
【神人共食】第一部・一にして逸|一・屋上・其肆
目覚まし時計が鳴る少し前に、空木は目を覚ました。カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。
何となしに、空木はしばらく天井を見ていたが、やがて身体を起こした。
洗面所へ行き、顔を洗い、歯を磨き、髪を整え、簡単に化粧をする。
いつもの朝だ。
台所へ行くと、炊飯器には昨夜のうちに予約しておいた米が炊き上がっている。空木は茶碗によそい、味噌汁を温め、冷蔵庫から卵を取り出した。
フライパンに油を引き、卵を割ると、白身が広がり、縁から小さく音を立てる。
空木はそれを見ながら、昨夜のことを思い出した。茶碗に残っていた二粒の米。それから、幼いころの食卓。
「依緒、残すの?」
あの声だけが、未だに何か心に残る。あの時、母親はどんな表情をしていただろうか。空木は卵を皿に移し、朝食を手際よく食べ終え、茶碗を流しへ運ぶ。
ふと見ると、茶碗の底に米粒が一つだけ残っている。空木は箸でそれを拾い、口に入れた。それから何事もなかったように、茶碗を水につけた。
出勤の時間。
空木はトレンチコートを羽織り、鞄を持って部屋を出る。外は昨日と同じように寒い。
駅へ向かう人々の中を歩き、信号を渡り、いつもの道を通る。
その日は、弁当を作る気分ではなかったので、途中、コンビニにより、その日の昼食を物色する。
今日の気分は、オニギリ。具材は、シャケとツナマヨ。購入数計四。内訳はシャケ三に、ツナマヨ一。
空木は会計を済ませると、そのまま会社へ。午前中は、昨日の評価結果をもとに、試作の修正内容を確認した。
出汁を少し増やす。
塩味をわずかに抑える。
脂の香りを調整する。
数字と文章を確認し、必要なところに印をつけていく。仕事は滞りなく進んだ。
午前十一時を少し過ぎたころ、空木が資料を閉じた際、ふと屋上のことを思い出した。
昨日、握り飯を置いた際も、やはりなくなっていた。あれが何だったのか、空木には未だによく分からない。
まあ、カラスか何かが食べているのだろう。
昼休み。
社員たちはそれぞれ食堂や休憩室へ向かっていく。
空木も出勤時に購入したオニギリを持って席を立ち、また屋上へ向かう。
いつもの屋上へ続く道を通り、扉の前に立っていつも通りにドアノブを回し、扉を開ける。
扉の隙間から、手の甲を伝って冷気が全身を侵食する。屋上は、今日もまた昨日と同じ冷たい風が吹いている。
今日も、屋上には誰もいない。空木は祠の方へ歩いていったが、やはり祠の前には、何もない。
空木は祠の前にしゃがみ込み、しばらくそれを見た。何も昨日と変わりはしない有様。とても、神がいるようには見えない。
いや、そもそも空木は神を信じてなどいないのだが。
空木は立ち上がり、ビニール袋からシャケオニギリを一つとりだし、その包装を解き、見つめる事しばし。
なぜだろうか。
空木には、この祠の前に置くのが自然なことのように思える。願いがあるわけでもなければ、何かを頼みたいわけでもない。
特段、感謝しているわけでもない。
——ただ、ここに置けばいい。
そう思っていた。
空木は、シャケオニギリを祠の前へ供えた。
風が吹く。
空木はしばらく祠を見つめていたが、やがて立ち上がり、何もせずにその場を離れた。
扉を閉め、階段を下り、四階へ戻った。昼食をとるために。
*
何年か前のこと。
空木がこの会社へ入って、まだ一年も経っていなかったころだ。
そのころの空木は、まだ屋上に祠があることを知らなかった。昼休みに、たまたま屋上へ出たところ、扉を開け瞬間、風が強く吹いた。
屋上には誰もおらず、奥の方に、小さな祠がある。空木は、物珍しさからそれをしばらく見ていた。
祠は古いが、決して、荒れているわけではない。
誰かが掃除をしているのか、周囲には枯葉もない。空木は弁当を食べ、食べ終わって、弁当箱を閉じる。
そのとき、隅に米粒が一つ残っているのに気づき、空木は箸でそれを取って、何となしに太陽にかざして見てみた。
食べるに気にはならないが、かといって、そのまま捨てる気にはなれない。
ふと、祠をみやるとどういうわけか、「ここか」という気持ちが沸き上がってくる。
しばらくして、空木は立ち上がり、祠の前までいき、そこへ米粒を置いた。
秩序だった何かが形成されたようだった。ただそれだけだ。祈りも願いも拝礼も何もせず、ただただ置いた。
風は強いが、米粒は地に根を張るかの様に頑強だ。空木はそれを確認すると、屋上を出た。
午後の仕事が始まった。
その日の午後、特別なことは何も起こらなかった。翌日も、その次の日も。
空木は、あの米粒のことをほとんど忘れていた。
だが、しばらく経ったある日、また何か心惹かれるように屋上へ行った。
今度は米粒ではなく、弁当の中に入っていた小さな梅干し。
それを祠の前に置いた。
また別の日には、塩を少し。
さらに別の日には、家で握った小さな握り飯をひとつ。
いつからそうなったのか、空木自身にも分からないのだ。
何となくなのだ。
ただ、毎日ではない。
忙しい日には行かないし、忘れていることもあった。
それでも、ときどき屋上へ行き、何かを置いた。
誰かに見られたことはないし、誰かに理由を聞かれたこともない。
もし聞かれたとしても、空木はうまく答えられなかっただろう。
「神様のため」
そう言えば、それらしく聞こえるのだろうが、空木は神を信じていたわけではない。
ただ、無性に「そこに食物がある事はおさまりがいい」のだ。
置いたあとには、少しだけ気持ちが静かになった。
それが何によるものなのか、空木には分からないが。
*
午後一時。
昼休みが終わり、お気に入りのツナマヨオニギリの余韻にしばし浸りつつ、パソコンの画面を開いた。
午後の仕事が始まる。窓の外には、冬の澄明な空が広がっている。
屋上の祠の前には何もない。
ただただ、風が吹いているだけだった。