胆が混ざり合った微妙な影が差すのを、俺は見てとった。
声のトーン、立ち姿、そして一瞬だけ見せた期待と落胆の落差。
俺を誰かと間違って声をかけたのだ。
薄暗い展示室の入口から見えた、紺色の制服を着た男の背格好——ただそれだけを頼りに声をかけてきた。
気まずい沈黙が、俺たちの間に流れた。
佐伯は口元をキュッと引き結び、片手を微かに上げて取り繕うような仕草を見せた。
「失礼……。今日も――人が多くて、忙しかったですよね」
俺は彼の顔と名前を一方的に知ってはいたが、それは佐伯が有名人だからで、俺たちに面識はない。ただ、学芸員が、警備員に挨拶や世間話をしたからといって、なにもおかしいことはない。佐伯はその線で、場をごまかすつもりのようだ。
「はあ」
俺は気のない返事を返す。
それでごまかしは完了した、とばかりに、彼はそれ以上何も言わず、踵を返した。磨き上げられたフローリングを叩く、どこか神経質な靴音が、しだいに遠ざかっていく。
俺は、ただその背中が展示室の曲がり角へと消えていくのを見送った。
残された展示室には、再び圧倒的な静寂が戻っていた。モネの描いた大聖堂が、暗がりの中で薄ぼんやりと浮き上がっている。
こうして立ち尽くしていると、俺の存在が、カンバスに盛られた油絵具の、茫洋とした陰影の中に溶け込んでいってしまうような気がした。
2
展示室内の一角が、舞台のスポットライトを浴びたように浮かび上がっていたのは、撮影用の照明のせいばかりではない。
光の真ん中に立っているのが佐伯だからだ。仕立ての良いダークグレーのスーツに身を包み、洗練された身振りでカンバスを指し示す。その振る舞い自体が、ある種の光を発している。
彼が背にしているのは、モネの『ルーアン大聖堂』の連作の中でも、一際明るい陽光を描いた昼の作品だ。
「……モネはこの時間帯、刻一刻と変化する大気を捉えるため、何枚ものカンバスを交互に並べて筆を走らせました。この『昼』の色彩に宿る密度の高さは、まさに光そのものを固形化しようとした苦闘の痕跡と言えます」
滑らかに語られる解説に、マイクを向けるインタビュアーの女性も、カメラを構えるスタッフも、聴き入っているようだ。佐伯の眼鏡の奥で光る聡明な瞳や、自信に満ちた話しぶりは、そのままテレビ画面の向こう側の視聴者を魅了するのだろう。
俺はそこから十メートルほど離れた壁際で、微動だにせずその光景を眺めていた。
来場者の波が、俺の脇をすり抜けていく。誰一人として俺の顔を見ない。視線は佐伯の華やかな立ち姿かテレビクルー、あるいは壁に飾られた数億円の絵画のあいだをさまようだけ。それらが蝶を引き寄せる花だとしたら、紺色の制服を着て突っ立っている俺は、まさしく路傍の石というべきだろう。
広告代理店にいたころは、俺も取材や撮影に同行した経験がある。だがそれも今は遠い蜃気楼のような記憶でしかない。佐伯と俺は年齢もそう変わらないが、埋めようのない境遇の違いが、じわじわと足の裏から冷えのように伝わってきた。
別の日、午後の巡回中のことだった。
その日の持ち場は常設展の展示室だ。企画展とは違い、平日の日中は客足もまばらで、空調の低い唸り声だけが響いている。順路に沿ってゆっくりと歩みを進めていた俺は、ふと、うなじのあたりに粘りつくような視線を感じて足を止めた。
振り返ると、数歩離れた展示ケースの傍に、佐伯が立ってこちらを見つめていた。
視線が交差した瞬間、佐伯の肩がかすかに跳ねた。彼は瞬きをひとつすると、気まずそうにすっと目をそらし、手に持っていたクリップボードに視線を落とした。留めてあったなにかの書類を、わざとらしく、めくっている。
また人違いだ。
先日の閉館間際のときと同じ。彼は俺という人間を見ていたわけではない。遠目から見えた制服のシルエットに何かを期待し、近づいて俺だと分かった途端に失望したのだ。
自分はどこまで行っても個別の人間ではなく、ただ「制服を着た匿名の影」でしかない。その事実に、怒りよりもむしろ冷ややかな納得が先に立った。俺は無表情のまま向き直り、再び歩き出す。
「あの、すみません」
