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「努力が足りない、自業自得」となぜ一蹴しないのか・・・学びを楽しめる世の中にするために

    〈貧困や荒れた家庭環境にもめげずに努力し、成功を勝ち得た人たちは、たとえば氷河期世代にも「努力が足りない、自業自得」と一蹴する意見の人が多いけど、なぜ篠原さんはそうではないのか?という質問に対し〉

    私はほんの少しのボタンのかけ違いで、高卒で終わる可能性がありました。高校を卒業するタイミングで母が死病にかかってる事が発覚、父が涙を流しながら、「医者は大変厳しいことを言っている、もし手術がうまくいかなかったら、お母さんの残りわずかな人生をできるだけ楽しいものにするため、日本中を旅行するのに連れて行ってやりたい、家の余力をそちらに全部回すことになるので、お前を大学に行かしてやれないかもしれない」と告げられました。
    母は家族のためにずっと頑張ってきたし、私はそれで構わない、と返事しました。

    まもなく行われた手術で、ありがたいことに死病ではなかったことが発覚、手術は成功し(実はその後もすったもんだはあったけど)、母は一命をとりとめ、「家族の余力をすべて母のために投入する」という事態は避けられることとなり、私ももう一度、大学進学に向けて再スタートを切ることができるようになりました。

    その後、京大に落ち、中堅大学にいったん通い、その後、もう一度挑戦して京大にようやく合格、という事になったわけですが、ともかく、私は大学に行けることになりました。これは全くの運です。もし母が当初の診断通り、死病であったとしたら、私は高卒で終わっていました。しかも、高校在学中に就職を決めていればマシだったかもしれませんが、高校卒業間近の病気発覚でしたから、卒業後に就職活動するのではろくな就職もできなかった可能性があります。私はその人生を歩む可能性が十分にありました。

    私はいまだに、高卒で学歴を終えたかもしれない自分と常に並走しています。高卒の自分と、京大卒の自分には何ら違いはない。違いはないはずなのに、社会は扱いを大きく変えるだろう。この矛盾への怒り、不満が私にはあって、18~20歳の若造の年齢で人生の大半が決まってしまうかのようなシステムに不満があるし、それを当然視している私たちの常識にも大きな疑問を持っています。

    もう一つ、大きな理由があります。私には中学時代に仲良くしてくれた優等生がいました。私は中学2年までそれはそれはひどい成績で、その友人とは比較にならないものでしたが、友人は「将来、東大に行きたい」と言うほど、学年でトップクラスの成績を誇っていました。

    そんな友人がある日、文字通り真っ青な顔をして私のところに来ました。「篠原、おれ、A高校にいけなくなった、工業高校に進むように家族から言われた」と言いました。

    その前日、家族から、大学に進学させてやる経済的ゆとりはない、高校を卒業したら働き、家計を助けてほしい、普通高校ではあまり就職がよくないから、工業高校に進んでほしい、と言われたそうです。A高校は学区一の進学校で、友人の成績なら余裕でしたが、高卒で就職するのに有利とはいえないということで、工業高校に進むように家族に言い渡されたそうです。

    そして、友人は私の人生を変える一言を言いました。「篠原、俺の分まで勉強してくれ」と。私は当時、これまたすったもんだがあってやむなく勉強し始めた頃で、友人とは比べ物にならない成績ではありましたが、成績が上向き始めたところでした。しかしとても、学年トップクラスの友人の代わりになるような成績ではありませんでした。

    「あいつの分まで頑張るとなったら、俺、東大か京大に行かなきゃいけないじゃないか!」

    私が京大を目指すことになったきっかけとなった出来事でした。

    そこから急激に、友人は成績を落としました。もともと自分はA高校なんか望むべくもない成績だったのだ、と自分に言い聞かせるかのように。友人は、同時に妙なことを口にするようになりました。絶縁体を「ぜつりょくたい」と呼んで、繰り返し間違えるようになりました。もともと、友人はその言葉を完璧に覚えていたことを私は知っていました。でも友人は「どうしてもぜつりょくたい、って読んでしまうよ。俺ってバカだな、こんなので東大に行こうと思っていたのが間違いだったんだよな」と言っていましたが、私には、友人が自分で自分をだまそう、言い聞かせようとしている言葉にしか聞こえませんでした。

