
雑記:フィールドを通して「人間」を知るということ
関東のとある大学で学生をしています。所属は文学部です。
僕の専攻は文化人類学、民俗学……だいたいこのあたりになるのですが、どちらにせよフィールドワークを伴う学問となっています。フィールド(地域)へ実際に足を運び、そこにあるものを観察し、出会った人々に話を聞く。それを記録し、民族誌/民俗誌/エスノグラフィーとして残す。学部生という、研究の入り口にやっと立っているだけの身分でありながらも、この営みの中にここ数年身を置いてきました。
民俗学というと、一般によくイメージされるのは妖怪とか、因習とか、そういったものでしょうか。『遠野物語』の影響は現代においても強いと感じます。僕自身も元々、民俗学という単語から連想するのは都市部からは離れた場所にあるそれらの、言葉からして怪しい雰囲気を纏うものたちでした。
ただ、実際に触れてみると研究対象は非常に幅広くとられていました。ざっくり言えば、民俗学や文化人類学が探るのは人間の生活にかかわる「すべて」です。暮らしの中で用いられる道具、家にあるもの、仕事で使うもの、そしてそこに暮らす人の行動や習慣、諸々全部が対象となるのです。料理や衣服、冠婚葬祭に関わるものを含めた儀礼、そして民話や伝承の類も入ってきます。
僕たちが普段何気なく過ごしている日常にあるもの、特に意識せずに使っているものが、実は学術的価値のあるものなのだと考えると、なかなか面白いと思いませんか?
ではそれらを研究するといってもどうやって、ということなのですが、これが少し難しいなと思った問題でして。どのような視座をもつか、それを自分なりに答えられるようにするのは結構大変だと思います。
僕の場合はというと、研究対象を通して「人間」を知ることが目的なのだ……と考えるようにしています。
これまでのフィールドワークで、会話が得意でないなりに頑張って、いろいろな人に話を聞いてきました。どの方にも、僕が文献を繰って知識をつけて思考したこととは少なからず異なる部分が話の中にあって、僕とは違う視点を持っていました。
住む場所が違えば、ものに対する人の捉え方や考え方は変わってくるのだと思います。山や海へ目を向ける姿勢だったり、天気の活かし方だったり、あるいは神仏への信仰心もそうです。それから暮らしの記憶というのは、場所や建物の内部構造、または時間など、よそにはない、そこにしかないものと結び付けられていることが往々にしてあります。語りをする場所は決まって囲炉裏端であるとか、農作業の始まりは神様が降りてくる1月のこの時期になってからとか、そうした記憶がその人が暮らす場所固有のもので、外の人間と共有されていない、という場合は少なくないはずです。
自分が持っていない捉え方や考え方を知る、そこにいる人間の物事の見方に接近することを試みる、それがフィールドワーカーの営みなのだと考えています。もちろん、完全に同一の視点を獲得することは極めて困難であって、学部生程度の経験では到底足りないと思われますが。
そしてこの結果として、今度は「自分」が浮かび上がってきます。異文化を知ることで、そこに暮らす人が見るものを自分自身はどう見て感じているか、アイデンティティに立脚した自分の物事の見方を知ることにもなるのだろうと思われます。
人間に触れるほどに人間を知り、自分を知っていく。骨の折れることではありますが、現代においても、この営みのおかげで僕は人間であることができるのかもしれないと、フィールドを歩きながら感じるのです。