背後から声をかけられた。佐伯が気まずさを覆い隠すように軽く咳払いをしながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「東山さんは……最近、休んでいるようだけど」
佐伯は眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、探るような視線を投げかけてきた。声のトーンは努めて平淡を装っていたが、どこかわずかに上擦っている。
東山。
その名前を耳にして、俺の頭の中でぼんやりとした像が結ばれた。
同じ派遣の警備員である東山さんだ。四十代後半から五十手前といったところで、ジャコメッティの彫刻を思わせる痩せた男だ。地味な印象で口数も少なく、シフトがあまり重ならないため、挨拶程度しか言葉を交わしたことがない。
一瞬で腑に落ちた。
俺と東山さんは身長がほぼ同じだし、体格も近い。ふたりとも少し猫背気味な歩き方だと言われたことがあったから、歩く姿も似ているのだろう。
佐伯が遠目から追っていた「影」こそ、東山さんだったのだ。
「……家庭の事情で、しばらく長期の休みを取ると聞いています」
俺は控えめに事実だけを口にした。
東山さんは独身で、高齢のお母さんとふたり暮らしだそうだ。そのお母さんの身体の具合がよくなく、通院に付き添うとか、介護保険関係の手続きがいるとかで、仕事を休んでいたはずだ。
「理由とか、いつ戻られるかとか、何か聞いていませんか」
本当は、「家庭の事情で休んでいる」ことさえ、プライバシー的には話すべきではなかった。
つい答えてしまったのは、佐伯の問い方がどこか切迫していたからだ。眼鏡の奥の瞳が微かに揺れ、唇が引き結ばれている。メディア対応で見せる洗練されたスマートさはなく、そこには余裕を欠いた一人の男の顔があった。
俺は佐伯の顔を正面から見つめ返し、制服の帽子の庇に手を添えて、低く静かな声で答えた。
「自分は何も知りません」
そう告げると、佐伯は弾かれたように口を噤み、薄い唇をさらに固く結んだ。彼の顔からすっと血の気が引き、気まずい沈黙がふたりの間に落ちた。
3
防災センターの壁に貼り出された来月のシフト表を指先で辿り、俺はその名前でピタリと動きを止めた。
しばらく途絶えていた名前が淡々と並んでいる。
「東山さん、出勤するんだ」
「……ああ、ホームヘルパーの手配ができたらしいよ」
母親の介護のために休んでいた東山さんが復帰したことを、俺はそこで初めて知った。
その週の終わり、俺は十六時間勤務の夜勤に入っていた。
深夜二時。館内は静寂に包まれ、聞こえるものは空調の低い唸りだけだ。新雪を踏みしめるがごとく、その静寂を靴音で穿つ。懐中電灯の丸い光を遊ばせつつ、俺は巡回ルートである回廊をたどっていたが、ふと、企画展の展示室へと視線を遣った。
昼間の賑わいが嘘のように、照明の落とされた室は影に支配されている。防犯センサーの緑色の小さな点滅だけが、暗闇の中で脈打つように光っていた。
そこに、誰かがいる。
息を飲み、影の輪郭に目を凝らした。
少し猫背気味の背中――闇ににじんでゆきそうな紺色の制服。今日の、この時間の勤務表を思い出すまでもない。それは、東山さんだった。
彼の背中は微動だにしない。壁のほうを向いたままだ。ここ数週間、俺は毎日のようにこの展示室に立っていたのだから、その壁に掛かっていた絵がなにかは見えなくともわかる。『ルーアン大聖堂』だ。
照明の消えた展示室で、カンバスのうえの色彩など見えないはずだ。闇に目を馴らしたところで、せいぜい、絵具の凹凸が感じられる程度だろう。あの繊細で、複雑な筆触分割。モネがとらえようとした光のきらめき、そのうつろいも、この暗闇の中では何一つ判別できまい。モネ自身も、晩年は白内障を患い、ほとんど目が見えなくなったというが……。
それでも東山さんは、そこに立ち、まるで絵肌から溢れ出す目に見えない光を必死に受け止めようとするかのように、カンバスを直視している。そんな背中だった。
絵が見たければ、懐中電灯をつければいいのではないかと思ったが、それは禁じられた行為だった。
絵画にとって光は大敵である。
誰もが一目見たいと願う名画であっても、その劣化を避けるには暗闇に封じるのが最善。それが絵画が抱えるジレンマだったし、東山さんは職務上の規則を破るような人では決してなかった。