    友人が東大を目指せなくなったのは「運」です。私が高卒にならずに済んだのも「運」です。もしかしたら、自ら運命を切り開き、成功を収めてきた人からしたら、「自分も同様の苦境に追い詰められていたけれど、努力で何とか克服してきた、だから結局は努力不足だ」と断じる人がいるかもしれません。でも、私にはそう思えません。彼らとて、難局を乗り切ろうという気力を保つことができた「運」があったように思います。それは、逆境の中でも進学を勧めてくれる人がいるという幸運のケースもあったでしょうし、誰も自分を助けようとしないことへの怒りを逆にバネにして、周囲を反面教師にして反発する形にもっていけたという「運」もあったかもしれません。いずれにしろ、逆境を跳ね返そうとする「運」が味方した面があると思います。

    友人が家族の要請を断れなかったのは、家族がそれだけいい人たちだったからでしょう。友人自身が優れた人格で、私は中学生の頃、不良連中からにらまれににらまれて集団リンチを繰り返し受けたりしていたんですが、友人が割って入って私を守ってくれたことが複数回あります。怪力の持ち主で、どうしたわけか握力測定のたびに指のどれか一本骨折していたのですが、それでも握力は80kgを超えていました。体力、武力、知力、そして性格の良さで友人は私をはるかに超えていました。でも、進学校に進むことを断念したのは、それだけ家族が友人にとって大切な人たちだったからでしょう。

    もちろん、友人が東大に進んだほうが、最終的に家族も経済的に助かるだろうに、と、当時の私も思いました。けれど、それができないほど家族の家計が窮迫していたのでしょう。私が大学進学を諦めざるを得なくなりかけたように。家族との人間関係に恵まれていて、だけど経済的にあまりに苦しい状況に置かれたとき、進学を諦めざるを得ないケースは、それなりの数があると考えています。私の他の同級生でも、同様のケースがありましたしね。

    不良ににらまれていた私なんかほっときゃいいのに、たびたび助けに入ってくれた友人のような人物がもし東大に進んでいたら、運が味方せず、未来を切り開くことができなかった人に「自業自得」と言い放つような人間になっただろうか?と考えると、疑問です。高卒で終わったかもしれない想像上の私に、京大に入った私が「高卒で終わったのは努力不足、自業自得」と言い放てるか、というと、とても言い放つことができません。高卒で終わったかもしれない私も、中学時代の友人の言葉「俺の分まで勉強してくれ」を忠実に守り、努力を重ねた若者でした。それを見下すことは、私にはできません。そして、私と同様の立場におかれた人は、社会の中で一定数いると考えています。

    なるほど、努力に努力を重ね、道を切り開いた人はいるでしょう。氷河期世代でも、あの厳しい時代に努力を重ね、ついに成功を勝ち取った人もいるでしょう。でも、と私は思います。努力を重ねれば必ず成功する、という前提を絶対視するのはおかしい、と。だって、その努力をくみ取るシステムに必ずしも社会はなってはいなかったのですから。

    私の世代は、学歴信仰が最も強烈だった時代だったと言えると思います。超有名大学に入学できれば将来安泰、大学に進学できなければ低賃金で仕方ない、という、学歴社会が絶対的に思えた時代でした。一度レールから外れてしまうと、希望するレールに戻るのは難しい。そして、友人は希望するレールから外れるように、大好きな家族から懇願され、諦めました。私も、高校卒業時、敬愛する両親のために大学進学を断念せざるを得ない、と覚悟を決めました。レールから外れれば、もう、かつて希望したレールに戻ることはできない。そう信じずにいられない時代でもありました。そういう意味では、現代はかなり学歴社会が揺らいできているから、ずいぶんマシにはなったと思いますけどね。

