
【創作】人魚怪奇譚―人魚は歌わない (グロテスク・ホラー)
明治三十余年、初秋。
満月の明るい夜だった。
辰吉は、夜のイカ漁に出ていた。夕暮れに浜を出てから、もうずいぶん経つ。だが、その夜はどういうわけか、さっぱり釣れなかった。
海は妙に静かだった。
風もなく、波もほとんど立たない。月明かりが海面に長く伸び、船の周りだけがぽっかりと白く浮かんでいるようだった。
ギイッ……コン、ギイッ……コン。
辰吉は櫓を動かし、船の位置を少し直した。
ふと、月の光の中に、何かが見えた。月を背にした、黒い影だった。
最初は、岩か何かが海面から突き出しているのかと思った。だが、船がわずかに揺れた拍子に、それが人の顔の形をしていることに気づいた。
女だった。
辰吉は櫓を止めた。
女の顔は、波間に半ば沈んでいた。月を背にしているため、表情まではよくわからない。人が泳いでいるのだろうか。
「おい!」
辰吉は声をかけた。
返事はない。
女は、こちらを向いたまま動かなかった。
辰吉は少し迷ったあと、櫓を握り直し、船をそちらへ寄せた。
ギイッ……コン。
船が近づくにつれ、月明かりが女の顔を照らし始めた。
白い肌に、細い顎。濡れた睫毛の下には、黒々とした瞳がある。年の頃は二十歳そこそこだろうか。息を呑むほど美しい顔だった。
「おい、大丈夫か。どうしたんだ」
もう一度声をかけた。
やはり返事はない。辰吉は眉をひそめた。
女は、瞬きひとつせず、ただじっとこちらを見つめていた。
辰吉は船縁から身を乗り出した。
「おめえ、どこの者だ。こんなところで何をしている」
女は答えない。
波間から出ているのは顔だけだった。水中には、ほっそりした首と白い上半身を思わせる輪郭が揺らめいているのが見える。
「手を貸せ。引き上げてやる」
辰吉が手を伸ばしかけたとき、女の顔がわずかに揺れた。水の中で何かが動いたようだった。
辰吉は手を止めた。
女の黒い瞳は、相変わらず辰吉を見つめている。その目に、助けを求める様子はなかった。恐怖も、困惑もない。ただ、こちらを見ている。まるで、何かを待っているように。
辰吉が再び女に手を伸ばそうとした、そのときだった。
ぱしゃん
船縁のすぐ下で、水が小さく弾けた。何かが、船の側面を伝って上がってくる。辰吉が気づいたときには、もう遅かった。
手の甲に、何かが触れた。焼けるような痛みがビリリと走る。
「うっ……!」
反射的に手を引く。
見ると、手の甲に細い赤い筋が残っていた。何に触れたのかはわからない。水面には、黒いものが一瞬だけ沈んでいくのが見えた。
痛みはすぐに遠のいた。だが、妙だった。手の感覚が、少しずつ薄れていく。
「なんだ……」
女は、相変わらずこちらを見ていた。
辰吉は船縁から身を乗り出し、水面を覗き込んだ。
そのとき、月明かりの下に、女の髪が不自然に広がっているのが見えた。水面に浮かぶというより、水の中へ幾筋にもほどけ、ゆらゆらと広がっている。
ずいぶん長い髪だ。
辰吉はそう思った。
だが、妙だった。波はほとんどない。それなのに、髪は絶えずうねうねと揺れていた。黒い糸のようなものが、それぞれ別の生き物であるかのように、細かく動いている。
辰吉が目を凝らすと、その糸状のものの先端が、いくつも水面から持ち上がった。まるで、こちらの様子をうかがうように。
「ヒッ」
辰吉は身を引いた。
「なんだ、こいつは……」
女の顔は変わらない。白い肌に、黒い瞳。ただ辰吉を見つめている。
そのとき、痺れが手首へ広がっていることに気がついた。
まずい。
どこからか歌が聞こえた。細く、遠く、懐かしい女の声だった。辰吉はあたりを見回した。ほかに人影はない。
目の前の女の唇は閉ざされたままだ。それでも歌は聞こえる。
耳から入ってくるのではない。頭の奥に、ずっと昔から知っていた旋律が、ゆっくりと海の底から浮かび上がってくるようだった。
辰吉は、数年前に仲間の一人が行方知れずになったことを思い出していた。
男は姿を消す数日前、満月の晩に妙なものを見たと話していた。
「沖に女が浮いとったんだ。妙に綺麗な顔でな。ちょっと目を離したら、もう見えなんだ」
「人魚か何かじゃねえのか」
誰かが冗談めかして言った。
「そうかもな。遠目だったが……どうにも気になって忘れられん」
その数日後、男は漁に出たまま戻らなかった。
翌朝、船だけが見つかった。転覆した様子もなく、櫓も網も残っていたという。村では、人魚に拐かされたのだと噂になった。