俺は声をかけることもなく、足音を殺してその場を後にした。
別の日の日中、スタッフ用の地下廊下で、俺は佐伯と鉢合わせした。
会釈だけしてすれ違うつもりだった俺を、佐伯が「後藤さん」と呼び止めた。名字を呼ばれたことに驚き、足を止める。
「ちょっといいですか」
佐伯は壁際に並ぶ自動販売機にコインを投入した。コーヒーを抽出してくれるタイプの、カップ式自販機だ。佐伯が俺にカップを差し出してきた。微かに湯気の立つ、温かいコーヒーだった。
「あ、どうも……」
「いつもお仕事の邪魔をしてしまって、すみません」
佐伯は言ったが、特にそういう記憶は俺にはなかった。
何度か、人違いしたことを、そう言っているのだろうか。
佐伯自身もコーヒーを買い、二言、三言、他愛のない世間話のような言葉をかわしたが、大して会話が弾むはずもなかった。
「東山さんは、コーヒーが好きかな。それとも紅茶派?」
ふいに佐伯が尋ねてきた。声のトーンは世間話を装っていたが、眼鏡の奥の瞳はすがるような色を帯び、手は落ち着かなさそうに、何度もカップを持ち換えている。
俺はコーヒーの香りを深く吸い込み、それから佐伯の顔を真っ直ぐに見返した。
「知りません」
低く、短く答えた。
佐伯はわずかに瞠目し、何かを言いかけるように口を開かけたが、結局は小さく息を吐き出しただけだった。「そうですよね」と呟いた声は、自販機の稼働音にかき消されそうにか細いものだった。
その日の閉館作業中、施錠確認のために回った展示室で、俺は再び立ち止まった。
『ルーアン大聖堂』の前に、ひとりの男が立っていた。
整った仕立てのスーツ、背筋の伸びたシルエット。佐伯だった。
落ちかけた夕光のような照明の下で、佐伯はカンバスの表面を食い入るように見つめていた。
その立ち位置が、まるで測ったように、あの夜の東山さんと同じ場所であることに俺は気づく。
俺のなかで、二人の男の背中が重なった。
モネは、ルーアン大聖堂の同じファサードを、朝の澄んだ光の中で、昼の強烈な太陽の下で、そして夕暮れの紫の影の中で、何度も何度も描き重ねた。
東山さんが暗闇の中で見ていた絵。佐伯が光の下で見つめている絵。
二人は、すれ違うシフトと重なり合わない時間の中で――そして、派遣の警備員と花形の学芸員という異なる立場で、しかし同じ絵画を同じ場所で見つめ、モネがそこに描き残した同じ時間と空間を共有していたのではないか。
4
午後の光がガラス天井からやわらかく降り注ぐ二階の回廊で、俺はその小さな背中に目を留めた。
大きな絵画の前にいる、四歳か五歳ほどの少女だ。周りを行き交う大人たちは、彼女に気づいていないか、わずかな一瞥をくれるだけで通り過ぎてゆくばかりだ。
普段の俺なら、インカムで総合案内や防犯センターに連絡を入れ、指示を仰いでいただだろう。俺は紺色の制服を着て、ここに置かれた彫像だ。彫像は、置かれた場所から動きはしない。
だが、その時は違った。なぜだろう、俺は自然と足を踏み出していた。
少女の前でゆっくりと膝をつき、目を同じ高さまで下げる。できる限り穏やかな声で語りかけた。
「どうしたの? お母さん、どこかへ行っちゃったかな」
少女はぴくりと肩を跳ねさせ、潤んだ大きな瞳で俺を見つめた。
うまく言葉が出てこないようだ。しかし彼女は、俺の胸元に留められた真鍮のネームプレートでも、制服のエンブレムでもなく、まっすぐに俺の目を見たのだった。
「大丈夫だよ。一緒に探そうか」
差し出した俺の手のひらに、小さな、それでいて驚くほど温かい手が乗せられた。ぎゅっと握り返してくる指先のやわらかさ。手をつないで総合案内に向かう途中、正面の廊下から女性が足早に駆け寄ってきた。
「ママ!」
少女が手を振りほどいて走り出す。
しゃがみ込んで子どもの無事を確認した母親は、俺に向かって何度も深々と頭を下げた。
「申し訳ありません……! いつのまにかはぐれてしまって」
「いえ。よくあることです」
努めて落ち着いたふうに俺は言った。去り際、少女が小さな手でバイバイをしてくれる。
ふたりが立ち去ったあとも、俺の手のひらには、子供の小さな手の温もりが残っていた。
