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愚者からの手紙pt20「家俗に覆われた愛」

     たとえばある親子が居たとして、親が他人よりも子どもを知っているのは「他人よりも長い時間その子の“感情を見てきた”から」に過ぎないのかもしれない。
     幼少期から哲学的に人生観を語り合える訳でもないのだから、何で笑い、何に怒り、どんな時に涙を流すのかなどの、そういった言動や表情を見て、親は子を“主観的”に解釈するしかないのかもしれない。
     しかしある程度の年齢になると、子どもの中にも「思考(視座)」が生まれ、親がこれまで通り“勝手な解釈に基づいて、子どもを判断するということも”当然難しくなる。
     が、今までの経験から「自分は子どものことを理解している」と思い込んできた親は、子どもの態度(感情)ばかりに目を向け、子ども側も今までは感情で動いてきたものだから、まだ思考の伝え方が解らず態度で示し続ける。
     時間が経過するにつれて齟齬も増え、やがて世間ではそれを「反抗期」と呼び、子ども側の精神的な命題であるかの様に捉え始める。
     親と“子どもの思想”に反応しているはずなのに。
     
     なんとなく、そんなことを思った。
     なんとなくそう思っただけだから、この考え方に深い意味もない。いつものことだ。
     そして、僕はこの「いつものこと」を掘り下げて行く。これもまた、いつも通りに。
     考えることを選好みしている内は、当り前を見直すことなんてできないから。
    「親」「子ども」「反抗期」
     これらを並べてみて、最初に「家族」という言葉が浮かんできた。
     その上で「主観」「感情」「思考」などの要素についても考える必要がありそうだと、直感的にそう思った。
    「なら、もしもこの“ある親子”がきちんと対話する方法を心得ていて、それを実践していたらどうなっていたのだろうか」
     そんなことを想像してみたが、そこに至ってようやく気付く。
     そもそも僕には、家族とそういった対話をしてきた記憶がないではないか、と。

     この歳になり、改めて「自分にとっての家族とは、一体何であるのか」という問いを立ててみた時、頬を張られた口から息が零れる様に、こんな言葉が落ちた。
     家族とは、最も身近な“勘違い”である。
     
    個人的な語呂合わせで「勘違い」を宛てたけど、あるいはその部分を「偏見と主観、社会的観念の対象」と表現してもいい。
     とにかく、僕は「家族」について考えていく内に、自分がそれを「存在」ではなく「概念的なもの」として捉えていたという、いささか愚かで、加えて無視できない事実に気付いてしまったのだ。
     まるで、子どもを感情だけで理解できると読み誤っていた「ある親」の様に。

    「家族」を語る(思う)際、僕の頭の中には「大切」という主観が置かれ、その“前提条件”を軸に言葉を選び、考え、話を進めていく。そして多くの人は、この前提に特別な違和感を覚えることもなく、その延長線上で頷いたり、質問を投げたりする。
     当然の様にそんなやりとりを受け容れてきた訳だけど、よく考えてみれば“何を以て”家族が大切であるのか、自分ではそこまで理解できていなかったというか。
     ただ「家族は大切(あるいは大切ではない)」といった“大衆的な観念”の下で、そう認識しているだけだった。
     大抵の主観は、大衆普遍の流れでしかない。
     
    そんなことはない、と思いたい。
     けれども、実際のところ「家族」を抜きにして母や兄のことを考えてみれば、その内面について自分の知っていることはかなり少ないと、そう認めざるを得ない。
     僕は、「母はこんな人だ」「兄はこういうことが好きだ」なんて主観(思い込み、決め付け)だけで、一個人としての母や兄を知ったか振っていたに過ぎないのだろう。
     とはいえ、母や兄と一対一で哲学的な対話をしたり、個人的な定義を語り合っていた訳でもないのだから、まぁ当然といえば当然のことなのだとも思える。
     それでも家族を「大切だ」と言い切れていたのは、やはり「家族」という社会的で大衆普遍な観念が染み込んでいたからに他ならない。普通に考えれば、全ての家族が延長線上の価値観で計れるなんてことは有り得ないし、自分と他者の「大切」が平行的であるなんてことも、おかしな話でしかない。
     
