
【神人共食】第一部・一にして逸|二・神饌・其参
翌日。
空木は、いつものように会社へ向かい、いつものように仕事にとりかかる。
本当に、何も変わらない。
ただ、一つだけ変化がある。
昨日まで少し重く感じていた身体が、今日は幾分か軽いように思えるのだ。
まあ、とはいえ、気のせいだろう。体調など、波のあるもの。たまたま、そういう時期になったのだろう。
空木はそう思い直した。
午前中、昨日から引き続いていた試作の確認があった。
本来なら、いくつか修正を求められるはずで、上司からも、細かなところを指摘されるだろうと想定していた。
ところが、そうはならなかった。
「うん、これでいいんじゃないかな。問題ないと思う。」
上司は資料を一通り眺めると、あっさりと言った。
空木は何かの間違いではと、少しだけ顔を上げ、上司の微表情を読み取ろうとしつつ、一言。
「……このままで大丈夫ですか?」
「ああ、そうだね。特に問題ないね。」
拍子抜けするほどに、あっさり。
いつもなら、ここから十数分ほど話が続くのが通例だ。
塩分がどうだとか、原価がどうだとか、前回の試作との比較がどうだとか、あげく普段の業務に対する姿勢の甘さに言及してくることも少なくない。
しかし、その日は何もなく、打ち合わせは、それだけで終わった。
空木は席へ戻り、椅子に腰を下ろし、ふと昨日のことを思い出した。
——何事もなく、過ごせますように。
「まさか、あの願いが。」
いや、まさか。
空木は、そこで思考を止めた。
そんなことがあるはずがないだろう。昨日のことと、今日のことに因果関係などあるわけがないのだ。
ここで昨日の願いと先ほどの打ち合わせでの出来事を因果の鎖で結ぶなら、とんだ錯誤相関というもの。
ただの、偶然だ。
そう考える方が自然に感じられた。
*
昼休み。
空木は昼食を済ませると、また屋上へ向かった。
空木は祠の前まで歩いていき確認すると、昨日置いた握り飯は、やはりなくなっている。
空木はしばらく、その場を眺めていた。
「……一体、何が食べたのかな。まさか、いや、まさかね。」
誰に言うでもなく、そう呟く。
当然、返事はない。
空木はビニール袋から、今日も昨日と同じオニギリを一つ取り出し、祠の前に置いた。
がらにもなく、その際空木の心中には「返礼」の二文字が一閃去来した。
昨日とは違い、今日は惜しいとは思わない。
むしろ、「ぜひに」といった感じだろうか。
空木は立ち上がり、祠を見つめる。
相変わらず神などいようはずもないと思うものの、どこかいてほしいと思う自分もいるようだ。
——何事もなく過ごせますように。
昨日の願いは、頭の中で幾度か反すうされた。
笑うしかあるまい。
空木は少し考えてから、昨日よりもずっと気軽に、祠へ向かって切り出す。
「……じゃあ」
自分でも、何をしているのだろうと思うと笑うしかないが、
「仕事が、もう少し楽になればいいんですけど。」
「……あと」
脳裏に、今朝の上司の顔が浮かび、そこで言葉を切った。
あの嫌いというほどではないが、ただ、自分とは本質的に合わないと感じられて仕方のない男。
お互いの遺伝子が、相反する磁極のごとく反発しあうように感じられる、あの男の顔だ。
そして、つづけた
「上司も、もう少し変わってくれればいいんですけどね。」
それだけ言うと、空木は自分で可笑しくなってクスっと小さく笑った。
何を願っているのだろうか、神などいないのに。
こんな小さな祠に向かって、仕事が楽になれだの、人が変われだの。
まるで子供のようではないか。
「……まあ、いいか。」
空木はそう呟くと、またいつものように祠に背を向け、振り返らずに戻っていった。
祠の前に残されたオニギリは冷えていた。
*
午後。
仕事は、不思議なほど順調に進む。
一つ、二つと処理すべき仕事が片付いていき、いつもなら確認に時間のかかる資料も、今日はすぐに確認が終わった。
夕方になって、上司から声をかけられた。
「空木さん。」
「はい、なんでしょうか。」
「ちょっと話があるんだけど」
空木は椅子から立ち上がり、上司のもとへ向かう。
何かミスでもあったのだろうかと、内心動揺が隠せないが、表面には出すまいと顔の筋をこわばらせた。
「来月から、担当が少し変わることになってね」
「は、はい…担当が?」
「ああ、人事の方で調整があってね。いやあ、突然でまいったよ。」
上司は淡々と話し、空木は黙ってそれを聞く。
まだ何が変わるのか、詳しいことまでは分からないが、少なくとも、今までとは少し違う形になるらしい。
「そうですか」
空木は、その後多少の上司の愚痴ともなにともつかぬ数度のやりとりを定型的にこなした後、席に戻った。
——もしかして。
その考えを、空木はすぐに打ち消した。
偶然だ。
そんなことがあるはずがない。
そう思いながらも、昼に置いたオニギリのことが、頭から離れなかった。