
「ピンを抜いてから抱きしめる恋」──小説『どす黒くて儚い、短い夢』を読んで
最近の村での困りごとは、大河ドラマの影響で観光客がウロウロして、写真を撮ることらしい。そんな村の女性たちの愚痴によく付き合わされて、「ご愁傷様です」と何度言ったか数え切れない。
序盤はだいたい仕事の愚痴だ。これは参考になることもある。大昔に「客がゴムの付け方を間違えたせいで痛かった」という話を聞いた時は、なるほどそういうものかと感心し、正しいゴムの付け方を教えてもらい、のちの自分の恋愛で役に立ったと思う。
それでふんふん話を聞いていると、旦那とか彼氏の話になってくるのだが聞いている側はもれなく「ご愁傷様です」と言う他なくなる。
彼女たちは、プロとして男の欲望を読み取る技術を持っている。一瞬の目の動きで嘘を見抜き、財布の出し方でランクを測り「優しそうに見せる冷酷な人」なんてのは一発で見破る。なのに、恋愛ではなぜか見事に引っかかる。しかも、繰り返す。
ここには、二つの「鋭さ」がある。
ひとつは、ビジネスとしての鋭さ。これは演技を伴った、自己防衛の鎧だ。もうひとつは、恋愛での鋭さ。これは素の心を使うから、日ごろ鎧を身につけている者は、この素の心が鍛えられていない。そして、人生にはしばしば、鎧を失うタイミングがある。ニーチェは言う。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
村で「深淵」を毎日見つめ続けてきた彼女たちは、時にその深淵に吸い込まれて、自己防衛の鎧を剥ぎ取られてしまう。
鎧を失った時にあらわになるのが素の心だ。そしていったん素の心で接してしまった相手には鎧を使うことができなくなる。また、素の心が弱いぶん傷が深くなる。さらに、ニーチェはこうも言っている。
「恋とは、自分を犠牲にしてまで相手を高めようとする盲目の意志である」
彼女たちは恋をすると、どんなクズでも「どうにかなるかもしれない」と思ってしまう。なぜなら、自分が無数の男をコントロールしてきた経験があるから「自分なら更生できる」と信じてしまうのだ。
しかし、恋愛においての更生プロジェクトはたいてい失敗する。なぜなら、恋愛によって、パワーバランスが変化したからだ。そして爆死。しかも、ただの爆死ではない。
自分で地雷原に飛び込み、ピンを抜いてから抱きしめるみたいな爆死だ。
さて、この物語の主人公は、優等生で会社経営までしていたのに、いつのまにか心をなくしてしまった風俗嬢。
出会うのは、彼女から見たら「かなり若い」男。彼は、彼女の体だけでなく、閉じていた心まで簡単に開けてしまう。そして彼女は、少しずつ人間としての温度を取り戻してゆく。
ところが、ある日彼がくれたプレゼント、それは恋の花束でも、高級バッグでもない。病院でもらった、クラミジアの薬。
それは、「彼がどこかの女と寝て、もらってきたもの」を意味する。
彼はそれをなんの気負いもなく「はい、これ飲んどいてね」くらいの調子で渡してくる。
はい。クズ確定。ご愁傷様です。
しかし、主人公は現実を直視することを避けて、面倒ごとを増やさない方 を優先した。これは、「優しさ」という名の致命的な鈍感さだ。
彼女は、その大粒の薬を、惨めで泣き叫びたい感情とともに黙って飲み込む。それは、彼に悟られないようにする自己防衛だったのかもしれないが、パワーバランスの完全な逆転をもたらすことになる。そこからはじまるのは、緩やかな破滅の道だ。
そして、緩やかな破滅はしばしの平穏を与えてはくれるが、時間が傷を深くし、そのぶんだけ再生に時間がかかる。
とはいえ、この作品の秀逸な部分はここからで、彼への依存の深化の一方で膨れ上がる疑惑、そしてそれを打ち消そうとする葛藤が、丹念に描かれており、それがなければ「ご愁傷様でした」のよくある話で終わってしまう。
ただ、その部分に踏み込んで書くという行為の精神的負担は大きいはずで、それをやり遂げたことは称賛に値する。そしてそれは、あの痛みも、この涙も、全部人生のネタに変えたということだ。
「失敗は、ネタになる。ネタになれば、勝ちだ。」
これはたぶんニーチェも言っていない。