
公正な社会を目指すべきか?(※テキストのみ)
※文章の保存用です。
今後、動画やスライド付きの記事として投稿する予定の内容ですが、長尺になるため、ひとまず台本にあたる文章のみを保存しています。
動画とスライド付きの記事は、後日投稿する予定です。
この文章の最初にあたる動画は「世界平和を実現するためにはどうすればいいか?」になります。
【世界平和を実現するためにはどうすればいいか?】

社会の分断と対立
今回の動画はここまでの一連のシリーズの最後の動画になります。
長いシリーズの最後なので視聴者も厳選されたと踏んで、世界平和、専門家と陰謀論、就職氷河期や女子枠における世代間・男女間対立、子どもを持った人と持たなかった人の分断といった、特に穏当ではないテーマを扱っていきます。
よく「分断や対立を煽るな」と言われ、たしかに何らかの「対立」が起こっているとき、どちらかの側の立場で発言すると支持と批判の両方が来て注目を集めやすいので、人々がSNSで自由に発言していくなかで対立が強まっていく構造は問題視されるものかもしれません。
しかし「対立」が必ずしも悪いことなのかというと、「対立が起こっていないことが問題」と考えられる場合もあり、そのひとつの例が企業の「独占」です。
独占市場だったり寡占かつ談合が行われている場合など、企業同士の「対立」が生じていない場合、消費者には選択肢がなくなり健全な状態でないと一般的には見られます。
逆に、各企業が競合相手よりも優れたものを提供しようとしていて、その「対立」の成果が消費者や社会全体に還元されやすいときに市場がうまく働いているとされます。
そして「むしろ対立がないほうが不健全」という見方をするならば、例えば「国家の仕組み」に関して、まともな「競合」が存在せず健全な「対立」が起こっていないのではないか……という視点もあるかもしれません。
「国家の仕組み」には代替しうるものが現状はなく、税金の上げ方や分配のされ方にどれだけ納得いかなくても国民は何もできないことが多いです。
そのため、「国家の仕組み」にも「対立」する競合相手が存在したほうがそれが改善されやすくなるかもしれないと考えるのですが、しかし国家と「対立」するというのは穏やかではなく、「革命でも起こすつもりなのか?」と警戒されるかもしれません。
今回はまず「分断や対立」について論じる前提として、やや突拍子もない話題をいきなり出すように思われるかもしれませんが、「世界平和を実現するためにはどうすればいいか?」という話を最初にしたいと思います。
世界平和を実現する方法について考える
やたらと大きなテーマになりますが、これから「世界平和を実現する方法」をまず説明します。
スピリチュアルな話をしたいわけではなく、「核兵器以上の強力な兵器の廃絶」と「大規模な加害や権利侵害が起こっていない状態の継続」を「世界平和」であるとして、いかにそれを実現するかについて話します。
よくある世界平和のイメージは、暴力の独占によってそれがなされるというものです。
現在の国家は軍事力や警察力を独占することで平和を維持していて、その延長で考えるなら、「世界政府や世界軍が武力を統一することで世界平和が実現する」と考えられてもおかしくないかもしれませんが、しかしここではそれに否定的な見方をしています。
まず、どこかひとつが覇権を握れば平和がもたらされるという考え方において、それをしようとして起こる大規模な戦争こそがまさに「世界平和」に反します。
加えてここでは、「世界(グローバル)」と「国家」は性質が異なるので、「世界」の統一は「国家」のようにはいかないと考えています。
例によってこのチャンネルで繰り返し説明してきた枠組みを使いますが、「グローバルという最大」と「個人という最小」の接続が「正しさ」で、「その中間にある集団(ローカル)」が「豊かさ」であると考えます。
相反する「豊かさ」と「正しさ」において、「豊かさ」は「正しくない」が「土台」になり、「正しさ」は「正しい」が「土台を消費していく」という見方をしていて、この詳細については過去動画で何度も説明したのでここでは割愛します。
この図式で言いたいこととして、「グローバル」と「国家」には「非常に大きな集団」という共通点がありながらも、「家族」と「個人」くらいの根本的な性質の違いがあり、「個人」と「グローバル」は「正しさ」の側で、「家族」と「国家」は「豊かさ」の側になります。
