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見えないところに、ある――同じ10秒でも、私に残るものが違う

    こんにちは。ゆらです。当事者です。

    ベッドの端で、私が立ち上がろうとしている。ほんの数秒の、静かな準備の時間。ここで、私の人生を左右する二通りのことが起きます。


    一つめ:**「奪われる起点」**(または「作業としての介助」)
    私が動き出す前に、支援者の手が伸びてきて、私を持ち上げます。悪気はありません。いつものやり方で、早く終わらせようとしているのだと思います。

    二つめ:**「育まれる主体性」**(または「シンクロ介助」)
    支援者は、手を出さずに見ています。私の視線の先。息が止まる瞬間。身体がふっと硬くなる瞬間。そして私が動き出してから、手が添えられます。


    どちらも、移乗は終わります。でも私に残るものは、まったく違います。

    1、終わったあとに残るもの

    一つめ:**「奪われる起点」**(または「作業としての介助」)では、私に「自分で動いた」という経験が残りません。残るのは、「やっぱり自分ではできない」という感覚です。

    力が足りないのではなく、力を出す機会がなかっただけ。それなのに、その機会のなさが、私の限界の証拠になってしまいます。

    支援者には「終えた」という事実が残ります。「この人は難しい」という最初の見立ても、正しかったように見えます。私自身まで、そう思い始めます。

    二つめ:**「育まれる主体性」**(または「シンクロ介助」)では、「自分で動いた」という実感が残ります。それが重なると、「動き出せば、動ける人」という自分の姿が、少しずつ育ちます。すると、身体も動きやすくなります。


    人の見立ては、関わり方になって身体に届きます。身体の経験は、自分をどんな人間だと思うかを書き換えます。障害者になった私は、この往復のなかで暮らしています。

    2、見えないだけで、ある

    私のなかには、「こうしたい」という意図があります。障害を負ってから人にお願いをして生き伸びているので、相手に伝わるよう、自分の欲求、感覚や意図を強くはっきり感じるように心がけています。

    けれど、構音障害のためにうまく声と繋がらない。運動失調のために、思った通りに動きません。動いた結果の身体の反応も、自分で予測しにくい。

    外から見えるのは、「声にならない私」と「思うように動けない私」だけです。そこから「ユラには難しい」という見立てが生まれます。

    見えないことと、存在しないことは違います。

    思うようにできないことと、意図がないことも違います。

    3、支援を「環境を整えること」と捉える

    私にとっての環境は、動き出すまでの時間、手を出すタイミング、視線、構え方、声かけのことです。

    支援者が支援をどう捉えるかで、この環境が変わります。

    作業と捉えれば、待つ時間は「待たされる時間」になり、短くしたくなります。

    私の意図を発揮する場と捉えれば、待つ時間は、必要な時間に変わります。


      シンクロ介助のポイント
       1. 先回りしない。本人の意図とタイミングに合わせる。
       2. 主語を返却する。「お水が飲みたいんですね」と、本人の主語のまま復唱する。


    私が「お水が飲みたい」と言ったら、「お水が飲みたいんですね」と返してもらいます。(意図のミラーリング)
    「お水汲んできます」や「はい」では、私の「したい」が、支援者の「やること」にすり替わってしまうからです。主語がすり替わると、私の人生の主役も入れ替わります。

    支援者は、黒子です。主役は私のまま、私の力が届く範囲を、少しだけ広げてくれます。違えば、私が違うと伝えます。見えたつもりにならず、見えないものがあることを前提に、一緒に確かめます。

    4、心がけだけでは、変えられない

    作業として急いでしまうのは、心がけの問題とは限りません。
    時間に追われ、人手が足りず、評価されるのは作業を終えたかどうか。
    「待つ時間」や「確かめる時間」は、記録にも評価にも残りません。

    支援者の状態も大きいです。自分の焦りに気づけて、いったん手を止められる人といると、私は安心して動き出せます。
    余裕のなさが動きに出ると、次に何が起きるか予測できず、私の身体はこわばります。