     別に、この「大衆的な価値観」を鵜呑みにすることが安直であるとは思わない。
     むしろそういった“型”があるから、僕は母や兄が「家族」であると直感できていたのだろうし、あるいは母と兄が罪人である僕の帰りを待っていてくれるのかもしれない。
    「大切」化「大切ではない」かと聞かれて前者を選べる自分は、恵まれている。
    「家族だから」
     それだけで、その一言だけで良いのかもしれない。詮索に努めたからといって、それが吉と出るとは限らないのだ。
     ただ、というかやはり、たとえ恵まれた価値観を持てていたとしても、端から出来合いの概念を頼りに生きて行くなんてことは、もうしたくなくて。
     相手の心を“相手の言葉で”受けて、自分の心を“自分の言葉で”届ける。
     この道程(対話)を通らずして“正直な大切”を伝えることはできない
    のだと思う。
     恵まれた、つまり家族を大切と言える環境に居るからといって、現実が豊かだと言えないのは、その所為なのだろう。

     冒頭の話に戻るけれど、僕には「反抗期」と呼べる程のものがなかった。
     理由は単純に、親と話す時間があまりなかったからだ。
     僕と兄を一人で育てていたことを考えれば、忙しく働いていた母が悪いとは思えない。むしろ感謝しているからこそ、家に居る間は“家族の時間”を過ごしたくて、くだらない話で笑ったり、ぐだぐだしたりすることを求めた。
     世間で言う「家族」を感じることと、神経質な空気を避けることとは不可分であると、そう感じていた。 
     その惰性のまま過ごした結果、個人的な思考を口にできる頃になると僕が家に居る時間も減り、「家族」という固定観念をあてにして母や兄と繋がっていた様に思える。
     家族の為なら何でもするくらいの気概を持ちながら、暗い話題を持ち込むことには臆病になった。

     当時、僕だけが、家族の笑顔を「笑顔」として受け止めていたのだろう。
     その裏にあった恐怖や悩み、心配だとかを「家族」という買い被りで覆っていたのだと思う。 
     結果、裁判で証人として出廷した母は、事件当時の僕を振返り「恐かった」と語った。

     もし自分が母や兄と“きちんとした対話”をし、その思いに心を傾けられていたのなら、他者の家族や大切な人を傷つける前に“迷えた”のかもしれない。
     家族を「家族である」と勘違いしていなければ、もっと二人のことを考えられたのかもしれない。
     悔やんでも仕方がないけれど、悔やまずにはいられないこともあって。そのひとつが、母や兄(更にいえば大切な人達)との関わり方だったのだと、常々痛感させられる。
     他にも、沢山あるのだと思う。
     現段階では理解できずに、ずっと心に引掛かっている物事が。
     有り触れた日常の中で浮かんでくる“有り触れた私情”に耳を澄ましてみると、自分の正直さが呻き声をあげていた。
     主観や普遍的な観念だけでは計れない部分にこそ、大切な人(もの)を「大切」と思える理由がある訳で、そこに全員が別人である意味、意義が含まれている。その事実を知っておいて無視するのは、怠惰と同義だ。

     本当にどうでもよくて俎上に載せる必要もないことならば、ふと思い、考えることもないのだろう。
    「家族」という枠に寄掛からず、個人としての母や兄を「大切だ」と言えた時に初めて、きちんと僕の愛を伝えられるのかもしれない。
     父に対しても、そうであったように。
            令和八年十月十日 
             
             追伸
     
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     また、私事ではありますが、有料記事(上記記事以外)や絵画の販売益の中から、年内にもう一度、被害者方への送金も行える予定です。
     
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    僕がそう言えるのは、僕を支えてくれている方々の御陰に他なりません。今こうして言葉を綴り、行動できている事実が本当に嬉しく、痛くもあります。
     これが、僕の犯した罪であり、更生の道なのだと思います。僕が自分の罪を、二度と正当化しない様に、今後とも“あなた”の力を借していただけたのなら、嬉しい限りです。
     他者が存在する意味を教え、一人では変われない自分の弱さを解らせ、もう一度前を向く機会を与え続けてくれて、有難う。
     


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