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ペンホルダードライブ型という異常について

    私は最近、ある事実に思い至った。

    ペンホルダードライブ型は、異常である。

    これは批判ではない。観察である。観察の果てに、ようやく辿り着いた結論である。

    ——

    まず、彼らは少ない。

    体育館に入る。卓球台が並ぶ。ラケットを握る者たちが、それぞれの台に散らばっている。九割が、シェークハンドである。両面にラバーを貼り、両ハンドで打ち、合理的に勝ちを積み上げる者たちである。彼らは正しい。正しさとは、多数派であることの別名である。

    その中に、ぽつりと、ペンホルダーがいる。

    ペンを握るように、グリップを摘んでいる。それだけで、彼の周囲の空気が、わずかに違って見える。彼は群衆ではない。彼は、絶滅を約束された生物の最後の数頭である。中国の卓球選手たちでさえ、すでにシェークハンドへ移行した。世界が彼を見捨てたのである。見捨てられながら、彼は今日も、ペンを握っている。

    少数派であることと、絶滅危惧種であることは、似ているが、違う。

    少数派は、増える可能性を持つ。絶滅危惧種は、減ることしか許されていない。ペンホルダードライブ型は、後者である。彼の周囲には、後継者がいない。子供たちは、最初からシェークハンドを握らされる。コーチは、ペンを薦めない。用具メーカーは、ペン用のラケットを年々ラインナップから外していく。世界の総てが、彼の消滅を粛々と準備している。

    それを知りながら、彼はペンを握り続ける。

    知らずに握っているのではない。知った上で、なお握っている。

    ここに、第一の異常がある。

    ——

    ペンホルダードライブ型は、片面しか使わぬ。

    これを、現代の卓球の常識から眺めれば、自殺行為である。両面を使えば、攻撃の選択肢は二倍になる。守備の幅も二倍になる。なぜ、半分を捨てるのか。なぜ、自らの可能性を、自らの手で削ぐのか。

    それは禁欲である。

    ペンホルダードライブ型は、ラケットの裏側を、永遠に空白として残す。空白のまま、戦う。空白を埋めることを、彼は最初から拒否している。これは効率の問題ではない。思想の問題である。

    両面を持つ者は、両面で勝とうとする。

    片面しか持たぬ者は、片面で勝つしかない。

    「しかない」という制約のうちに、ペンホルダードライブ型の美学は宿っている。可能性を狭めることによって、彼は、自らの一打の純度を高めているのである。彼にとって、フォアハンドのドライブは、選択肢のひとつではない。それは唯一の解答である。唯一であるがゆえに、それは芸術となる。

    シェークハンドの両ハンドドライブは、対話である。

    ペンホルダーのフォアドライブは、独白である。

    独白を選ぶ者は、常に少ない。多数派は、対話を選ぶ。当然である。対話のほうが、安全だからである。しかしペンホルダードライブ型は、安全を捨てた。安全を捨てて、独白を選んだ。

    ここに、第二の異常がある。

    ——

    握りそのものに、思想がある。

    シェークハンドは、握手である。ラケットと、対等に手を結ぶ。これは近代的な、民主的な握り方である。ラケットは道具であり、道具と人間は契約関係にある。お互いに、役割を果たす。それだけのことだ。

    ペンホルダーは違う。

    それは、筆を持つ握りである。書をしたためる時の握りである。あるいは、筆ではなく、針を持つ握りでもある。何かを刺し貫く時の、何かを縫合する時の、繊細にして残酷な握りである。

    ペンホルダードライブ型がラケットを構えるとき、彼は道具を持っているのではない。彼は、筆を持っている。あるいは、刃物を持っている。卓球台は、彼にとって白紙であり、まな板であり、戦場である。

    ボールが来る。

    彼は、書く。あるいは、切る。あるいは、貫く。

    その一打は、シェークハンドの一打と、根本的に意味が違う。シェークハンドの一打は「返球」である。ペンホルダーの一打は「表現」である。返球は終わるが、表現は終わらぬ。表現は、打ち終えた後も、空中に文字として残り続ける。残り続けて、相手の網膜に焼き付く。

    そして、握り続けるうちに、彼の指は、ラケットと癒着していく。

    体育館の蛍光灯の下で、彼が素振りを終え、ラケットを下ろす。下ろした手を、私はじっと見る。親指と人差し指の間に、皮膚の継ぎ目が見えぬ。そこにあるのは、ラケットそのものである。ラケットと指の境界が、長年の使用のうちに、消失している。

    彼は、ラケットを持っているのではない。

    彼は、ラケットを生やしている。

    彼の右手の延長として、ラケットは存在している。試合が終わった後、彼はラケットをケースにしまう。しまう、という動作は、しかし錯覚である。本当は、彼はラケットをしまっているのではない。彼は、自分の身体の一部を、夜のあいだ休ませているのである。

    これを異常と呼ばずに、何と呼ぶか。

    ここに、第三の異常がある。

    ——

    私は、体育館の隅で、一人のペンホルダードライブ型を見ている。

    彼は素振りをしている。

    素振りの軌道が、空中に、わずかに線として残る。私には見える。彼の振り抜いた跡に、淡い光の線が残っている。光の線は、ゆっくりと文字を形作っていく。何かが書かれている。読めぬ。しかし確実に、何かが書かれている。それは契約書である。彼と、彼のラケットと、彼を見捨てた世界との、三者契約書である。

    契約の内容は、おそらくこうだ。

    「私は、片面で戦う。」

    「私は、絶滅を受け入れる。」

    「私は、人間であることをやめる。」

    三項目に、彼はすでにサインしている。サインの代わりに、彼は今日もフォアドライブを振る。一打ごとに、契約は更新される。更新されるたびに、彼は人間から遠ざかる。

    私は、彼から目を逸らせぬ。

    逸らせぬまま、気づくと、右手の親指と人差し指の間が、わずかに痛む。皮膚の下で、何かが組み変わる音がする。骨が、新しい角度に折れ曲がっていく音がする。

    私は、自分の手を見つめる。

    そこには、もはや、私のものではない手があった。それは、ペンホルダーの手であった。私はシェークハンドの選手であったはずである。両面にラバーを貼り、両ハンドで打つ、合理的な選手であったはずである。しかし、いつの間にか、私の右手は、ペンを握っている。

    体育館の蛍光灯が、明滅する。

    明滅の合間に、私は見る。体育館の隅に並ぶペンホルダーたちが、一斉に私のほうを向いている。彼らは微笑んでいる。歓迎の微笑みである。新しい絶滅危惧種が、また一人、誕生したのである。

    私のラケットの裏面のラバーが、ゆっくりと剥がれていく。

    剥がれて、床に落ちる。落ちたラバーを、誰も拾わぬ。それは、もう必要のないものである。私は、片面になっていく。片面になりながら、私は、自分が完全な存在に近づいていることを、はっきりと感じる。

    欠けることが、完成である。

    ペンホルダードライブ型とは、その真理を、最初から知っていた者たちの謂いである。

    私は、ペンを握り直す。

    最初の一打を、振る。空中に、文字が残る。今度は読める。

    ——「おかえりなさい」

    そう、書かれていた。

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