辰吉は、目の前の女を見た。あの男が見たものも、これだったのだろうか。女の周囲では、黒い髪が水中に広がっている。糸のようなものが、いくつも水面近くでうねっていた。
辰吉は櫓に手を伸ばした。
もう、ここにいてはいけない。
だが、手に力が入らない。手首から肘にかけて痺れが広がり、櫓を握ることさえ難しかった。
女の顔は、相変わらず波間に浮いている。頭の奥で歌がいっそう大きくなった。
こっちにおいで。戻っておいで。
誰かが、懐かしい声で呼んでいる。
辰吉は首を振った。違う。これは人の声ではない。それなのに、胸の奥に、どうしようもない懐かしさが込み上げてくる。
あぁ、疲れた。帰りたい。海に帰りたい。
ふと、そんな思いが湧いた。
突然、女の顔に異変が起きる。
顔の中央に、黒い筋がすうっと走った。額から顎へ、顔を縦に二分するように。
次の瞬間、頭部が左右に開いた。
二枚貝の殻が口を開くように、後頭部側を残してゆっくりと開いていく。左右に開いた面には、女の顔だと思っていた模様がそのまま残っていた。その奥は暗く、湿った肉壁が幾重にも重なっている。さらに奥まったところに、円形の口らしきものがあった。周囲には細かな歯が幾重にも並び、ヤツメウナギの口を思わせる、見たこともない異様な姿。
辰吉は息を呑んだ。
「ば、化け物……!」
辰吉は銛を掴もうとするが、海面の下で、女の体が大きくうねり、船がぐらつく。そのとき初めて、辰吉はそれがどれほど大きな生き物なのかを知った。
女の頭だと思っていた根元からは、黒く大きな体が続いている。体表には、人間の女の体を思わせる白い模様を描いていた。月明かりの中、その模様は水の揺らぎに合わせて歪み、人間の体が水に融けていくように見える。
そのとき、船の周囲で水が動いた。少し離れた波間に、また別の女の顔が二つ現れた。どちらも若い女の顔だった。その下では、黒く長い体がゆっくりとうねり、白い模様が水の中で揺れている。
一匹ではなかった。
逃げなければならない。辰吉は船縁に手をかけ、身を起こそうとした。だが、指先の感覚はほとんどなく、腕にも力が入らない。
波間に浮かぶ顔は、どれも黒々とした瞳で辰吉を見つめていた。まばたきひとつしない。何かがまた船の下を通り過ぎた。船が大きく傾き、積んであった道具が滑って音を立てる。
「来るな……!」
声は波音にかき消された。
それでも、頭の奥では歌が続いている。どこか懐かしく、耳に馴染む旋律だった。
辰吉は目を閉じた。数年前に姿を消した仲間の顔が浮かんだ。あの男も、こんな声を聞いたのだろうか。
海の底から、懐かしい声が呼んでいる。
もう、帰ろうよ。そうだね、帰ろう。
誰かがそう言った気がした。
辰吉は船縁に手をかけた。帰らなければならない場所がある。待っている者がいる。そう思うと、海の底がひどく懐かしく感じられた。
とぷん。
そのあと、波間には何も見えなくなった。黒い糸も、女の顔も、すでに姿を消していた。
翌朝、もぬけの殻の船が浜に流れ着いていた。辰吉が浜へ戻ることは二度となかった。
それから、浜では妙な話が囁かれるようになった。
月の明るい夜、沖に美しい女が浮かぶという。白い顔に、黒い瞳。長い髪を海中に広げ、じっとこちらを見つめている。近づいた者は、女の歌に魅入られ、帰らなくなるのだという。上半身は人間のそれなのに、下半身は魚のようだったとも伝えられた。
ある者はそれを人魚と呼び、やがて、誰もが知る人魚怪奇譚になった。
けれど、実際には歌などなかった。女が海に浮かんでいたわけでもない。ただ、月明かりの下で、人の顔に見える模様を持った生き物が、静かに獲物を待っていただけだった。
後年、ある学者が、この海域で採取された奇妙な生物の標本を調べたという。
先端部ニハ無数ノ細キ糸状器官ガ密生ス。眼ニ相当スル器官ハ認メラレズ、該器官ヲ以テ水中ノ振動ヲ感知スルモノト推察セラル。又、該器官ニハ毒性アリ。接触シタル生物ノ神経系統ニ作用スルコト判明セリ。体表ニ認メラルル、人間ノ顔貌及ビ身体ヲ思ハシムル白色ノ紋様ハ、獲物ヲ誘引シ捕食スル為ノ擬態ナルベシ。毒ノ作用ヲ受ケタル者ハ、聴覚其ノ他ノ感覚ニ異常ヲ来シ、無音ノ場所ニ人声ヲ聞キ、或ハ波浪ノ音ニ旋律ヲ感ズル等、幻聴ヲ呈スルコトアリ。
海洋異類生物研究所
標本は激動の時代と共に、いつしか消失し、記録も散逸した。
海には、今も名のない生き物がいるのかもしれない。海は、何も語らない。
⚠️グロテスクなので閲覧注意⚠️
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ポルノと暴力に引っかかりもう作れない(泣)
違うってば!