
【夫婦関係】 同じ家で、二つの悲劇が上演されている
同じ家に、二つの悲劇がある
夫婦げんかの後の二人の言い分を聞いていると、
不思議なことに、同じ言葉が出てくる。
「こんなに頑張っているのに」
夫も、そう思っている。
妻も、そう思っている。
どちらも、嘘ではない。
夫には、夫だけに見えている景色がある。
働く。家族を路頭に迷わせない。
いざというときは動く。
そうやって積み上げてきたものが、
自分にとっての「良い夫」の輪郭だ。
その景色の中では、確かに自分は走り続けている。
だから、走れば走るほど、
「これだけ走っているのだから、
分かるはずだ」
と思う。
妻には、妻だけに見えている景色がある。
気づいてほしい。
言わなくても、察してほしい。
家庭のことを、
独りで背負わされたくない。
日曜の朝、夫が冷蔵庫から牛乳を取り出す。
牛乳があることについて、たぶん何も思わない。
でも、その牛乳は、
前の晩に誰かが残りの少なさに気づき、
買い足したものだ。
無ければ気づく。
あれば、気づかれない。
その景色の中では、
こうした沈黙の仕事の積み重ねが、
家庭という地面を支えている。
だから、
「私はこれだけ支えている」
と思う。
たぶん、夫婦というのは、いつのまにか、
同じ景色を見ているつもりになっている。
自分がこうしているのだから、
相手にもその意味は届いているはずだ。
そう思い込んでいる。
でも実際には、夫には夫の景色があり、
妻には妻の景色がある。
しかも、お互いに、
「相手も、この景色のどこかにいる」
と信じて疑わない。
ここに、静かな錯覚がある。
相手のやり方が気に入らないのではない。
相手が、そもそもこの景色に
足を踏み入れていないことに、気づいていないのだ。
だから夫は、
「なぜ、これだけやっても認められないのか」
と考える。妻も、
「なぜ、これだけやっても分かってもらえないのか」
と考える。
そして二人とも、さらに自分の景色の中で、
身を削る。
夫は、もっと良い夫であろうとする。
妻は、もっと家庭をうまく支えようとする。
同じ家の中で、二つの悲劇が、
それぞれ静かに上演されている。
夫は夫の舞台で、頑張っている夫の役を演じている。
妻は妻の舞台で、頑張っている妻の役を演じている。
でも、実は、どちらの舞台にも、一緒に演じている
と思っている相手はいないのに気がついていない。
頑張っている姿は相手には見えていないのである。
冷蔵庫には、今日も牛乳がある。
誰も、それについて話さない。
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