胸にも、じんわりと何かが沁みてゆくような感覚がある。
俺は透明な背景でも、ただ立っているだけの像でもない。俺という存在がここにいて、声をかけ、手を差し伸べたからこそ、できたことがあった。それはあまりにもちっぽけで、ささやかなことだったかもしれない。
俺のしたことは、たとえば佐伯が企画した展示のように、何百人、何千人もの人々に感動を与えるような、そんなスケールのものではまったく、ない。俺が動かなくても、あの母親はすぐに娘を見つけただろう。
だが、それでも――。
誰かの人生のふとした瞬間に、自分は確かに人間として立ち会い、ほんの少しだけ、良い方向へと動かすことができたのだ。
その日の夕方、シフト交代のために戻った警備員控室でのことだった。
パイプ椅子に腰掛け、冷めたペットボトルのお茶を飲んでいると、隣で着替えていた先輩警備員ふたりの会話が嫌でも耳に入ってきた。
「東山さん、せっかく復帰したのに、また大変らしいな」
「やっぱり、ひとりだと働きながら介護は難しいみたいだ。いっそ施設に入れたほうがいいんだけど、入れるところが遠方しかないって、かなり悩んでるみたいだ」
「遠方って……県外か?」
「ああ。もしそうなったら、施設に入れっぱなしもいやだから、自分も向こうに引っ越さざるを得ないって。そうなると、今の仕事も辞めることになるかもな」
ごくり、と飲み込んだお茶はなんの味もしない。
ほとんど話したこともない同僚なのに、東山さんが、いなくなるかもしれないと聞いて、思いのほか心がざわついている。
閉館後の暗闇の中で、静かにカンバスを見つめていた背中を思い出した。そして、昼間の光の下で、その背中の残像を追い求めていた佐伯の姿も。
佐伯は、このことを知っているのだろうか。
そしてもし、東山さんが職場を去るなら、ふたりはどうなってしまうのか。
そこまで考えて、そもそも俺はふたりの関係性について、実のところ、何も知らないことに思い至る。
佐伯が東山さんに関心を寄せていたのは、いつかの自販機前の会話から確からしいことだが、東山さんのほうはどうだろう。その後、ふたりの間に、なんらかの接点、あるいは進展があったのかどうか。
俺が漠然と思い描いていたことは、すべて、俺の想像に過ぎないのだ。
それに、もしもふたりのあいだに、俺の知らない繋がりがあったのだとして、それはまったく、俺とは無関係のことなのだ。
ふたりがどのような関係でも、そしてその関係が、これからどのように変わっていったとしても、そのことは俺の人生になんら影響してこない。
俺にとって、ふたりはただ、この職場で見かけるだけの――そうだ、群衆のなかのふたりに過ぎない。
むろん、それはかれらにとって俺がそうであるようにだ。
俺が、美術館を訪れる人々にとって、展示室の背景の一部になっているとき、かれらもまた、俺の目からは、目の前を流れてゆく一群の群衆でしかない。
そうやって、この世界では、大勢の人々が、お互いの顔も名前も知らないまま、日々、すれ違い、行き交っている。
すれ違う人に、逐一その顔をのぞきこんで、気にかけるほど余裕のある人はそういまい。
いつしか、俺はそう考えていた。
だから東山さんと佐伯のことで、俺が悩む必要などありはしないのだ。
それはまったく、正論に思えた。
ただ……、そのとき、俺の意識から浮かび上がってきたのは、今日、俺が助けた迷子の女の子のことだった。
あの、よるべない小さな手の感触が、どうしても忘れられないのだった。
5
果たして、ある日を境に。シフト表から東山さんの名前がないことに俺は気づいたが、だからといって、何をしようとも思わなかった。
東山さんが退職するのか、またしばらく休むのかは、シフト表からは読み取れない。
誰かが退職するといっても、個別に引き継ぎが生じるような業務でもないから(交代時に申し送りはするとしても)、そうした情報が共有されることはないのだ。
俺は、だから淡々と、その日も、持ち場につく。
そのつもりで、中庭に面した回廊を歩いていたときだ。
中庭のベンチに、佐伯の背中を見つけた。
あいかわらず仕立ての良いスーツ姿で、しかし、その背中はどこか悄然として見えたのは、思い込みだったのだろうか。いつになく、俯き加減で、ひどく落ち込んでいるような肩に見えたのも、きっと気のせいだろう。
