
経済小説『リセット・トグル —集中なき時代のゲームチェンジャー—』
第一章:残余の迷宮
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液晶画面の放つ冷徹な白光が、真壁誠(まかべ まこと)の網膜を容赦なく灼いていた。
時計の針は午後九時四十五分を指している。東京都渋谷区の雑居ビルに拠点を構える「ネクスト・フロンティア」の本社オフィスは、この時間になってもまだ半分以上のデスクに明かりが灯っていた。キーボードを叩く乾いた音、誰かの重いため息、そして複合機が吐き出す紙の擦れる音が、淀んだ空気の中に溶け込んでいる。
「真壁本部長、申し訳ありません。例の『大日総研』向けの提案書ですが、構成の段階でまた先方から修正が入りました」
背後から声をかけてきたのは、入社三年目のディレクター、佐藤だった。その顔は土気色に変色し、目の下には深い隈が刻まれている。
「またか……。今度はどこだ?」
「『AIによる業務効率化のロードマップが具体的ではない』と。先方の担当部長、また機嫌が悪かったみたいで、明日の一時までに再提出しないとコンペの参加自体を見直すと言われました」
真壁はこめかみを強く指で揉みほぐした。頭の奥で、鈍い痛みが拍動している。
「分かった。データを私の共有フォルダに上げておいてくれ。後で確認する」
佐藤が「すみません」と力なく頭を下げて去っていくのを見送りながら、真壁は自身のノートPCの画面に目を戻した。画面上には、現在炎上中の別の開発プロジェクト『プロジェクト・イカロス』のバグ報告書が開かれている。プログラムのバグ、遅れるスケジュール、部下のメンタルヘルス、そして大日総研という巨大クライアントからの無理難題。
(クソッ、何から手を付ければいいんだ……)
真壁の頭脳は、完全に過負荷(オーバーロード)を起こしていた。
大日総研の提案書を直さなければならないと考えながらも、目線は『イカロス』のコードのバグを追っている。しかし、頭の片隅では、先ほど役員会で突きつけられた「今期の営業利益目標の未達」という数字が、執拗に点滅を繰り返していた。
一つの作業をしていても、前の仕事の「残り香」が脳にべっとりと張り付いて離れない。
あのメールになんと返信すべきだったか。あの会議での社長の不機嫌な顔は何を意味していたのか。それらの雑念が澱(おり)のように積み重なり、目の前の文字が記号としてしか認識できなくなっていく。
真壁は引き出しからエナジードリンクを取り出し、一気に喉へ流し込んだ。人工的な甘みとカフェインが胃壁を刺激するが、霧がかかったような脳の視界が晴れることはなかった。
「根性が足りないわけじゃない。気合は入っているはずだ」
真壁は自分に言い聞かせるように呟いた。
学生時代はラグビー部で鳴らし、社会人になってからも「不眠不休のタフガイ」として売ってきた自負がある。だが、ここ数年、どれだけ机に向かう時間を増やしても、仕事のアウトプットの質は下がる一方だった。何より恐ろしいのは、家に帰っても、布団に入っても、夢の中にまでコードの文字列やクライアントの叱責が追いかけてくることだった。
脳のスイッチが、「オン」のまま壊れてしまっている。
それが、現代のビジネスパーソンを蝕む、名もなき病の正体だった。