
「みんなと同じ」が猛烈につまらない。インスタをやめて気づいた、自分の感性を信じるということ
「魂とられる!」
娘たちは成長し、だんだんとカメラを向けると、こんな言葉とともに本気で顔を背けるようになりました。
……どこでそんな言い伝えを覚えてきたのかは分かりません。
けれど、そうやって露骨に嫌がる娘たちを前に、
私は「いいから撮らせてよ!」なんて口が裂けても言えず。
何を隠そう、私自身も幼い頃に「写真を撮られると魂をとられる」と本気で信じ込み、カメラを向けられるたびに必死で逃げ回っていた子どもだったからです。
自分の幼少期の記憶が不意に蘇り、「あぁ、完全に遺伝だな」と苦笑いしながらそっと撮るのをやめました。
おすすめ欄の強烈な違和感

そんな娘たちの“写真拒否”もきっかけの一つではありますが、私が家族用のインスタグラムのアカウントを削除したのは、3年前(2023年の前半)
ちょうど3人目を妊娠していた時期のことでした。
やめた最大の理由は、SNSの「映え」や「アカウントを伸ばす」みたいな世界観に、ハナから一切心が動かないタイプだからです。
元々伸ばそうとか考えたことすらありません。
おすすめ欄に出てくる投稿を見ていると、どれも綺麗に整えられてはいるものの、金太郎飴のように同じような世界観や構図ばかり。
画面をスクロールしてもデジャヴのような投稿が続き、猛烈につまらないと感じてしまいました。
量子力学の世界観で捉えれば、人間も、スマートフォンも、目の前の空気も、最小単位まで分解していけばすべてただの「粒子(エネルギー)」で
あり、根本において同じ存在です。
潜在意識レベルで「本質はみんな同じだ」と分かっているはず。
なのに、表層の投稿フォーマットが周囲に合わせて均一化する現象に対して、冷めた違和感を持ちました。
わざわざ誰かと同じ型にはまって、自分の感覚を殺す意味がどこにあるんだろう?と。
自分の「ワクワク」だけを基準に選ぶ

私は、アルゴリズムに好かれるための「綺麗な投稿」を作る気もサラサラないので、最初から自分自身が1ミリもワクワクしないものに、貴重な時間やエネルギーを割くのは無駄でしかないと感じました。
ワクワクするなら、今でも続けています。絶対に。
でも、
「あ、私はやっぱり、ここにはもう全くワクワクしないんだな」
はっきりと自分の本音を認めた瞬間、後髪を引かれることもなくアカウント削除。
1歳でバナナを5本平らげて特大のうんちを出していた長女が、今ではマイミシンを出してきて私のズボンの裾上げをサラッとやってのける姿。
3歳でホテルのラウンジに座り「オーガニックアップルジュース!」とお澄まし顔で注文していた次女が、空間の美学やおもてなしに徹底的にこだわる姿。
我が家のカオスでユニークな日常は、誰かの真似をした「整ったSNSの画面」の中になんて納まりきりません。写真という解像度の低い記録に残さずとも、私の意識の中にデータとして刻まれていれば、それで十分すぎたのです。
自分の「感性」を観察し、満たしていく

誰かが作った「正解」の型に自分を無理やり当てはめたり、
他人の目を気にして外面を繕う生き方は、私には合っていませんでした。
画面の中に溢れる「誰かの切り取られた日常」を眺めている時間より、自分の目の前で起きているカオスで愛おしい現実を観察し、
そこから得られる知見や感覚を味わう時間の方が、
私の精神をずっと深く満たしてくれました。
私のお店(美ューティーショップ)で展開しているプロダクトやケアの捉え方も、すべてこの体験とつながっています。
誰かに見せるための「映えアイテム」としてではなく、
「今日一日を思考し、選択し、生きてきた自分の五感と肌を、
じっくりと観察して慈しむためのツール」。

そんな時間が、私の感性を満たしてくれる。
誰かと同じ型を目指す必要なんてない。
自分が「心地いい」「ワクワクする」と感じる潜在意識のシグナルだけをシンプルに信じてあげること。
画面の向こう側の世界からそっと離れ、自分自身の感覚が真に求めるものに没入する時間が、今の私を一番豊かに満たしてくれたと感じています。

アメジストカッサを販売中。フェリチタショップ。