そしてこの見方において、「家族」と違って「個人」だけでは人間を再生産できないように、「国家」と違って「グローバル」には「土台」を捻出する力がないと考えます。
例えば「世界軍」や「世界警察」みたいなものが成立しそうかを考えたとき、その人員や原資を出すのが「国家」である以上、「グローバル」が「国家」を従わせるだけの力を持つようになるとは考えにくいです。
「グローバル」は「数の力」としては「最大」であっても、そうであるがゆえに「統率されていないバラバラの個人(最小)」に近いと考え、「(集団を重視する)国家」よりも「(個人を重視する)グローバル」のほうが強いわけではないという見方をします。
対して、なぜ「国家」が「土台」を捻出できるかというと、「敵がいて対立しているから」だとこのチャンネルの枠組みでは考えます。
過去動画で説明したので詳細は割愛しますが、人間は「自然」な状態では「個人のため」を重視しやすい一方で、外敵との「対立」が生じていることで「集団のため」が重視されやすくなり、このような見方において当チャンネルでは「対立」が「土台」になると考えています。
戦争を抑止するための現状の仕組み
このチャンネルの「豊かさと正しさ」という見方においては、現状を「正しさ」が過剰で社会の継続性が危ぶまれている状態だと見ていて、ゆえにこれから、「豊かさ」を重視する「ナショナリズム」などの集団主義が再び強められようとするだろうと予想しています。
「ナショナリズムを再び強めたとしてそれで少子化など社会の継続性に関わる問題が好転するのか?」というのは、もちろんわからないしエビデンスもないかもしれません。
しかしこれも過去動画で説明したことなのですが、「学術的に検証した結果、ナショナリズムを強めると状況が改善すると断言できる明確な証拠までは見つかっていない」みたいなことを言いがちなのが「正しさ」で、かといって「ではどうすればいいか」を示すわけでもなく、そのような「正しさ」が影響力を持つ停滞を突き破るために再び集団主義が強められることになります。
もちろんそのような形で集団主義が盛り上がるのは「世界平和」や「近代的個人の権利」にとって危険な事態です。
集団主義が再び強まる機運があるのに対して、世界平和のため(戦争や侵略を抑止するため)の現状の主な仕組みですが、「グローバル市場」と「集団安全保障」が大きな役割を果たしていると考えます。
まず「グローバル市場」は、「市場のルール」というローカルな共同体を超える「グローバル」な性質のものが「個人」の需要を重視し、そのような「最大と最小が接続する正しさ」が影響力を持つ形で、国家という「ローカル」な権力に「ブレーキ」をかけます。
政府が市場を無視できないように、「市場によるブレーキ」は現在も強い影響力を持っているのですが、ただ、先に述べたように「グローバルと個人(正しさ)」は「土台」にはならないので、「ルールを強制的に守らせる暴力」を市場が有しているわけではなく、市場には「いざというときの対処」ができません。
実効的な抑止力の部分は、「集団安全保障」という形で「国家」同士が担うことになっていて、ひとつの国を侵略しようとすると他のすべての国を敵に回す「集団安全保障」によって戦争が抑止されています。
つまり、ある国家が戦争や侵略を始めようとすると、「グローバル市場」から爪弾きにされて経済的に不利になっていき、「集団安全保障」によって他のすべての国の武力を敵に回すので、戦争はできないだろう……というのが現状の平和維持のための仕組みです。
一方で近年は、「ロシアによるウクライナ侵略」や「ガザ紛争」など、「グローバル市場」と「集団安全保障」の仕組みが侵略を思いとどまらせるほどの抑止力を発揮できなかった事例も出ています。
しかしながら、防ぐことができた戦争は可視化されないので、防げなかった戦争があることは仕組みが機能不全であることを意味しません。
世界大戦後の人類は史上稀に見る「長い平和」を享受してきた面があり、現状の世界平和のための仕組みである「グローバル市場」と「集団安全保障」は、基本的には非常にうまく働いているものとここでは評価しています。
そしてその現状の仕組みを重要なものとした上で、これから起こるであろう「集団主義の再燃」に対して、より安全で継続性のある平和のための方法は何かを考えます。
「集団安全保障」をより安全にするには?
