
「障害受容ができていない」と言われたことはありますか?
「世界はサカサマ!当事者家族のほんねラジオ」は、脳卒中で片麻痺になった夫と暮らす妻が、当事者家族としての本音を話すポッドキャストです。この記事は、ポッドキャストで話した内容を文字で読めるようにしたものです。
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オープニング
『世界はサカサマ!当事者家族のほんねラジオ』
おはようございます。世界はサカサマ!のAccoです。
この番組は、脳卒中により片麻痺になった夫の妻として、当事者家族のふとした疑問や感じたことなどを本音で伝える番組です。
「障害受容なんて絶対したくない」という声
今日は、少し物議をかもすかもしれない話をします。テーマは障害受容です。
脳卒中の当事者の方と話していると、障害受容についていろいろな声を聞きます。
1つは「障害受容なんて絶対したくない」「受容なんかしない、絶対あきらめない」という声です。もちろん、その心意気は素晴らしいと思いますし、応援したいと思っています。
その一方で、「障害受容したくても、なかなかできません」「どうしたら障害受容できますか」という相談を受けることもあります。
そういう声を聞くたびに、障害受容は別にあきらめることではないんじゃないかな、と思うこともあります。
かといって、障害受容とはどういうものなのか、ちゃんと説明できるかというと、なんとなくふわっとしていて説明ができません。そこで今回は、障害受容について考えてみました。
上田敏先生の「障害受容」の定義
障害受容について調べてみると、日本で障害受容の定義としてよく使われているのは、リハビリ医の上田敏先生が書いたものでした。
その上田先生が2020年に「『障害の受容』再論―誤解を解き,将来を考える―」という特別寄稿を書いていて、これがネットで読めるので、私も読んでみました。
上田敏「『障害の受容』再論―誤解を解き,将来を考える―」(The Japanese Journal of Rehabilitation Medicine 57巻10号、2020年)
障害受容という考え方自体は、1950年代のアメリカの心理学から生まれたものだそうです。上田先生はそれまでの研究をまとめて、1980年に日本でこの定義を書いたそうです。
障害受容という言葉には、ちゃんと定義があったんです。私は、それすら知りませんでした。
上田先生の定義は、こうです。
障害の受容とはあきらめでも居直りでもなく,障害に対する価値観(感)の転換であり,障害をもつことが自己の全体としての人間的価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じて,恥の意識や劣等感を克服し,積極的な生活態度に転ずることである
少し難しいのですが、ざっくり言うと、障害があっても自分の人間としての価値は下がらないと分かって、恥ずかしさや劣等感を乗り越え、前向きに暮らせるようになること。それが障害受容だ、ということです。
定義の冒頭に、障害の受容とはあきらめることではない、とはっきり書いてありました。ここを混同している人が多いのだろうなと思いました。
「価値の範囲の拡大」ってなんだろう
さらに、価値観の転換には4つの側面があるとも書いてあって、その1つ目が「価値の範囲の拡大」です。
価値の範囲の拡大とは何なのか、この言葉についてもネットで調べてみました。
私なりの理解ですが、障害を負う前は、たとえば速く走れること、健康であること、見た目がきれいであることなどが自分の中の価値だったのが、障害を負うことでその価値が崩れてしまう。それによって強い喪失感に襲われたり、自分は無価値な人間だと思ってしまったりすることもあるけれど、その中でも新しい価値観を見出したり、芸術など今まで気づけなかった価値に目を向けたりすること、だそうです。
これは、すごくよく分かります。
脳卒中になると、今までできていた運動ができなくなったり、仕事がうまくできなくなったり、うまく話せなくなったりと、できなくなることが多いです。けれど、そのおかげで新しい趣味に目を向けたり、病気にならなければ出会えなかった人との交流が生まれたりと、「悪いことばかりじゃないよね」という声もたくさん聞きます。
ただ、だからといって、障害受容ができなくて落ち込んでいる人に「新しい趣味を作ろう」「もっと外に出て新しい人と出会おう」と強制できるかというと、もちろんそれはできません。
受容は一直線には進まない
上田先生によると、受容するまでには、ショック期、否認期、混乱期、解決への努力期、受容期という5つの段階があるそうです。
この段階も、ショック期の次は否認期、その次は混乱期と一直線に進むものではなく、逆戻りしたり、行きつ戻りつしたりするものだそうです。そろそろ受容できるかなと思ったら、また混乱期に戻る、ということもあるわけです。
それなのに、病院やリハビリの現場では、悩んでいる患者さんに「障害の受容ができていない」と、受容しないのは患者さんが悪いかのように責める使われ方をされてきた。それは上田先生にとっても思いもよらないことだった、と書いてありました。
まわりが受け入れることも、本人の受容に影響する
もう1つ「なるほど」と思ったのが、本人が障害を受け入れることと、まわりが本人を受け入れることは影響し合う、という話です。
まわりの人が、障害のあるありのままのその人を、価値のある存在として受け入れることが、本人の受容の大きな助けになる。逆に、まわりがそう見てくれないと、本人の受容も邪魔されてしまう。
この論文には「社会受容」という言葉も出てきます。本人だけでなく、社会の側が障害のある人を受け入れているか、という視点です。
私は当事者ではなく家族の側の人間なので、ここは強く肝に銘じようと思いました。
障害かどうかは、その時代が決める