それなのに、なぜ俺は彼に近づいてしまったのか。
それはきっと……佐伯の様子が、あの日の迷子の女の子のように見えたからかもしれない。
事実、俺に気づいた彼の目は、充血してはいなかっただろうか。
「後藤さん」
佐伯は、気まずそうに立ち上がった。
「サボりですか」
俺はあえて、軽く言った。
「かもしれません」
「佐伯さんもサボることがあるんですね」
「……」
佐伯は笑った。そして。
「後藤さん。次にいつお会いできるかわからないので言いますが、僕、しばらく海外に行くことになって」
「え」
「フランスの美術館と共同研究プロジェクトの話があったんですが、急に決まって。僕が赴任するんです。最後に出勤できるのが来週の水曜で、そのあとすぐパリに――後藤さん?」
「す、すみません。失礼します!」
俺は事務室に駆け込んだ。
なぜ勝手に持ち場を離れたのか、と管理者が胡乱な目を俺に向けたが、かまっている暇はなかった。
もう一度シフト表をあらためる。
そして、俺は言ったのだ。
「勤務日を変更したいです」
その日。
急な休みであったので、俺には何の予定もなかった。
意味もなく、近所をぶらぶら散歩し、テイクアウトしたコーヒーを公園で飲んだ。
秋の空が高い。
俺のしたことに、意味があったのかどうかはわからない。
ただ今日は、佐伯の最後の出勤日で、俺がシフトを強引に変更したことで、東山さんが日勤になった。そのためふたりの退勤時刻が同じになるが――だからといって、何がどうなるのか、俺は知りもしないし、結局のところ、どうなろうとかまわないのだ。
いずれにせよ、佐伯はパリに旅立ってしまうのだし、東山さんは母親の介護のためのっぴきならない状況になっている。
それを解決するのは俺の役目ではなかった。なにがこの場合の解決なのかもわからないのだし。
ただ、ひとつ思い出したことがある。
人の記憶というものは、遡って鮮明になることがある。
たとえば、ある人と知り合って、その人と初めて会話した日。その日の夜には、しかし、知り会ったばかりの人の顔をまだよく覚えていないので、昼間のことを振り返っても、その人の顔はあいまいだ。だが、それから、日々を過ごして、その人とかなり親しくなってくると、初めて会った日の、その人の表情の記憶が、遡ってくっきりと思い出せることがある。
俺はすっかり忘れていたのだが、美術館に派遣されて間もないころ、初めての夜勤シフトが、東山さんとのペアだったのだった。
夜勤の手順や流れをひととおり教えてくれた東山さんの、ジャコメッティのような横顔が、今なら思い出せる。その少し掠れた、低く穏やかな声とともに。
「作品に光をあててはいけません」
東山さんはそう教えてくれた。
そのことはマニュアルにも書かれているし、事前に、ほかの職員からもしつこく言われていたことだった。
「夜勤だと、独り占めできると、最初は思ったんですけどね」
東山さんは悪戯っぽく微笑った。
「絵を観るの、好きなんですか」
「なにも勉強したことはないですけれど。……直接、光をあてなくても、観ることはできます。もちろん仕事中だからじっくり眺めることはできませんが、好きな絵があると、ほんの少しだけ立ち止まることもあります。……こんなことを教えたらだめですね。忘れてください」
空がゆっくりと暮れてゆく。
モネたち印象派の画家は、屋外で写生し、うつろう光をカンバスに留めようと苦心した。
人の目は、光の反射によってしか、ものの形も色もとらえることはできない。写真が一般的でなかった時代、光を描くことは、人がその目で見たこの世界をそこに残すことだった。
佐伯がパリに行き、東山さんが仕事を辞めたら、俺はふたりを忘れるだろうか。
ふたりもまた、俺のことなど、いつまでも覚えていないだろう。
ルーアン大聖堂のように、モネに描かれたわけでもない俺たちは、この世界にひととき生きた群衆のひとりとして、すれ違い、やがて消えていく。そういうものなのかもしれない。
ただ、ほんの一瞬、お互いの目がとらえた印象が、記憶のカンバスの上にとどまる。
そろそろ、日勤が終わる時刻だ。
変わってゆく空の色を、俺は眺めている。
(了)