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いつかね

    借りた本を汚してしまってから、10年が経った。

    彼が大切にしていた本で、そんな大切な本を汚したことがショックで、嫌われたくなくて新しく買い直して返した。

    彼の本はまだ私の本棚に並べられている。

    返す予定も、会う予定もない。

    でも捨てる気持ちになんかなれなくて、借り物を預かったまま月日だけが流れていた。

    その本には沢山の詩が載っていた。

    気分で開いたページの詩を思いながら、1日を過ごすんだと彼は言った。

    その本を持って外に出る。少し涼しくなった風を感じながらベンチに腰かけた。

    久しぶりに本を開くと、優しい写真が目に入る。

    『“いつかね”

    明けた空に浮かぶ月と太陽が交差する。

    夜の空気をまとった月が言う。

    “おはよう”

    太陽はその暖かさで月を見送る。

    “おやすみ”

    あなたと僕が違う世界にいても、きっと僕は君に“おはよう”と“おやすみ”を伝えるよ。

    この地続きの道はどこかで君と繋がっているのだから。

    いつか交差する日を待ち侘びて』

    その詩を見ていると、とても彼に会いたくなった。

    だけど、電話がしたい訳でもない。

    メッセージを送りたい訳でもない。

    あなたに伝えたい。

    私は目を閉じて、口を開く。

    「あの時、大切な本を汚してごめんなさい。あなたの大切なものを自分が汚してしまったことをどうしても認められなかったの」

    そう言いたい。

    本に染み付いたコーヒーの色は今も私の胸に苦く残る。

    「……新しい本だって、気付いてたよ」

    その声に顔を上げる。

    穏やかに微笑む彼の顔は昔の面影をそのまま残していた。

    「……気付いてたの……?」

    彼はゆっくり隣に腰かける。

    「……何度も読んでいたから、ページに癖がつくでしょう?でも言わなかった」

    彼は少し困ったように笑う。

    「……嫌われたくなかったから」

    10年前には知らなかった彼の想いが、私の想いと今――

    交差した。

    「……ごめんなさい」

    鼻の奥がツンとした。抱え続けた胸の中の罪悪感がやっと形になった。

    「……もういいんだよ」

    「……覚えててくれて、ありがとう」

    ふわりと風が頬を撫でた。

    隣を見ると、そこにはもう誰もいなかった。

    胸の中に涼しい風が吹く。

    いつだったろう。

    風の噂で、彼がもう地続きの世界と交わらないところへ行ったと聞いたのは。

    10年で彼はとても遠いところへ行ってしまった。

    胸の奥は寂しい。だけれど、何故か気持ちは軽くなった。

    存在するところは同じではなくなったけれど、私は今日を忘れない。

    あなたと交差する日を待ち侘びていた。

    その「いつか」は、今だったのだと確信している。

    今日、借りた本は私の本になった。


    お読みいただいて、ありがとうございました。
    本作はシロクマ文芸部さんの企画に参加しております。


     
     

    水玉

     
     
    日々の中にこぼれる思いや、 創作短編・被虐体験を綴っています。 苦みのあるブラックコーヒーのような記憶と、 甘さの残るカフェラテのような物語を、 言葉にして灯しています。 ★シンスケ@筆先案内人さんの「無茶ブリ道場」で銀賞をいただきました。

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