
待てない3分
待つ時間とは長い。
私はカップ麺を片手にポットの前に立つ。
下界を見下ろす。病室の中では家族に見守られて、息も絶え絶えの男がいる。
双葉 康次郎、87歳。
今日死ぬ。
それは分かってる。しかし正確な時間は分からない。
息絶えたなら、私は下界に降りて康次郎の魂を肉体から離して、案内せねばならない。
しかし、まだ息をしている。
このカップ麺に湯を注ぎ、食べ終えるまでの間、康次郎は息をしているだろうか。
食べてる途中に息絶えれば、カップ麺を置いて行かねばならない。
そして伸びて食べられなくなるだろう…。
歯がゆい。
『おじいちゃん、頑張って!』
孫が声をかけると、康次郎は息を深くする。
ポットに手が伸びる。
『お義父さん、僕です!由花子の夫の始です!』
義息子の声に、康次郎の息が浅くなる。
ポットから手を離す。
『お父さん、由花子だよ…また一緒に散歩しようよ…』
涙する娘の声に、康次郎の表情が和らぐ。
カップ麺の蓋を開ける。
『そうですよ、お義父さん。また皆で散歩しましょう!』
康次郎の呼吸が浅くなる。
始、康次郎の心電図をよく見て話しかけろ。
『おじいちゃん、僕今日ね、絵を描いたんだよ…』
孫の声に康次郎の呼吸が深くなる。
『…おじいちゃんと僕…』
ここだ。私はカップ麺に湯を注いだ。
『おじいちゃんと…何してるところ?』
涙目の由花子が息子に優しく声をかける。
『あのね、一緒に粘土してるの』
いいぞ、その調子だ。康次郎は穏やかな呼吸をしている。
1分半が経過した。
『粘土か、おじいちゃんと何を作ったんだ?』
やめろ、始。お前は話すな。
『えっとね、パンダとゾウだよ』
いいぞ、孫。
『そう…良い絵が描けたのね。おじいちゃんが起きたら見てもらおうね…』
その調子だ、由花子。
2分半が経った。あと30秒で出来る。
そして5分もあれば食べ終えることができるだろう。
『そういえば、お義父さん。昔は飼育員に憧れてたって言ってたなぁ』
『あら、そうなの?知らなかった』
私はカップ麺の蓋を開ける。
飼育員に憧れていたのか…ならば余計に良い絵ができたじゃないか。良かったな、康次郎。
箸で麺をほぐすと、ふーっと湯気を飛ばす。
『飼育員さんがゾウの額に丸を描いて、兵隊さんが銃を向ける映画を見て嫌になっちゃったんだって』
ピーッ
ピーッ
ピーッ…
医者が時計を見る。
『午前11時53分…御臨終です』
私は天を仰いだ。
始よ…なぜ今それを言った。
由花子の恐ろしい顔が見えないのか、引いた孫の顔が見えないのか。
始は悲しそうに康次郎を見た。
『…お義父さん…』
私はカップ麺を置き、下界へと向かう。
背後では、カップ麺が熱々の湯気を立ちのぼらせ、私の口へ運ばれるのを待っている。
私の帰りを待つ時間もまた長いだろう。
その湯気は、始に向けた私と由花子の怒気のようだった。
お読みいただいて、ありがとうございました。
本作はシロクマ文芸部さんの企画に参加しております。