
#借りた本|#シロクマ文芸部|貸していない本
ピンポーン、と低く乾いたチャイムが鳴った。
労災のギプスとコルセットのせいで、海月(みづき)が玄関のドアスコープにたどり着くまでに、足を引きずって十分な時間がかかった。
三十代独身、腰の負傷による自宅療養三週目。動けない退屈をまぎらわせるため、床に散らばる通販の家具カタログを眺めていたところだった。
ドアを開けると、そこには見知らぬ若い女性が立っていた。
体幹の据えた姿勢、パリッとした黒のパンツスーツ。年齢は二十代半ばといったところか。
無機質な表情のまま、彼女は一礼した。
その黒髪に、なぜかふわりと上品な白い羽が一枚、髪飾りとして挿されていることに海月は気づいたが、ツッコむ気力は湧かなかった。
「薔薇宮銀五郎様から借りていた本を返しにきました」
「……はい?」
海月は自分の腰をかばいながら、目の前の人物を凝視した。
「本を返しに」
「あの、人違いでは。私、誰にも本なんて貸していませんし……」
「ばらみやぎんごろうさんでは?」
「私は女性だよ!」
思わず海月の声が裏返った。
三十代の、しかも今まさに労災で動けない女のどこをどう見たら、いかにも耽美で物騒な名前の相手に見えるのか。
「……失礼しました。薔薇宮様のお屋敷ではないのですか」
「お屋敷じゃないよ、ここは。築三十年のワンルームだし。それに、返しに来たって言われても……いったい何の本を?」
「教えることはできません」
「そこは教えなさいよ! っていうか、違う、私は薔薇宮銀五郎でもなければ、本なんて貸していない!」
そう言い捨てて、海月はピシャリとドアを閉め、鍵をかけた。
再び腰を労わりながらリビングに戻ろうとした、その時だった。
ピンポーン。
まだ一分もたっていない。海月は怒りを通り越して恐怖を覚えながら、再び玄関の扉を引っ張った。
先ほどの黒スーツの女性が、微動だにせずそこに立っていた。相変わらず頭の白い羽が、微風に揺れて柔らかくそいでいる。
「もう話は終わったはずですが」
「いえ。返却が確認できないと、お屋敷に戻って叱られるのです。『貸していない』というサインをいただければ、こちらの書類は完了しますので」
「……意味がわからないけれど、サインすればいいのね?」
半ば呆れながら、海月は差し出されたタブレットに雑な指サインを書き込んだ。
その時、返却する予定だった本の数が画面に表示されていたのを見て、体が一瞬固まった。
一万冊……。
女性は「ご協力ありがとうございました」と深々と頭を下げ、今度こそ去っていった。
それから、正確に一週間後。
またしても、あのチャイムが鳴った。
海月は「まさか」と思いつつドアを開ける。
そこに立っていたのは、前回とは顔立ちの違う、やはり黒スーツの二十代女性だった。
今度はその美しいまとめ髪に、白い羽が二枚、お洒落なバレッタのように重なる形で飾られている。
その背後には、サングラスをかけた黒スーツの女性が二人、段ボール箱を山と積んだ台車をそれぞれの脇でしっかりとおさえて控えていた。
「薔薇宮銀五郎様から借りていた本を返しに……」
「ちょっと待って!先週も、頭に羽を挿した人と同じやりとりをしたんだけど。前の担当の人、どうしたの?」
「あっ、前任の者は突然やめまして。引き継ぎがうまくいっていなかったのですが……」
女性は手元の手帳を確認し、真顔で告げた。
「薔薇宮銀五郎様からお借りしていた、約三万冊の本を返しに参りました」
「数が増えてるよ! 一万から三万って、この一週間でどんな読まれ方したのよ! そもそも何の本なの?」
「それは機密事項ですので」
「答える気ゼロね! その頭の白い羽根の意味も教えてくれないんでしょ!」
「これは、お答えできます」
「いや、知りたくないわよ!もう一度言うわよ。私の名前は海月、女性! 本なんて一冊も貸していない!」
「それでは、念のため『貸していない』のサインをいただけますでしょうか」
デジャヴを見ているような絶望感のなか、海月は再びタブレットに指を走らせた。
女性はホッとした顔をして去っていった。
そして、そのまた一週間後の同じ曜日、同じ時間。
ピピッ、ピンポーン。
チャイムが鳴り響く。
海月はもう驚きもしなかった。ただ、重い足取りを引きずりながら、ゆっくりと玄関の鍵を開ける。
そこに立っていたのは、今度は一段とやつれた様子の、やはり黒スーツの二十代女性だった。
彼女の頭には、なぜか白い羽が三枚、まるでコサージュのように華やかにあしらわれていた。
そして、マンションの狭い駐車場には、エンジン音を低く唸らせた巨大な大型トレーラーが一台、どんっと陣取っているのが見えた。
海月は、大きく息を吸った。
了
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