
二気筒と眠る 隠岐|月を見る
天満月が出ていた。
その古い言葉を知ったのは、女子短大の頃だった。
天を覆うばかりに輝く月のことだという。
科学的には、最も地球に月が接近する満月のことを指すのだろう。
その日、私は離島を旅していた。
遠くの山稜までを庭にして、薄いビニールで仕切られたリヴィング、お風呂は温泉、トイレは共同という生活を初めてひと月になる。
それまでは日本海を右手に観ながら、山陰地方を南下していた。
漁港にでてお刺身を買って、氷と一緒にタンクバックに収める。テントに戻ってきてはバーナーで乾燥みそを使ったお味噌汁を作る。そして夕陽を眺めながら、冷酒を呑むという至福の日々といってもいい。
気まぐれに、そのお魚が泳いでいる海を見たくなった。
隠岐諸島までは航路が出ている。それを知って、観光案内所からパンフを貰って、じっくりと眺めている。
フェリーは境港か、松江の発着らしい。
境港といえばしじみ汁があるな、それだけでもわくわくする。
接岸しているフェリーが大口を開けていた。
早朝から準備してフェリーポートに着いた。
松江市の七類港から隠岐下島までは、海路で3時間程度とのことだ。
空冷二気筒はいつも通りの鼓動を響かせている。港の作業員がバイクでの航送を先着順に並べている。新型のカワサキとヤマハのトレール。一番古いのが私のホンダだ。島内の燃料費が高いと聞いていたので、満タンにしてある。
隠岐諸島の下島は、主に3つの有人島をまとめて、そう呼ぶ。
最初の知夫村を通過して、海士町を目指した。
ここは鎌倉時代の承久の変の後、後鳥羽上皇が流された場所だ。短大では日本文学を専攻していたので、古文は必須科目だった。
島をくるりとひと回りしても。小一時間にもならない。
お刺身が欲しくて島内を探してみたけど、小規模な店舗には置いていない。店主のおばサマに尋ねてみると、大声で笑われてしまった。
「お魚は自分で釣りにいくんさぁ、じゃなけら釣具店に生け簀があーけん。そこで買いなーとよか。だどもこんたぁ、魚を捌け~の?」
驚いて首を振ると、おばサマは店奥に消えていく。そうしてラップをかけたお皿をもってきた。そこにはカンパチらしいお刺身が並んでいる。
「漁師さんから貰いもんじゃ。お持ちんさえ」
一方で私は醤油の小瓶しか買っていない。
躊躇したけど無理やりに持たされてしまった。
嬉しそうに彼女は「このお味噌ももっていきなぃ。らぁはぁの手作りだけん」と付け加えた。
「ほんならおしまえさん」
顔に疑問符が乗っていたらしい。彼女はちょっとおどけて、お疲れ様と言い換えた。
草原の突端に、日須賀上展望台がある。
その場所に至るまでは至る所に牛が歩いていて、彼らの落とし物でいっぱいだ。新鮮な塊を踏んでしまうと、タイヤがスリップしてしまう。
そこにテントを立てているのを、いつの間にか島全体に知れ渡っていた。
右手に続く紺碧の大海原を眺めながら、二気筒を走らせる。
隠岐の島前諸島は、手のひらで包むように内海を諸島群で囲んでいる。もともとは火山のカルデラの跡らしい。
その西海面に燃え尽きるように太陽が沈んでいく。
空には紫色の雲が薄く棚引いている。振り返ると東には満月が顔を出し始めている。
お酒は諦めた。
陽が落ちると晩夏のはずなのに風が冷たい。
地表から幾つもの虫の音が響いているので、MDを聴いて時間を潰すこともない。交響曲を愉しみながら、固形燃料で珈琲をいれて啜っていた。
さあ。
中天に月が昇った。
月明かりなのに周囲の全てが見渡せるように、明るい。
愛馬に鞭を入れるように、キックスタートでエンジンに火をいれた。
ライトの光軸が草原を映し出す。その場所からもう一度、島を一周するつもりだった。
天満月を心ゆくまで、追いかけてみよう。
秋虫らの恋の唄が、追いつけない彼方へ。
