
「木曜日にはココアを」 青山美智子
「好きなところにいるだけで、元気になることもあると思います」
木曜日にはココアを」 青山美智子
マーブルカフェ。
このカフェを訪れるお客さんには、それぞれのドラマがあります。羽を休める鳥のように、ひとときだけ自分の時間を取り戻し、また羽ばたいていきます。
この物語の「僕」は、高校を卒業してから勤めていたチェーンのレストランが経営不振になりリストラに遭いました。
そんなとき、川沿いの葉桜になった桜並木を歩いていると、出会ったのがマーブルカフェでした。
なんともホッとする空間、自分の部屋に帰ってきたような安堵感に「ここで働きたいんです!」と「僕」は勢いでカフェのマスターに告げたのです。
店長候補を探していたマスターは「僕」を採用し、それ以来、ひとりでマーブルカフェを切り盛りしています。
ある日、ひとりの女性客がやってきました。
その人は、ホットココアを注文しました。
「ホットココアを、お願いします」
雨上がりの雫みたいな瞳で僕を見上げて、
肩まで流れる栗色の髪を揺らして。
それから、毎週木曜日の午後3時を過ぎた頃にその人はやってきて、必ずホットココアを注文し、いつも窓際のテーブル隅の席で3時間くらい過ごすのです。
僕の好きなその人は、ココアさんという。
名前を知らないから、「僕」は勝手にそう呼ぶことにしたんです。
ココアさんは、だいたい長い英文のエアメールを読んだり、書いたり、英語のペーパーバックを読んだり、あと窓の外を眺めたりしてカフェの時間を過ごします。
便箋に文字を書きつけている彼女を見ていると、ココアさんが手紙の相手を大切に思っていることがわかります。それが微笑ましくもあり、少し嫉妬する気持ちもある。
片想い。
「僕」は、ココアさんに片想いをしています。ただ、それでいいんです。誰かを想う気持ちは、とてつもないパワーを与えてくれるのだから。
木曜日には、とびきりのおいしいココアを彼女に捧げる。それがすべてだ。
7月のとある木曜日の午後3時過ぎ。
その日やってきたココアさんは、あきらかにいつものココアさんと違っていて、ぐったりしていました。
そのうえ、彼女のいつものお気に入りの席は、すでにお客さんが座っていたのです。
いつもの席に背を向けるように中央のテーブルに座った彼女は、ホットココアを注文しました。
ホットココアを運んだあとも彼女はうつむいたまま。ただ、テーブルの端をじっと見ています。
すると、ココアさんの頬にはらりと涙が伝ったのです。
「僕」は駆け寄りたかったのですが、できませんでした。
彼女はお客さんです。エアメールの相手はきっと遠距離恋愛中の恋人。英語がペラペラで、身なりからして育ちのいいお嬢さんです。「僕」とは遠い世界に生きている人だと思ったから。
だけど、「僕」にできることは何かないのかと、必死に考えます。
その刹那!
いつもココアさんが座っている席のお客さんが、慌てた感じで急ぎレジに向かったのです。
「僕」は手早く会計を済ませて、
そのテーブルを急いで片付けます。
そして、ココアさんに
「空きました!」
と伝えました。
さらに
「いつもの場所です。
好きなところにいるだけで、元気になることもあると思います」
と声をかけたのです。
彼女は、ふわあっと雪が溶けるみたいに笑顔になりました。
彼女はいつもの席に座るとエアメールを書きはじめました。ココアのお代わりもしました。
ココアを運んでいくと、突然彼女に「あの」と声をかけられます。
びっくりした「僕」は、手元が狂ってカップが揺れてしまいます。そして、ココアが数滴、便箋に飛び散ってしまいました。
「す、すみません、すみません!」
あわててペーパーナプキンで拭こうとすると
「見て、ココアのハート!」
(中略)
「ホットココアでお温まりください、って書いておきますね」
ココアさんは笑顔になりました。
そのココアのハートのそばに記された
「My dear best friend, Mary」
「僕」の誤解も晴れたのです。
なぜ彼女は泣いていたのか?
その理由は、物語の最後で明かされます。
最初の物語は、マーブルカフェの雇われ店長になった「僕」の物語。
最後の物語は、木曜日の午後3時にマーブルカフェに訪れるココアさんの物語。
最初と最後の物語がつながったとき、僕は思わず、もう一度、最初から読み
返したくなりました。
名前も知らない相手の、何気ない仕草や表情。そこに見える人柄や優しさ。
人を好きになるって、そんなところからはじまるのかもしれませんね。
こうして物語は、次の物語へとつながっていきます。
主夫の夫に代わって初めて弁当を作るキャリアウーマン、厳格な幼稚園の新米先生、緑の絵を描き続ける女の子、シドニーのサンドイッチ屋さんへと。
一見、まったく関係のない日常を送る登場人物たちですが、彼らの小さな行動や誰かを想う優しさは、美しいパズルのピースのように結ばれていきます。
◇
僕はこの短編集の中で7つ目の物語、「カウントダウン」が心に残りました。
好きな色である「緑色」を描く女の子のお話です。
緑を描くことが好きなのに、「あんたはどうして他の子みたいに普通でいられないの、なんの得にもならない緑の絵ばっかり描いて」と幼い頃にお母さんに言われた言葉がトラウマとなってしまいます。
緑色にもいろんな緑色があるんですよね。
この女の子は、絵の具の緑色をそのまま使わずに、黄色と青を基本にいろんな色を混ぜて緑を表現するスタイル。
自然の緑は、一つとして同じ緑色はないのでしょう。
その瞬間だけの緑を描くためにシドニーのロイヤル・ボタニック・ガーデンという公園にやって来て絵を描きました。
公園の空気と樹木と葉と絵の具の香りを嗅ぎ、私の世界が緑色に染まっていくのを見る。ああ、幸せだ。
誰にも見せず、ただ緑を描くことが好きな彼女。けれど、自分が落としたハンカチを拾ってくれた男性に、持っていたスケッチブックを見せることになります。
彼はどの絵も素敵だと言いました。
緑色の中にもいろんな色が入っていると。
うれしいのも、
楽しいのも、
さみしいのも、
怒ってるのも、
慈愛も、情熱も。
好きなことを真剣に、楽しみながら、情熱を込めて続ける。
そんな姿が、誰かの心を救うこともあるのではないか?
「だから描き続けて。君の緑に、救われる人がいるよ。
君が描いているのが『君』であって、『あなた』だ。
それぞれの人が、自分にぴったりの一枚をきっと見つける。
もっとみんなに見せてあげて」
僕はこの言葉を読んで、自分の好きなことを大切にすることが、誰かの希望につながるのかもしれないと思いました。
彼女も好きな場所(緑の場所)に来て、大好きな緑を描き、元気になりました。
好きな場所があるっていいですよね。
好きな場所にいるだけで元気になれるんですもの。
忙しい日々や人間関係に少し疲れてしまったとき、まるで一杯の温かいココアを両手で包み込んだかのように、凍えた心をじんわりと解きほぐしてくれる、そんな優しさに満ちた物語でした。
そして、青山美智子さんの作品は、もう僕のかけがえのない「好きな場所」になっています。
【出典】
「木曜日にはココアを」 青山美智子 宝島社