
コップの中の月
月を見る。
その月は私のコップの中で小さく揺れていた。
夜は危ないから外に出てはいけないと言われ、小さな部屋の中から月を見上げる。
窓辺に水を入れたコップを置くと、その水面だけが月を捉えた。
空は澄んでいるのだろうか、雲がかっているのだろうか。
もう長いこと、空を見上げることはできていない。
朝は日差しが強過ぎるから外へ出てはいけないと言われる。
外の明るさは分かるけれど、陽の暖かさは分からない。
昼間は反射熱が強くて危ないから外へ出てはいけないと言われる。
視界に入る人々の足や靴を見る。
何か特殊な装備なのかもしれない。
私は部屋から一歩も出られない。
窓の格子は泥棒が入らないようになってる。
ここは安全らしい。
コンコン
窓を叩く音に振り返る。
小さな男の子が見ている。
私は慌てて窓辺に寄る。
「外は危ないよ!強い日差しと反射熱で溶けちゃうから、早くお家に入って」
男の子は不思議そうに首を傾げる。
「お家ないの?ここに来る?」
私は部屋から出られないけど、何とか男の子を助けたいと思った。
でも、慌てる私を見ても男の子は落ち着いて言った。
「外は…寒いよ?」
私の動きが止まる。
「え……?」
「でも…冬はもう来ないって…1年中夏になって外は…危ないって…」
声が震える。
昔の夏も暑かった。
毎日のように「記録的猛暑」という言葉をニュースで聞いていた。
だから、世界から冬がなくなったと聞かされた時も、私は疑わなかった。
この部屋の空調はいつも同じ温度で、乾燥も湿気も感じない。
ここは安全で、季節は感じない。
あれ…私はいつからここにいて…安全に守られていると思ったのだっけ…?
翌日、この部屋の扉が開いた。
男の子に頼んだら、その子の親が警察を呼んでくれた。
私を閉じ込めていたのは、知らないおじさんだった。
なのに私は、いつの間にかその人を「お父さん」と呼ぶようになっていた。
いつからそう呼ぶようになったのかは、思い出せない。
私は警察の手を借りて、サングラスをして外に出た。
それでも久しぶりに見る外は明るくて目が痛く感じた。
暑いと思っていた外は涼しい風が吹き、地面は硬く冷たかった。
ニュースには「拉致監禁」の文字が並ぶ。
警察の人に、何度もおじさんとの生活を聞かれた。
食事は扉の下から渡された。
会話もいつも扉越しだった。
おじさんが私の部屋に入ってくることはなく、私の体に触れたこともなかった。
おじさんは事情聴取でも、
「外は危険だった。あの子を守る必要があった」
と繰り返しているらしい。
「どうして私を誘拐したんですか」
警察の人に尋ねると、少し困った顔をした。
「本人は、誘拐したとは思っていないみたいです」
「……え?」
「ずっと、“保護した”と言っています」
私はおじさんの抱く恐怖の世界に巻き込まれてしまったようだ。
夜に見上げた月は、オレンジがかった大きな丸だった。
あの小さな窓から拾うように捉えた月はこんなにも大きかった。
世界は私が思っていたより、ずっと広い。
月明かりは私の足元を照らした。
お読みいただいて、ありがとうございました。
本作はシロクマ文芸部さんの企画に参加しております。