
本質を見抜く眼差し
弓道は「的に矢を当てる競技」ではない。
私にとっては、自分自身と向き合うための儀式だ。
私には、弓道を通じて教わったことと、
忘れられない師範とのエピソードがある。
■弓道の師範の教え
まっすぐと立つべきところに立ち、
然るべき所作を通じて矢を的へ射ると、
外にも内にも歪みがなければ、
狙わずとも、自ずと矢は的に中る。
大学生の頃に半年だけ所属していた、
弓道部の師範に初めてお会いした時、教わった言葉だ。
私は弓道初心者だった。
弓の引き方も、矢の番え方も、
矢を番える弦が消耗品であることも、
どういう原理で矢が飛んでいくのかも知らなかった。
そんな人間に、
師範が語ったのがこの言葉だった。
■初めての一矢
狙わなくていいんだ。
初めのうちは、その感想しか浮かばなかった。
2か月程度の初心者向けの練習を経て、
初めて的に向かって矢を射た時だった。
立つべきところに立ち、
決められた通りの所作で矢を番え、弓を引き、
教えに従って狙いをつけることなく、的を射た。
私の最初の一矢は、
本来は隣に立っている人が射るはずの的に飛んで行った。
外側に歪みはなかったはずだった。
射形(弓を引く所作、矢を射る前後の所作など)は、
初心者にしてはキレイだと言われていたからだ。
■本質を見抜く眼差し
「はじめのうちはそんなもの」なのかもしれない。
しかし、外側からは問題ないように見えていても、
内側から無理やりに歪めて形だけを整えているとしたら?
その歪みは目に見えないものだが、
「矢が隣の的に中った」という事実が自分の目の前にある。
その光景は、
「いかに自分を内側から歪めているのか」
を表しているように感じた。
その日、師範は不在だった。
今思い返してみると、師範は初めてお会いした時点で、
私の本質を見抜いていたのかもしれない。
■私が求めているもの
弓道は今でも好きだ。
社会人サークルも探してみて、
実際に練習の場に参加させて頂いたこともある。
ただ、正式に所属することはなかった。
試合や段位にはあまり関心がなかった。
ひとりで弓を引いている、
あの静かな世界が好きだった。
私が今も求めているのは、
「弓道」という形式ではなく、
「自分自身と向き合える瞬間」なのかもしれない。
■弓の代わりに手にしたもの
私の趣味のひとつは、風景写真の撮影だ。
人物を撮影することはほぼない。
相棒のカメラを構え、
せまいファインダーを覗き込む。
周辺の視界は遮られ、見えるのは前方だけだ。
「前だけをハッキリと見ることができる」この状態は、
「自分自身と向き合うことができる」瞬間でもある。
私は今、弓の代わりにカメラを手にしている。
やることは基本的に同じで、心構えも変わらない。
■受け継がれる心構え
まっすぐと立つべきところに立つ。
然るべき所作を通じて、シャッターをゆっくりレリーズしていく。
外にも内にも歪みがなければ、
狙わずとも、自ずといい写真になる。
その結果として、
稀に「作品」と呼んでも良いような写真が撮れる。
師範の教えは、
形を変えて今も私の中に残り続けている。
※本作品は、下記の記事を改稿したものです。