これを読んで思い出したのが、最近聞き始めたコテンラジオの「障害の歴史」シリーズです。
長いので、まだエピソード3の途中までしか聞けていないのですが、その中で、社会にとって価値のある人間は時代によって変わり、その価値があるとされる素質から離れた人が、いわゆる障害者のような位置づけにされてきた、という話をしていました。
聞き流しながらだったので細かいところは違うかもしれませんし、最後まで聞いていないので、このあとのエピソード次第で解釈が変わるかもしれません。
たとえば、子どもを産み育てることが女性の最大の価値とされた時代には、妊娠できない女性は欠陥とみなされ、著しく不利益を被っていた。産業革命の時代には、工場で機械を動かせない人間は価値のない人間とされ、その後の富国強兵の時代には、国のために戦えない人間が価値のない人間とされてきた。
つまり、障害かどうかはその時代が決める、ということです。
夫は左半身麻痺という障害はあるけれど、パソコンを使って仕事ができるし、YouTubeで発信もできるので、自分を無価値な人間だと思わずに済んでいます。「今の時代に生きてて良かったね」と、夫ともよく話しています。
ちなみに、上田先生の寄稿文では、障害受容について書かれた本もいろいろ紹介されていました。上田先生ご自身の『リハビリテーションを考える』、田島明子さんの『障害受容再考』、南雲直二さんの『社会受容』などです。
今回は本までは読めなかったので、この寄稿文から分かったことだけを書いています。本の方も、いつか読んでみたいと思っています。
うちの夫の場合
ここまで調べてみて、うちの夫はどうなんだろうと考えてみました。
実は、前に夫に聞いたことがあります。
夫は46歳で発症して、今はもう50歳を過ぎています。50代にもなると、老いも感じるようになってきます。24時間365日リハビリのことばかり考えるのは、時間がもったいないと思ってしまうんです。誰しも老いには勝てませんから。
だから、この体でも楽しめることをしたい。でもそれと、回復をあきらめずにリハビリを頑張ろうという気持ちは、相いれるのだろうか。そう夫に聞いてみました。
すると夫は、はっきり「相いれる」と言いました。
回復はあきらめていない。でも、がむしゃらではない。顔を洗うとか、歯を磨くっていうのと同じで、リハビリは淡々とやる。でも、リハビリだけの人生で終わらせたくはないから、もちろんこの体でも楽しめることは楽しむよ、と。
さっきの「価値の範囲の拡大」は、まさにこれだなと思いました。
発症した日が「ステージゼロ」
私から見ると、夫はわりと早くから障害受容ができていたと思います。
もともと夫は、良くも悪くも、自分のことを客観的に見る性格です。それに加えて、回復までの道のりをゲームのように捉えていて、発症したときがステージゼロ、そこからどう攻略して1つ1つクリアしていくかを、入院中から考えていたそうです。
なぜステージゼロなのかというと、倒れた瞬間のことを覚えていて、生きていればあれより悪くなることはないかな、と思ったからだそうです。
もう1つ、夫がよく言っていたのが、「発症前と比べるともちろんマイナスばっかりなんだけど、発症当時と比べたらプラスしかない」ということです。
本当に、うらやましいぐらいポジティブです。どう育ったらここまでポジティブに、しかも冷静に自分のことを見られるのか不思議ですし、ちょっとしたことでうじうじ悩んでしまう私には、本当にうらやましいです。
私が見る限り、夫は自分の気持ちや体をうまく操縦できていて、偉いなと思っていました。でも夫いわく、「イライラはする。けど、ずっとイライラし続けるのもしんどいから、そのうちやめる」のだそうです。
言葉だけが一人歩きしている
調べてみて思ったのは、障害受容の定義をちゃんと知っている人は、ほとんどいないんじゃないか、ということです。私も知りませんでした。
上田先生も論文の中で、リハビリ専門職の教科書を調べると、障害受容という言葉は出てくるけれど、ほとんど説明がない。言葉だけを覚えて、中身は自己流に解釈されているのではないか、と書いていました。
だから、障害受容という言葉だけが一人歩きして、「受容なんてやだ」と言ったり、受容できない自分に悩んだり、まわりから「受容しろ」と言われたり、ということが起きているのではないかと思いました。
障害受容という言葉が嫌いだという気持ちも、もしかしたら本来の意味に向けたものではないのかもしれません。「早く受容しなさい」「あの人は受容できていない」、逆に「あの人は受容できているのに」といった使われ方をしてきたことへの反発なのかな、と思いました。
そう言われたら、「あきらめろ」と言われているように聞こえることもありますよね。
障害受容は、自分でするもの
私が最後に言いたいのは、障害受容は自分でするもので、まわりが押しつけたり、批評したりするものではない、ということです。
これは、家族である私も気をつけたいと思っています。
さきほど私も、夫は「早くから受容できていた」と書きましたが、それも私から見た夫でしかありません。イライラせずにうまく操縦できていると思っていたのに、本人に聞いたらイライラはしていたわけです。家族でも知らないことは、たくさんあります。
だから、受容できているかどうかは、まわりが決めることではない。本人のものなのだと思います。
皆さんは、障害受容という言葉を言われたことはありますか? そのとき、どう感じましたか?
エンディング
番組では、あなたからのおたよりをお待ちしています。うまく言葉にならないモヤモヤのままで大丈夫です。こちらのフォームから気軽に送ってください。番組の中で紹介させていただきます。そしてこの番組を応援してくれる方は、ぜひSpotifyのフォローやApple Podcastのレビューをお願いします。それではまた次回お会いしましょう。バイバイ。
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