
【神人共食】第一部・一にして逸|一・屋上・其弐
屋上を出ると、風が嘘のように弱くなった。
扉一枚隔てただけで、まるで雰囲気が違う。
内と外でのこの差異。
そこはかとない、おごそかさを感じぬでもない。
階段には、蛍光灯の白い光が等間隔に並ぶ。
彼女は、手すりに触れながら少し足早に階段を下りていく。
靴音が、狭い踊り場に小さくこだまし、返ってくる。
昼休みの名残なのか、踊り場には弁当の匂いがかすかに残っている。
焼いた魚の匂い。
醤油の匂い。
誰かが食べた味噌汁の、出汁の匂い。
彼女は足を止めず、四階まで下りると、廊下には午後の仕事へ戻る社員たちの姿がある。
「あ、空木(うつぎ)さん。」
声を掛けられ、空木は顔を上げた。
廊下の向こうから、白衣を着た男性が歩いてくる。
声を掛けられたので振り向くと、そこには商品開発部の同僚が、ファイルを抱えて立っている。
「午後の官能評価、予定どおり二時からで大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です。」
「今日は、三品ですよね。」
「ですね。」
「そういえば、昨日の試作、食べましたか?」
「いえ、まだですね。」
「じゃあ、評価室に置いてありますから、お願いします。」
「はい。ありがとう」
同僚はそのまま自分の席へ戻っていった。
空木も自分の席へ。
午後一時を少し過ぎた廊下には、昼食を終えた人間たちの余韻がまだ残っている。
笑い声。
椅子を引く音。
紙コップを捨てる音。
誰かが開けた菓子の袋から、甘い匂い。
空木が自分の席に戻ると、机の上には、昼食のときに使った弁当箱が置かれている。
蓋は、箱をやや斜めに縦断する様置かれ、隙間から中をのぞくに、米粒が三つほど残っているのが見える。
空木はそれを認知するも、何でもないように蓋を閉める。
「空木さん、これお願いします」
隣の席から声。
「あ、はい」
昼下がりの余韻を背景に、いよいよ午後の仕事が始まる。
今日は、冷凍惣菜の新商品の評価である。
開発中の商品のため、まだ正式な商品名はなく、ただ番号だけが振られている。
空木は一覧表に目を通す。
味付けの濃さなど条件を少しずつ変えた試作品が三種類。
「空木さん、評価室、準備できました。」
向かいの席にいた社員が空木に声を掛ける。
「はい、分かりました」
空木は立ち上がり、評価室へと向かう。
評価室は、商品開発部の奥にある小さな部屋だ。
窓はあるが、ブラインドが下ろされている。
室内には長机が並び、その上に白い紙皿と紙コップ、それから番号の書かれた小さな容器が置かれている。
そこには、水も用意されていた。
食品の色や形が評価に影響しないよう、器は白で統一されている。
空木は椅子に座り、担当者から説明を受ける。
「えーと、今日は三点ですね。順番はこの番号どおりでお願いします。まず外観を確認して、そのあと香り、味、食感を評価してください。気になった点があれば、用紙に記入してください。お願いします。」
「はい、わかりました。」
空木は、手短に頷き、最初の容器を開ける。
湯気とともに、醤油と出汁の匂いが立つ。
空木は、まず外観に目をやる。
照り。
色むら。
具材の大きさ。
表面に残る水分。
ひとしきり確認した後、次に、空木はすぐには口に入れず、匂いを嗅ぐ。
爽やかというほど軽くはないが、重いというほどに濃くはない匂い。
醤油の香りの奥に、わずかに少し嗅覚をくすぐる程度の生姜がある。
けれど、生姜は決して香り全体から浮いておらず調和しているが、それでももう少し存在感を弱めた方がよりバランスが取れるだろう。
空木は一口食べる。
噛み下し、飲み込み、しばし待つ。
「……」
味そのものは悪くはない。
塩味も、甘味も調和がとれている。第一印象は上々だ。
ただ、飲み込んだあとに、舌の奥にやや鋭い一瞬突き立てるような塩味が残っているのを感じた。
おそらく、多くの人間には気にならない程度のささいなもの。
空木は評価用紙に書き込む。
〈後味に塩味が残る〉
それから、少し考えて、つけ加える。
〈生姜の香りをもう少し抑えてもよい〉
そこで、一呼吸置いたのち、試作品の横に置かれた紙コップを手に取り、一度水で舌を清める。
そして、次の試作品へ。
こちらは、さっきのものより少し香りも味も全体的に薄い。
空木は同じように口にした。
噛み下し、飲み込む。
今度は、先ほどのように鋭い塩味は残らない。後味は上々だ。
ただ、代わりに、出汁の輪郭が弱く、食べやすい代わりに印象にかける。
空木はしばらく考えてから、評価を書きこみ、それからペンを止めた。
「うん、こっちのほうがいい。」
隣にいた担当者が顔を上げる。
「それは、、二番?塩分を落としたほうですよね」
「はい。でも、出汁は少し足したほうがいいと思いますよ。これだと、リピートしたくはならないと思う。」
「なるほど、わかりました。」
つぎに、空木は三番目の試作品へ。
白い皿の上に、同じような料理が置かれている。
見た目には、ほとんど違いがない。
彼女はそれをしばらく見つめ、先ほどと同じ手順で分析を始めた。
香りを確認した後、一口。
舌に触れた瞬間の味、噛んだときに広がる味、飲み込む直前に現れる味、そして、飲み込んだあと、口の中に何が残るのか。
空木は、ひとつひとつ確かめていく。
甘味は弱く、塩味は二番より明瞭、しかし、先ほどの一番ほど尖ってはいない。
出汁は舌の中央ではなく、少し奥に残る程度、そして、香りは悪くない。
ただ、脂の匂いがわずかに遅れて上がってくるのが気になる。
空木は一度、水を飲み舌を休ませ、数秒待ってから、もう一度食べ言う。
「んー……後半が少し重いですね。」
「脂ですか?」
空木は少し考えつつ、答える。
「ああ、いえ、脂そのものというより、香りが残るんでしょうね。食べているときは気にならないけど、飲み込んだあとに出てくる。」
「なるほど」
空木はペンを取り、評価用紙にゆっくりと書き込む。
〈後味に脂香が残る〉
彼女は書き終えると、ペン先を紙から離し、空木は三つの試作品を見比べた。
一番は味が強く、二番は整っているが存在感に乏しく、三番は香りに奥行きはあるが少々重い。
どれも、少しずつ違う。こうした違いを拾い上げ、言葉にするのが彼女の仕事だ。
けれど、空木はときどき思う。
食べ物は、言葉にするよりずっと早く、身体の中へ入ってしまう。
舌で味わい、喉を通り、胃へ落ちる。
そこで、それまで食べ物だったものは、もう食べ物ではなくなる。
消化という過程の果て、食べ物は身体の一部と、その外界に置かれるべき異物とに分かたれる。
自分ではないものが、自分の内側へ入り自分を形づくる。
この境目を、空木は時折、不思議に思うのだった。