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死んだら、また会える

    最近、息子と一緒に『ドラゴンボール』を観ている。

    アニメだけではなく、ゲームをしたり、カードを集めたり。

    僕自身、子どもの頃から『ドラゴンボール』が好きだった。悟空が強くなっていくこと。次々と現れる敵。修行を重ね、新しい技を覚え、それまで勝てなかった相手を倒していく。

    当時は、そんな単純な面白さに夢中になっていた。

    ところが、大人になって改めて作品の世界に触れていると、子どもの頃には気にも留めなかったことが、妙に面白く感じられる。

    例えば、『ドラゴンボール』における死の扱いについて。

    この作品では、人が死ぬ。しかも、かなり頻繁に死ぬ。

    悟空も、クリリンも、ピッコロも、ベジータも死んでいる。けれど、彼らの死は、必ずしも物語からの退場を意味しない。

    ドラゴンボールを集めれば生き返ることができるし、死んだあとも、あの世で修行を続けることができる。

    悟空に至っては、死んでいるにもかかわらず、界王様のもとで楽しそうに修行をしている。

    生きているときと、あまり変わらない。

    もちろん、死が悲しい出来事として描かれる場面もある。仲間を失った怒りや悲しみが、物語を大きく動かすこともある。

    それでも、この作品において、生と死は完全に切り離されたものではない。

    死んだ人間にも、その先の生活がある。

    考えてみれば、ずいぶん不思議な世界だと思う。

    先日、息子がこんなことを聞いてきた。

    「パパ、悟空は一回死んだ?」

    「うん、死んだよ」

    「じゃ、一回死んで、生き返ったの?」

    「そうだよ」

    息子にとっては、それほど不思議なことではないらしい。

    そして、少し考えたあと、こんなことを言った。

    「パパの友達は、死んだんでしょ?」

    僕には、大学時代に亡くなった友人がいる。

    以前、妻とその友人について話していたのを聞いて、知っている。

    「うん、そうだよ」

    すると息子は、ごく自然にこう言った。

    「じゃ、パパが死んだら、またあえるね」

    その言葉を聞いて、少し驚いた。

    息子は、僕を慰めようとしたわけでも、死について何か特別なことを言おうとしたわけでもない。

    ただ、『ドラゴンボール』の世界で起きていることと、現実の世界で起きたことを、同じように捉えているのだと思う。

    死んだ人は、どこかにいる。

    だから、死んだら、また会える。

    息子のなかでは、それがごく自然につながっていた。

    考えてみれば、僕たちはいつから、生と死をこれほど明確に分けて考えるようになったのだろう。

    生きている人はこちら側にいて、死んだ人はもう会うことのできない、向こう側にいる。

    少なくとも、今の僕はそう考えている。

    けれど、人間は昔から、必ずしも死をそのように捉えてきたわけではない。

    日本にも、亡くなった人があの世で暮らしているという考え方がある。

    お盆には先祖が帰ってくると考え、仏壇に手を合わせ、亡くなった人に話しかける。

    そこでは、死者は完全にいなくなった存在ではない。

    目には見えなくても、どこかにいて、ときにはこちらの世界に戻ってくる。

    そう考えると、『ドラゴンボール』の世界も、それほど突飛なものではないのかもしれない。

    悟空が死んでも修行を続けていたり、占いババの力によって、あの世から死者が戻ってきたりする。

    生と死のあいだに境界線はあるけれど、それは決して越えられないものではない。

    むしろ、ふたつの世界がゆるやかにつながっているように見える。

    そして、『ドラゴンボール』には、こうした曖昧さがほかにもある。

    例えば、善と悪の境界線だ。

    ピッコロもベジータも、最初は悟空たちにとって恐ろしい敵だった。ところが、物語が進むにつれて、いつの間にか仲間になっている。

    それは必ずしも、悪人が善人に生まれ変わったという単純な話ではない。

    誰かと一緒に過ごしたり、大切なものができたりするなかで、少しずつ関係性が変化していく。

    生と死だけでなく、善と悪も、敵と味方も、はっきりと分かれているわけではない。

    こうした曖昧さは、どこか東洋的なものなのだろうか。

    仏教には、物事を固定的な存在として捉えず、さまざまな条件や関係によって成り立つものとして考える思想がある。

    もちろん、鳥山明がこうした思想を意識して描いていたのかといえば、それはまた別の話だろう。

    けれど、作者が意図していたかどうかと、作品から何を読み取るかは、必ずしも同じではない。

    僕たちは作品を通して、作者自身も意識していなかった何かを受け取ることがある。

    息子の言葉を、もう一度思い出してみる。

    「じゃ、パパが死んだら、またあえるね」

    僕は、そのとき、その言葉に何と答えたのだったか。

    死んだ人に、また会えるのか。

    それは、誰にもわからない。少なくとも、僕にはわからない。

    けれど、息子の言葉を聞いたとき、僕はそれを否定したいとは思わなかった。

    むしろ、そういうふうに死を捉えることができるのは、少し素敵なことのように感じた。

    僕たちは大人になるにつれて、世界について、いろいろなことを知っていく。

    何が現実で、何が空想なのか。何が可能で、何が不可能なのか。

    そうやって世界を理解していく一方で、いつの間にか、自分のなかにたくさんの境界線を引いているのかもしれない。

    子どもの頃、僕も悟空が死んで、あの世で修行をしていることを、何の疑問も持たずに受け入れていた。

    そして今、息子も同じように、その世界を受け入れている。

    もしかすると、僕たちは子どもの頃に触れた物語から、自分でも気づかないうちに、世界の捉え方のようなものを受け取っているのかもしれない。

    それが、現実の世界を正しく説明しているかどうかとは別に。

    死んだら、また会える。

    そう考えることで、少しだけ、生きている世界が広がるような気がする。

    少なくとも、息子のなかでは、僕の友人は、今もどこかにいるのだと思う。

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