    「学習性無気力」という言葉があります。犬を檻に閉じ込め、その床に電気ショックを流し続けるのですが、片方は偶然何らかのスイッチに触れたら電気ショックが止まる仕組み、もう片方は電気ショックを止めようがない仕組みにしました。すると、暴れているうちに電気ショックを止めるスイッチに触れることができる、という学習をした犬は、再び電気ショックの実験に放り込まれても、なんとか電気ショックを止めるスイッチを見つけようと諦めず、あがきつづけました。他方、何をしようと電気ショックを止めることができなかった経験をした犬は、どうしようもないと思って、電気ショックをおとなしく受け続けた、という実験結果があるそうです。

    学歴社会というのは、一種の「学習性無気力」を利用した「身分制度」だと考えています。超有名大学からそうでもない大学まで序列を作り、さらに大卒、高卒、中卒と序列を作って、「あなたはその学歴なのだから社会のこの身分で我慢しなさい」とし、上を目指すという努力を奪うことにより、社会を階層化することに成功したシステムだと思います。いわば、「努力しても無駄だから、それ以上に上がることはできないから」と、18~20歳以降の努力は無駄だから、という発想をたたき込み、学習性無気力をうまく誘発し、上に上がろうとする努力を破壊するのが、このシステムの特徴だと考えています。

    でもね、私、このシステム、実に「ムダ」だと考えています。国民のほとんどを学習性無気力に誘導して、活力ある社会になるはずがない。みんな「仕方ない、どうしようもない、努力しても無駄だ」と考える社会に活力があるはずがない。努力しても無駄だと諦めさせたら、当然無気力にもなり、テレビをぼーっと見つめ続けたり、スマホを漫然と見つめ続けるようになるのは当然です。努力しても無駄だと社会が決めつけているわけですから。

    氷河期世代は、まさに「学習性無気力」に誘導された世代でもありました。そもそも、正社員になれる数は、その世代の人口よりもはるかに小さな数字に絞り込まれており、必ずその「イス取りゲーム」から外れてしまう仕組みになっていました。さらに、恵まれた境遇を味わえる数はさらに絞り込まれていました。努力した結果、そうした成功をつかみとれる数はそもそも絞り込まれており、同様に努力したにもかかわらずつかみとれない人が必ず現れる物理的制限がかけられていました。努力ではどうしようもない「運」の部分がありました。成功者の発言がどれだけ勇ましくても、社会の実情がそうであったことを無視・軽視するなら、それは私からすれば妄言に見えます。
    ※当然ながら、自分で起業するというのも、当時、厳しい状況でした。私の知っている学生は結構起業していますけどね。

    私は、学習性無気力を利用する社会を変えたい、と考えています。誰もが楽しんで学び、楽しんで学ぶからこそ、誰もが進歩を止めない。その結果、社会全体が活性化し、底上げされるだけでなく、トップクラスの優秀層もとんでもなく活発で優秀な人たちになる。そうした、社会全体がアクティブになった状態になればいいなあ、と私は考えています。

    戦後昭和は、ある種、それを信じることができた時代だったかもしれません。堀場製作所会長(当時)だった堀場氏と私は話したことがあるのですが、「今の若者はかわいそうだ」と言っていました。どうしてですか?戦後の焼け野原から立ち上がった堀場さんは苦労なさったでしょうに、そして我々の世代は物質的に恵まれていて、甘やかされているように思いますが?と尋ねると、「そう、我々の世代は焼け野原になって何もなかった。だから必死に努力してものを作ればみんな売れたし、成功することも容易だった。自分で一からなんでも作り上げることができた。今の若い人たちは違う。システムが完璧にできていて、そのレールから外れることができない。今の時代に生まれていたら、私は成功できていたかわからない」と答えてくれました。深く考えさせられるお話でした。

    植木等氏の「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」という歌詞がありますけど、あの時代、ひょんなことから自分も社長になることができるかもしれない、と多くの人が信じられる時代だったのかな、と思います。身分制がシャッフルされ、自分にもチャンスがあるかもしれない、と信じることのできる時代だったのかな、と。人口ボーナスの時期だったから社会に活力があった面もあるでしょうが、「自分にもチャンスが来るかも」と思えた、それが社会の活性化につながっていた面もあるように思います。

