
「待つ時間」#シロクマ文芸部

もう、このスピードじゃ書けないな(泣)
「待つ時間」
待つ時間。ドリンクバーの氷が、グラスの底で小さくカラリと音を立てた。
深夜二時のファミリーレストランは、真昼のように明る過ぎる照明に照らされていた。油膜の浮いたテーブルも、誰も居ない隣のボックスも、逃げ場がないほど白々しく浮かび上がっている。ホールの奥からは、カシャカシャと食器を洗う音が、規則的なリズムで時を撫でている。
私はストローで水っぽいアイスティーを静かに混ぜながら、向かいの空席をぼんやりと見つめていた。
待つ、という作業はどうしてこうも人を愚かにさせるのだろう。三分経つたびに指先は冷たくなり、五分経つたびに、胸の鼓動が早鐘のように高鳴る。
約束の時間は、一時三十分だった。既に三十分が過ぎている。事故にでも遭ったのか。それとも土壇場で怖くなって逃げ出したのか。
私はテーブルの上に置いたスマートフォンの画面を何度も親指でなぞった。画面には、四十分前に私が彼女へ送信した『完了』の二文字。
私はやり遂げた。彼女のあの憎たらしい夫を、彼女から指示された通りの手順で、事故死に見せかけて処理した。私の完璧な仕事に対して、彼女が差し出すべき報酬は「私の夫の死」のはずだ。
SNSの匿名アカウントで出会って半年。
『お互いの旦那、いなくなればいいのにね』
冗談から始まったその会話は、いつしかアリバイの偽装と動機の不在を利用した「完全犯罪」の計画へと変わっていた。
窓の外の雨足は来た時よりも強まっている。自動ドアが開き、濡れたビニール傘を抱えて女が入って来た。すっぴんの顔は土気色で、髪は雨と汗で額にへばりついている。彼女は店内を見回し、私と目が合うと、吸い寄せられるように歩み寄ってきた。
「え……」
「アカウント名、YURIさん……本名、由香里さんですよね?」
「……あなたは」
私はできるだけ冷静を装って、頷いてから訊ねた。この女が誰なのか、聞かなくても分かっている。今、この空いた席に座るのに、最も相応しくない女ーー麻由子だ。
「ごめん……ごめんなさい、由香里さん。手が震えて、車の運転が怖くて……」
それなら何故、この場へ来たのだろう。恐怖のあまり、スマホへ連絡する約束を忘れたのだろうか。
麻由子の声はかすれ、指先はガタガタと震えていた。その震えを見て、私は小さく息を吐き出し、胸の奥の緊張をほぐした。
「……やってくれた……のよね?」
低く尋ねると、麻由子は何度も激しく頷いた。
「はい……言われた通り、あなたの旦那さんに睡眠薬の混ざったお酒を飲ませて……首を……」
完璧だ。
私は胸の中で小さくガッツポーズをした。これで私は、あの暴力とモラハラに満ちた日常から解放される。しかも、殺したのは私ではない。だが……。
「此処へ来たら、ダメじゃない。スマホに連絡を入れる約束でしょう」
私は一段と声を落とした。それから監視カメラをちらりと見た。アリバイ工作は完璧のはずだ。それなのに、麻由子との接点が映し出されてしまっている。一刻も早く此処を出て、他人のふりをしなければ。
「これで、私達は自由よ。お互い、嫌な夫から解放されて、新しい人生を歩めるの。じゃあ、これで」
レシートを掴み、立ち上がりかけると、麻由子は私の手を握って座り直させた。 それから震えていたはずの彼女の唇が、ゆっくりと横に歪んでいった。
「新しい人生……ね」
麻由子は伏せていた顔を上げた。その瞳からは恐怖の色が完全に消え去り、濁った底暗い光が宿っていた。
「ねえ、由香里さん。あなたの旦那さんって、すごく魅力的よね」
「……え?」
「言われた通りに部屋に入って、眠らせようとしたんだけどね。彼、起きちゃったの。でね、私、彼とたくさん話をしたのよ。あなたのこと、それから、今後のこと……」
麻由子はまた俯いて、くすくすと笑い出した。
「彼、あなたの前では横暴だったかもしれないけど、私にはいつもすごく優しかったわ。『妻にはもう愛想が尽きた。本当の僕を理解してくれる人が欲しい』って、ずっと言い続けてきたのよ」
頭の中が真っ白になった。何を言われているのか、一瞬理解が追いつかない。
「何を……言ってるの? 彼は……死んだんじゃないの?」
「そんなこと、するはずないじゃない」
麻由子はいきなり、私の頬を殴りつけ胸ぐらを掴んだ。
「私の夫を返してーー」
ホールに響く声を上げ、泣き出した。その様子を監視カメラが捉えている。
「な……何するのよ」
「人殺し!!」
麻由子は大げさに私を指差してから、テーブルに突っ伏した。
それから抑えた声で
「これで私のアリバイは完璧ね」
と呟いた。
「あ、あなたは……」
「そうよ、この日を待っていたの」
「私の夫を殺してくれてありがとう、由香里さん。……じゃあ、さようなら」
麻由子はそう言うと、何事もなかったかのように立ち上がった。食器を洗う音がカシャカシャとまだ続いている。時計を見ると午前二時十分だった。
私はずっと待っていた。夫が死ぬのを、自由になるのを、新しい人生が始まるのを。
残された私は、冷め切った氷水のように固まったまま、動くことができなかった。
その時、スマホが小さく震えた。麻由子からだった。
〈遅くなってごめんなさい。変な女が一緒にいたので。今、無事に完了しました〉
私は画面から目が離せなかった。
そう言えば、あの女は一度も麻由子とは名乗らなかった。
(了)
ギリギリ間に合った〜
よろしくお願いします。