
夜の停車駅で、私は風景を聴いていた|#わたしとラジオ
風が吹いていた。しばらくすると、遠くから波の音が聞こえてきた。その向こうで、江守徹の低い声が、まだ見たことのない場所のことを語っていた。
ラジオの前にいる私は、十代の少年だった。それなのに頭の中では、遠いヨーロッパの都市に立っていた。町の真ん中では、一人のピエロが何かを演じていた。
本当にそのような場面が語られていたのかは、今となっては分からない。ただ、そのとき見たはずのない風景だけが、何十年たった今も、私の中にはっきりと残っている。
夜ごと降り立った、名前のない場所
十代の頃、私は少し大きめのラジカセを持っていた。住み込みで働いていたおじさんからもらったものだった。
私はそのラジカセでFM放送を聴くのが好きだった。夜になると周囲から少し離れ、自分だけの時間に没頭できるような気がした。目の前にあるのは一台のラジカセだけなのに、そこから流れてくる音は、知らない場所へ私を連れていった。
なかでも好きだったのが、江守徹の『夜の停車駅』という番組だった。
江守徹の渋く落ち着いた語りと、静かなクラシック音楽。そこに風の音や波の音が重なり、毎回異なる短いドラマが流れていた。題名に「停車駅」とあるように、どこか遠くへ向かう途中、ほんのしばらく立ち寄る場所のような番組だった。
そこで何か大きな事件が起きるわけではない。誰かの運命が劇的に変わるわけでもなく、息をのむようなどんでん返しが用意されていたわけでもない。ただ、ある場所に風が吹き、波が寄せ、誰かがそこにいる。その情景を江守徹の声が語り、クラシック音楽が包んでいた。
私は、その何も起きない時間が好きだった。
物語を追いかけるというより、語られる場所の中にしばらく身を置いていたのだと思う。番組が始まると、いま自分がいる場所の輪郭が少しずつ薄くなり、代わりに行ったことのない町や海辺の景色が現れた。
目の前には何も映っていない。それでも、そこには確かに風景があった。
物語は忘れたのに、ピエロだけが残った
番組で聴いたいくつかの話を、私はもう正確には覚えていない。
登場人物の名前も、どのような順序で話が進んだのかも思い出せない。結末さえ残っていない。けれど、耳を澄ませていた時間をたどると、一つの光景が浮かんでくる。
遠い町の広場で、ピエロが一人、何かを演じている。
建物がどのような形をしていたのか、そこに何人の人がいたのかは分からない。ピエロが笑っていたのか、悲しそうな顔をしていたのかも覚えていない。ただ、遠い町の中に一人のピエロがいる。その光景だけが、古い映画の一場面のように残っている。
不思議なのは、ラジオには映像がなかったということだ。
私はその町を実際に見てはいない。番組の中で、どこまで具体的に描写されていたのかも分からない。語られた言葉に、自分が知っていたわずかな風景や、どこかで見た写真を重ねていたのかもしれない。
つまり、あの町は番組の中に完成した形で存在していたのではない。江守徹の声と音楽を受け取りながら、私自身が頭の中につくり上げた場所だった。
以前の私は、記憶に残る番組とは、内容をよく覚えている番組のことだと思っていた。しかし、今は少し違って見える。筋書きを忘れてしまっても、そのとき自分の中に生まれた光景が残っているなら、番組は別の形で続いている。
忘れた部分があるからこそ、あのピエロは今も、私の想像の中に立っていられるのかもしれない。
何も見せないという力
映像は、多くのことを一瞬で伝えてくれる。
町の広さ、空の色、人物の服装、光の方向まで、画面を見ればすぐに分かる。私たちは誰かが選んだ風景を受け取り、その中で物語を理解していく。それは映像の持つ強さであり、豊かさでもある。
ラジオは、同じことをしない。
風の音が聞こえても、どちらから吹いているのかは見えない。波の音がしても、それが暗い海なのか、明るい海なのかは分からない。語り手が町について話しても、建物の色や道の幅までは決められていない。
分からない部分を、聴く人が自分で補っていく。
番組から与えられるのは、声と音楽と、わずかな音の手がかりだけだった。けれど、その不足が想像力を動かした。何も見えないからこそ、風景の細部まで自分でつくらなければならなかった。
ラジオは情景を完成させて届けるのではなく、情景が生まれる場所を、聴く人の中に用意していたのだと思う。
だから同じ番組を聴いても、一人ひとりが見ていた景色は違っていたはずだ。同じ風の音から、海辺の町を思い浮かべる人もいれば、山の中の駅を思い浮かべる人もいる。私が見たピエロも、私だけが見ていたのだろう。
それは少し寂しく、同時にとてもぜいたくなことだった。
図面に描けない場所
建築の仕事をするようになってから、私は場所を図面に描くようになった。
壁の位置を決め、窓の大きさを考え、床や天井の高さを数字で示す。材料を選び、光がどこから入るのかを想像する。図面には、建物を実際につくるための情報を、できるだけ正確に記さなければならない。
しかし、人が一つの場所を記憶するとき、残るのは寸法や材料だけではない。
廊下に響いていた足音や、窓の外で鳴っていた風の音。雨の日の室内の暗さや、誰かの声が壁に反響した感覚。図面には描きにくいものが、後になってその場所の記憶を支えていることがある。
『夜の停車駅』が私の中につくった町には、図面も写真もなかった。壁の位置も、窓の大きさも分からない。それでも私は、そこにいたような気がしている。
空間とは、目で見える形だけでつくられるものではないのだろう。音があり、時間が流れ、そこに自分の想像が加わることで、実在しない場所さえ記憶の中に建ち上がる。
建築の仕事を長く続けてきた今になって、十代の頃に聴いていたラジオのことを思い出す。あの番組は、場所を見る前に、場所を感じることを教えてくれていたのかもしれない。
もちろん、当時の私はそんなことを考えてはいなかった。ただ、江守徹の声とクラシック音楽に耳を傾け、風や波の音の向こうにある景色を眺めていただけだった。
いまも町のどこかに立っている
あれから長い時間が過ぎた。
いま聴き直せば、私が覚えているものとは違って聞こえるかもしれない。ヨーロッパの町だと思っていた場所が、実際にはまったく別の場所だった可能性もある。ピエロの姿さえ、番組ではほとんど語られていなかったのかもしれない。
それを確かめたい気持ちがある一方で、確かめなくてもよいような気もしている。
物語の正確な内容よりも、その夜、私がどのような景色を見たのか。そのことの方が、今の私には大切に思える。放送が終わった後も、その町は私の中に残り、長い時間をかけて少しずつ形を変えてきた。
人は、実際に目で見たものだけを覚えているわけではない。誰かの声を聴きながら想像した海や、音楽の向こうに浮かんだ町も、自分が確かに過ごした場所の一つになり得る。
耳を澄ませると、遠くで風の音がする。そのあとから波の音が近づき、静かなクラシックが流れ始める。
あのピエロは今も、私にしか見えない町のどこかで、何も起こらない夜を演じ続けている。
ラジオの中に浮かんだ町のように、現実の地図には載っていなくても、心の中にだけ残り続ける場所があります。私たちは、そうした場所をどこにしまい、どのように思い出しているのでしょうか。
▶︎[地図にない停車駅|心の奥にだけ建つ場所の話]