    学校時代は体育が大嫌い、運動が大嫌いだった人が、大人になって、誰も比較する人がいなくなった時、市民マラソンを楽しむようになったり、自転車にハマる人が結構います。学校時代は運動のできる人と比較され、序列化され、その中で下位だとみなされ、努力不足だとなじられた人たちは、「学習性無気力」に陥ってしまったと私は考えています。

    でも、学校生活を終え、誰も運動能力で比較しなくなると、体を動かすこと自体の快感を知り、順位も何も考えず、ただ走ること、自転車をこぐことの快感を楽しみにして運動するようになる人がいます。

    私は、この現象は運動に限らず、学習でも同じことがいえると考えています。人間は変な比較と序列化さえしなければ、学ぶことを楽しめる生き物だと思っています。人間は、新しい発見があると「これ、みんなに教えてあげたら驚くかも!」と思うとワクワクして、みんなに教えて上げ、驚かしたくなる生き物。そうして、学んでは誰かを驚かすという楽しみを、いくつになっても楽しめる生き物なのではないか、という仮説を持っています。

    しかし、変な比較と序列化のせいで、「そんなことを楽しんでも無駄だ」と自ら考えるように仕向けられ、自ら「そんなことを楽しんでどうなる」とあざけり、学ぶことそのものを拒絶し、退廃的な生活をして身を持ち崩すように誘導してしまう面が、現在の社会にはあるように思います。これは、個人から見える景色としては「運」なのですが、社会全体としてみると、社会設計の失敗だと私は考えています。学び続け、成長し続ける気になるのが社会階層のほんの上澄みの人たちだけというのでは、社会全体としては活力度を下げざるを得ません。また、学ぶことを楽しむ人口が少ないということは、山のすそ野が狭いわけで、学び続ける人がどんどん減っていく悪循環に陥りかねません。しかも、学ぶことを楽しめる「幸運」をつかめたごく少数の人たちは社会的成功を納める一方、学習性無気力に陥らされた人々は成功からますます遠ざかり、貧困にあえぎ、貧富の格差につながりかねません。

    そうした社会にすでに行き着いてしまったのがアメリカだと考えています。アメリカ社会はいつしか、富裕層と超天才移民とのタッグにより、彼らだけが富裕となり、かつてアメリカの自動車産業を支えた勤勉な労働者たちは「古い産業にいつまでも固執する努力不足の人たち」とみなされ、社会から捨てられる状況となり、彼らは「学習性無気力」に陥って、ドラッグに溺れるという状況に至っていました。

    学習性無気力に多くの国民を誘(いざな)い、ごく一部の人間だけ富裕層になれる社会。努力して道を開こうにも、貧困労働層には超有名大学は狭き門すぎる(ガス抜き程度のごく少数の抜け道はあったものの)し学費は高すぎるしで事実上諦めざるを得ず、努力しても這い上がれないという、学習性無気力に大部分が誘導される仕組み。富裕層は親が超有名大学出身なら容易に入学でき、超優秀な移民と同級生になることで成功もつかみやすくなる。「比較と序列化」がアメリカは究極まで進んで、貧富の格差が拡大し、分断が激しくなっています。

    トランプ大統領の登場は、「そうした序列化した社会を破壊してほしい」という多くの国民の願望を反映したものだと思います。たとえ無茶苦茶でもいいから、ともかく今のシステムを壊してほしい。トランプ大統領が根強い人気を誇るのは、そのためだと思います。

    私は、社会が激変することを望みません。それには、モンテーニュの影響が強いかもしれません。モンテーニュはラジカルな改革を好みませんでした。たくさんの人たちが死に、たくさんの人たちが苦境にあえぐことになるから。では、既存のシステムのままでいいと考えていたのかというとさにあらず。急進的な改革、革命を起こしたくなるほど問題を抱えているのだから、変えなければならない。でも、それは既存のシステムをひっくり返して実現するのではなく、徐々に、でも確実に、と考えていたのがモンテーニュでした。私も、モンテーニュの姿勢を好んでいます。

    既存のシステムをひっくり返すと、大混乱が起き、大混乱の中で苦しむのは結局社会的弱者です。社会的弱者の問題を改善しようとして追い詰めるのでは、何をしているのかわからない。それよりは、社会的弱者が「学習性無気力」に置かれている状況を改善し、社会全体の活力を挙げ、社会的地位の移動がアクティブに起きるようにしたほうがよいと考えています。

