
「月を見る」#シロクマ文芸部

「月を見る」
月を見る少女の目は、恐怖と憎しみと悲しみに満ちていた。がくがくと震える両足を生温い液体がつたっていく。せっかくの赤いスカートが汚れるのも構わずに、最早その液体は少女のピンク色のスニーカーにまで達しようとしていた。
二十年以上も前のことだ。
あの誘拐事件の犯人は私だった。少女には、なんの罪もなかった。公園の砂場で遊んでいた、その子があまりにも可愛くて、私は持っていたチョコレートを差し出した。
「お嬢ちゃん、どうぞ」
そう言った私を、まるで汚物でも見つけたかのような目で、少女は見た。
「おじさん、汚いから、あっち行って」
忘れていた。私の顔は確かに汚かった。
鏡を見ることがなくなって、何年になるだろう。頬に残った引き攣れた傷痕も、右耳まで続く赤黒い皮膚も。
あの日、母は「これで少しは綺麗になる」と、熱湯の入った鍋を私の顔に……。
今なら分かる。残酷なほど子どもは正直だということが。少女はそれに従っただけだ。だが、あの頃の私はまだ若く堪え性がなかった。辺りを見回し、少女の口を押さえると、彼女を抱えて走り出していた。車の中で泣きながら、その子は
「汚い、汚い、汚い」
と言い続けた。私はただ彼女にチョコレートを食べさせたかった。私が化け物ではない証に。夜が迫り、古い防波堤を走る車の窓にくっきりと丸い月が見えた。私は少女にもう一度言った。
「お腹空いただろう。お食べ」
「いやーーっ!」
閉じた口元は頑として開かなかった。それどころか両手足をバタつかせ
「化け物、化け物」と私の顔を罵った。
多分、月灯りのせいだったのだろう。
私は雑木林の中に静かに車を停めた。泣き叫ぶ小さな身体を抱き抱え走り、松の幹に背中を押しつけて立たせた。
「食べなさい」
少女は激しく首を振った。それが私にとって、始まりで終わりのサインだった。両手で今にも折れそうな首を締めつけた。その手の感触を今も忘れることはないだろう。いや、生涯忘れない。
遠くに潮騒の音が聞こえた。少女は最後に声ともつかない深い息を吐いてこと切れた。
「おじさん、そろそろ行きましょうか」
私の背後から波の音の合間をぬうように澄んだ声が聞こえた。振り返ると満月に照らされて一人の女性が立っていた。何も訊かなくても、あの時の少女だと分かった。
「許してくれ」
「許せないわよ」
女性は穏やかに微笑んだ。
「でも逝くのでしょう」
「ああ」
私はポケットからチョコレートを取り出した。
「食べてくれるかい」
「いただくわ」
女性の白い歯が小さな音を立ててチョコレートを噛み砕いた。差し出された冷たい手を握り返し、私達は蒼い月が落ちる海へとゆっくりと歩き出した。潮騒の音だけがいつまでも響いていた。
(了)

小牧幸助さんの企画に参加させて頂きます。
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