
【神人共食】第一部・一にして逸|二・神饌・其壱
その日の午後、仕事はいつも通りに終わった。
空木は定時を少し過ぎたところでパソコンを閉じ、机の上を片付ける。帰り支度をしていると、隣の席の同僚が声をかけてきた。
「空木さん、明日の試作って十時からでしたよね」
「ああ、はい。そうですね、十時からで間違いありません。」
「じゃあ、九時半くらいに試作室入れば大丈夫ですかね。」
「そうですね。たぶん、それで大丈夫です。」
「はい、承知しました。」
やりとりは、あっけなく終わった。空木は鞄を持ち、同僚に軽く会釈をして席を立つ。廊下には、まだ何人か社員が残っている。
誰かの笑い声が聞こえ、コピー機の音、そして遠くで電話が鳴っている。いつもどおりの会社の様子。いつも通りの一日だった。
外へ出ると、すでに日は傾きはじめている。冬の夕方は実に早い。
空木は駅へ向かって歩きながら、昼に置いたシャケオニギリのことを、ほんの少しだけ思い出した。
———またあれも、なくなっているのだろうか。
空木はそう思った。
だが、わざわざ確かめに戻るほどのことでもないだろう。カラスか、猫か、はたまた何かの生物か。あるいは誰かが掃除のついでに片付けているのやも。
まあ、なんでもよい。
そう考えながら、空木はそのまま家路についた。
*
翌日の昼休み。
空木は、また屋上へ向かい、昨日と同じように、扉を開ける。
相変わらずの、冷たい風。屋上は不変。やはり誰もおらず、祠も、昨日と何も変わらない。
空木は祠の前まで歩いていき、しゃがみ込み、少しだけ眉を寄せる。やはり、昨日置いたシャケオニギリがない。
海苔の欠片も、米粒一つすら、何も残っていない。
——消失
まさに、この言葉がしっくりくる。
空木はしばらく、その場を見て思案する。やはり、何かに食べられたのだろうなと、そう思った。
それなら、それでいい。いや、むしろ、その方がいいだろう。食べ物なのだから、誰かが食べる。
自分の置いた食べ物が、何をかを生かす糧になるのなら、まあそれもちょっとした慈善事業だろう。悪い気はしない。
空木は立ち上がり、今日はどうしようか、と考える。ビニール袋の中には、まだ二つ、シャケオニギリが入っている。
そのうちの一つを取り出し、包装を解きしばらく眺めていた。なぜか、今日は置きたくない気がする。
昨日までは何とも思わなかったのに、今日は、手放すことが惜しいような気がする。空木はオニギリを持ったまま、祠を見て、神の不在を確認する。
ただ、それでも、結局、オニギリを祠の前に置いた。
置いた瞬間、妙な安堵があった。手の中から何かがなくなったことで、むしろ気持ちが軽くなった気がする。
空木は立ち上がり、祠に背を向け、数歩歩いてから振り返る。祠の前には、シャケオニギリが一つ置かれている。
そうだ、シャケオニギリが置かれている。
*
その日の午後、空木は試作していた鮭フレークの塩分について、担当者と話していた。
「そうですね…もう少し塩味を落としてもいいかもしれません。」
空木は、少し考え間をおいて言う。
「はい?これ以上ですか?」
「はい。鮭の香りが少し弱くなるので。」
担当者が資料を見直すと、そこには様々な数値が並んでいる。
「なるほど」
塩分、脂質、水分、香気成分、いずれも数字で表されている。食べ物の味も、香りも、食感も全て数値へと変換される。
少なくとも、仕事の上ではそういうことになっている。
空木はペンを置き、ふと、昼間の祠を思い出した。食べ物を置くと、理由はわからないが食べ物がなくなる。それだけのことだが、なぜか気になるのだ。
何が気になるのかも分からないが、気になって仕方がない。ただ、ひとつだけ、昨日までとは違うことがある。
昨日までは、「なくなっている」と思っていたが、今日は、「食べられている」と思っている。
ただのささいな変化でしかないが、空木はその変化が少し気になった。