    何なら、報酬の面で、これまで社会的地位が高いとされていた層、そうでもないとされていた層とで大きな差がないようにするのも手かな、と思います。オランダに留学した人が言っていましたけれど、パブで飲んでいると、そこに来ていた大工さんが議論に参加し、大学教授と熱いディスカッションをしたそうです。日本では、大工さんのような職人は、大学教授に引け目というか、遠慮するように仕向ける変な社会的要請がありますけれど(だから逆説的に突っかかる人も出るわけですけれど)、オランダでは職人も、大学教授とそん色のない報酬を得ているので劣等感がなく、また、職人として努力を重ね、学ぶことを楽しんでいるので、大学教授とも対等に議論できると考えているし、大学教授もそうした人たちに敬意を払い、対等に議論する仲間として認識している、という話でした。

    もちろん、オランダでもいろんな人がいるでしょうし、移民の問題とか、ヨーロッパはヨーロッパでややこしい話がたくさんあるのは承知していますが、社会的地位で序列化があると考えがちな日本とはずいぶん捉え方が違い、面白いと思います。職人などいろんな職業の人たちも政治や社会に関心を持ち、学ぶ楽しみを忘れていない、という点が重要かな、と。「学習性無気力」に陥っていない、という点が非常に重要だと考えています。それは恐らく、大学教授や職人など、「社会的分業」はしていたとしても、それに序列があると考える向きが薄い、ということが大きいのかな、と思います。

    私は、誰もが学ぶ楽しみを味わえるような社会であってほしい、と願っています。その基礎条件として、変に比較し序列化する考え方を揺さぶりたいです。「成功をつかめないのは努力不足、自業自得」と決めつける言動は、相手を学習性無気力に導く恐れがあるので、私は好まない表現です。この言動は、「学ぶことはつらく苦しいこと、それを克服できたものだけが成功をつかめる」という思考を前提としており、学ぶことを楽しむ、という発想が薄くなっています。つまり、楽しく取り組める「学び」ではなく、つらく苦しく耐え忍ぶ「勉強」(勉(つと)めて強いる)になっています。人々を四六時中、つらく苦しい環境の中に置き、学習性無気力に陥るように、陥るようにと誘導しかねない言動です。私にとっては、こうした言動は教育者として愚かだし、指導者としても拙いものとしてみなしてよいものだと考えています。

    学ぶことは楽しい。その楽しみを、誰にでも分かち合えるように。そうした社会にするには、まず、誰に対しても「学ぶことは楽しいことだよ、楽しもう、何のため、なんて考えなくていいんだよ、何かのために学ばねばならないなんて考え方は『呪い』でしかなく、楽しい学びを『勉強』に変えてしまう恐ろしい催眠術の一種だよ、何のためになんて考えなくていい、体育嫌いの人が運動好きに変わるように、勉強嫌いにさせた人たちのことなんか忘れて、学ぶことを楽しもう」と、呼びかけられる社会であってほしいなあ、と思います。

    そして、そうした社会を実現するためにも、学ぶことを楽しんでいるうちに、楽しんで学んでいるうちに、一人一人がどんどん知恵を獲得し、社会全体が活性化するような社会システムへと徐々にチェンジし、人々を学習性無気力に導きがちな序列化、差別化を徐々に改善し、単なる分業化へとシフトさせ、それぞれの人々が変な劣等感を持つことなく、自分の職分を果たし、誇りを持ち、アクティブに楽しく生きていける社会にできたらなあ、と考えています。

    私は今、氷河期世代を平気で見下す社会的風潮に強い懸念を持っています。この氷河期世代は、アメリカのラストベルト(サビた地帯)で苦境にあえいでいた、かつてアメリカ社会を支えていた労働者層と、社会的位置づけが似通っているように感じています。この世代の人たちはそれなりのボリュームがあります。もし真に怒りを持ち、社会を動かす気になれば、ラストベルトの人たちがトランプ大統領を生みだす大きな力となったように、日本でも「社会をシャッフルする」ことを宣言する指導者が現れても不思議ではありません。下剋上の時代が始まるかもしれません。