    でも、これも自己管理の問題ではありません。余裕を失いやすい条件に置かれていること自体が、この構造の一部だと思っています。

    5、確かめたいこと

    「尊重」とは、何でしょうか。

    支援者が「尊重してあげた」と満足することなのか。私が「尊重された」と実感し、自分を生きている経験につながることなのか。

    いまの私には、三つの問いがあります。事実としてではなく、一緒に確かめたい問いとして置きます。

    一つめ。
    意図が動きになる前に手を出されたり、考えているのに、すぐ結論づけ決めつけられたり、主語をすり替えられることは、行為の「起点」を妨げているのではないか。
    皆さんはどう思いますか?

    二つめ。
    本人と支援者では、流れている時間が違うのではないか。
    小脳の損傷以降、私の注意は「いま身体に起きている自分の内側のこと」に向かいます。
    支援者は、行為の結果や、前の作業、次の作業、終了時刻にも意識を向けています。
    このずれが、先回りや「待てなさ」を生むのではないか。
    皆さんの現場ではどうでしょうか?

    三つめ。
    支援者が持つ「この人はこういう人」という見立てやバイアスは、私が自分をどう捉えるかに、どこまで入り込むのか。見立てが変わったとき、身体はどこまで変わるのか。
    皆さんどう思いますか?



    難しい問いですよね。どれか一つに原因を求めず、本人の経験、支援者の認識、専門家の視点、実際の介助を照らし合わせて、関係のなかで何が起きているのかを見たいのです。皆さんぜひ教えてください。

    6、自分を取り戻してきてる

    シンクロ介助をはじめて1年間で、私は、自分が主語でいられるようになり、だんだん自分を取り戻してきた感覚があります。

    「自分は何ができる人なのか」という自己受容と自己理解が進みました。シンクロ介助の本人主語モデルに切り替えてから、身体の使い方の上達、精神の落ち着き、孤独の解消にもつながりました。

    意図を受け止めてもらえること。私の身体の時間を認めてもらえること。

    自分の反応で、支援が変わること。その、自分が動くと世界が変わる経験が、安心感を生み、自分を緩め、身体の使い方を工夫することにつながりました。

    できることが増えた。やってみようの挑戦が増えた。自分がここに生きているという実感や、自分自身への信頼を育ててくれました。

    認知科学では、自分の行為を自分が引き起こしていると感じることを「行為主体感」と呼びます。私が今、取り戻しつつある感覚には、この行為主体感と重なる部分があります。

    ただ、変わったのは、自分の行為に対する感覚だけではありません。「自分はどんな人間なのか」という、自分自身の捉え方も変わりました。

    障害を負って5年。シンクロ介助を通して生まれたこの変化は、脳の可塑性や、障害を負った自分を受け入れていく過程ともつながっているのかもしれません。

    このことについては、また改めて書きたいと思います。


    おわりに

    当事者の私と家族、介助者たち15名の「チーム小脳」で、本人を中心にした支援を、日々の介助のなかで、ワクワクしながら試しています。

    個人の経験で終わらせず、記録や観察も手がかりに確かめ、共有可能な方法を、みんなで楽しみながら探っています。いつか社会に還元したいと思っています。

    今すぐ答えが出せるとは思っていません。複雑で、難しくて、ぐちゃぐちゃで、分からないことだらけです。

    感想や「うちの現場ではこうだった」という声を、noteのコメントで聞かせてもらえたら嬉しいです!
    私達と繋がってください。


    見えないものを、ないことにしない。
    見えないところこそ、何があるのかを、本人と一緒に探る。

    チーム小脳代表 ユラ

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    本人が主語でいられるとは? 福祉の「なんか違う」を言葉に。 チーム小脳で研究中。 意思決定・身体・時間・介助・対話を、 本人主語モデルで問い直す。 自分の体の声を聞き、ズレに気づき、調整し続け、 関係と環境をつくる。それがシンクロ。 される側も、する側も、違和感を書く。

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