    でも私の考えでは、本来、大学教授も職人も上下があるはずがありません。どちらも社会的要請にこたえる職業の一つでしかなく、分業しているだけです。これに上下を持ち込み、序列化するからおかしくなる。序列化を改めれば、社会をシャッフルする必要もなくなります。みなが誇りを持ち、学ぶことを楽しめるし、楽しんで学べれば、みな、技術なり知識なりの進歩が止まらなくなります。社会はどんどん前に進むし、社会も豊かになることでしょう。

    学ぶことを楽しめる社会に。そのためには、学ぶことを楽しむのを大いに邪魔する序列化は、考え直した方がいい。給与に大きな差をつける必要はない。それぞれの人々は、自分の職業は社会に必要とされているのだ、と誇りを持ち、職分を果たし、そして楽しんで学べる社会に。もしそんな社会を実現できたら、常に私の横で並列して生きてきた「高卒の私」と、進学校を断念した友人も、その怨念のようなものを成仏させることができるのかなあ、と考えています。私は、「高卒の私」と楽しく居酒屋で議論できる社会を実現できたら、と考えています。

    学ぶことは、高学歴を得るため、それによって高い社会的地位を手に入れるため、というものではなく、ただただ、楽しむためのもの。私はそう考えています。そう考えたほうが、結局社会全体が学ぶことを楽しむようになり、社会全体が活性化するだろう、と考えるからです。学ぶことの楽しみは、比較し、序列化することと切り離して考えたほうがよいと思っています。比較し、序列化しようとした途端、学びは「勉強」になってしまうし、「成功するためには努力しなければならない」と考えた途端、学びは苦行に変わり、やはり「勉強」になってしまいます。

    いらん、いらん。そんな考え方、不要、むしろ邪魔。学びはただただ楽しめばいい。それが私の考え方です。楽しんで学んでいれば失敗が怖くなくなり、失敗を恐れないから挑戦を何度も続け、ついには成功の道を見つけてしまいます。しかし学びを「勉強」に変えてしまうと、実にくだらない受験勉強に大きなエネルギーを割くうえに、手っ取り早く成功できる道を選択するのがクセになり、失敗を恐れるようになり、社会の活力を奪う方向に社会を持って行ってしまいます。

    木をきれいに切ること、クギをまっすぐに打つことは、数学の問題を解くのと何ら価値に差はない。木を切ろうとしてのこぎりの歯がかんでしまうのはなぜなのか?クギが曲がってしまうのはなぜなのか?そこに探究心が起き、試行錯誤するのも学びです。しかも、何なら、数学の公式を暗記するよりも膨大な情報が五感を通じて入ってきます。なんでくだらないお勉強を序列の最上位に現代社会は置くのか、私は不思議な気がします。

    学校のお勉強を序列の最上位に置くために、私たちは学びの大半を失ってしまっている気がしています。大工仕事も料理も掃除も洗濯も、みんな大いなる学びの対象です。それを極めようと思ったらなかなか難しい。なのに、変に学校のお勉強を最上位に置くから、学びが「勉強」に変わってしまい、楽しめなくなってしまう。楽しむべからず、という親まで出てきてしまう。意外なことに、旧帝大に進むような学生は、大工仕事や料理など、いろんなことに取り組んで楽しむ子ども時代を過ごしていると私は捉えていますけれど、変な序列化が誤解を生み、有名大学に入るには学校のお勉強という序列の最上位にだけ注力して、他の学びはお遊びだとして排除する、というけったいな行動まで生み出しているように思います。

    もっともっと、学びを楽しんでしまえばいい。その邪魔になっている現象については、一つ一つ解きほぐし、社会の進む方向性を少しずつ変えていきたい。私は、そう考えています。

    氷河期世代の不運をどう「幸運」に転じるか。そうした逆転の発想をなんとか実現できないか。これは、学びを楽しむ社会を実現するための一つとして捉えています。中学時代の友人の無念、高卒に終わったかもしれない当時の自分の不安や劣等感、そうしたものを成仏させるための、一つの道程になっているのかもしれません。

     
     
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