まず、「集団安全保障」を「より安全に」する方法の安直なイメージを言うと、「プレイヤーの数が増える」ほど集団安全保障は原理的には安全になります。
例えば集団の数が全部で10だとして、ある集団が侵略を始めたときに残り全部を敵に回すと9対1です。
対して集団の数が全部で100になった場合は99対1で、参加するプレイヤーの数が増えるほど「多勢に無勢」の度合いが強まることになります。
あくまで原理的には、「集団安全保障」はプレイヤーの数が増えるほどひとつの集団が持つ武力は少なくて済みます。
対して「それはむしろ危険だ!」という考え方もあると思います。
プレイヤーの数が増えてひとつひとつが小さくなるほど「統制の欠如・利害の不一致・責任の曖昧化」などによって現実的な問題に対処する力が失われやすく、例えば「いくつかのプレイヤーが結託して勢力拡大を図った場合」に、他が小さくてバラバラになっていると対抗できず逆に加害を防げなくなるかもしれません。
このような事情をここでは「豊かさと正しさ」の枠組みで表現しようとしていて、「プレイヤーの数が増えるほど多勢に無勢で安全になる」という考えにおいて「プレイヤーの数が最大」が「個人(最小)」という「正しさ」になります。
そして先に述べたように、「最大と最小(グローバルと個人)」は「中間的な集団」と違って「土台」にならないので、問題が起こったときに対処する力を持たず、集団が細かくなり「個人」に近づくほど勢力均衡による「集団安全保障」も成立しにくくなります。
「集団」は小さくなったほうが(プレイヤーの数が多くなったほうが)「正しさ」が強まり安全になりやすいのですが、小さくなりすぎると「加害的な集団」が出てきたときに対処できなくなることで逆に安全が失われます。
この現象を今回の一連の動画では「正しさの過剰によって正しさが失われる」と説明してきました。
このような事情の上で、「なぜ加害的な集団が発生するか」の動機の部分も考えるなら、これも先に述べたように、現在の多くの国家や共同体は「正しさ」の過剰によって存続が危ぶまれていて、その不安から再び集団主義へ回帰する動きが見られます。
つまり、「正しさ」が過剰になる(「豊かさ」が欠如する)と、加害的な集団に対処する実行力が失われてしまい、その上で危険な集団主義を再興する動機も生まれます。
ゆえにこのチャンネルでは、「正しさの過剰によって正しさが失われる」として、平和や安全のために「正しさ」が重視されやすいのに対して、むしろ「正しさ」が過剰になった先に危険があるという考え方をしています。
逆に言えば、「豊かさ」が十分にあって、責任のある集団安全保障が機能し、生活や社会の継続に不安を感じにくい状況ならば、侵略や集団主義を強める動機も弱くなりやすいと考えます。
国家や共同体などの集団が対立し合っているのは危険である一方で、それは「豊かさ」のために評価しなければならないものでもあり、「正しさ」を重視して対立をただ単に切り崩していけばいいわけではないとします。
これらを踏まえて、では平和のために何をすればいいのかというと、「豊かさ」と「正しさ」の両方を重視し、「豊かさ」の総量を十分に確保しなければならない前提の上で、今よりも「プレイヤーの数が多いより安全な集団安全保障」を目指す形で「正しさ」を強めていく必要があると考えます。
ここで意図していることを図式的に説明しようとするなら、まず、「グローバルという最大」と「個人という最小」があり、その間に「中間的な集団」があると考えます。
「人類全体」と「個人」の間の「中間的な集団」の枠組みは、国家、地域、会社、家族、世代、性別、階層、職業集団、思想信条……などなど様々なものがあると考え、「集団」にはそれぞれ対立し合う性質があるとします。
「集団」の枠組みは互いに重なり合っていることも多く、「個人」はその複数の集団に同時に属します。
例えば、我々は「◯◯の国籍で、◯◯という地域に住んでいて、◯◯という企業の社員……」などのように、「個人」として多層な「集団」に属しています。
「近代的な価値観・グローバルな感覚」はそのことを客観化し相対化する作用で、現代に生きる我々は、多層な集団に属しながらも、「個人」という「最小」であり「グローバルな人類の一員」という「最大」である……という感覚を持っていると思います。
それをここでは、「中間的な集団」という「豊かさ」が、「最大と最小」という「正しさ」に挟まれて抑えられているイメージで考えます。
逆に、誰かが「個人・グローバル」の感覚を失うくらい「特定の集団」に同化し取り込まれてしまうと、「正しさ」のブレーキが効いていない状態になっていると考えます。
そして、先に説明したように、平和を維持するために避けるべきは、「正しさの過剰」→「反動的に豊かさが強まる」→「正しさを突き破ってきた集団に正しさが対処できない」……となってしまうことです。
ブレーキになる「個人とグローバル」を強めすぎても、反動的に「正しさ」を否定する動きが起こりやすくなることで、むしろ平和が毀損されてしまいます。
それを避けるには「豊かさ」と「正しさ」の両方が必要で、「中間的な集団(豊かさ)」が十分に働いていると同時に、それが「正しさ」によってちゃんと制御されていなければならないとして、そのためには、「正しさ」は「豊かさ」を「抑えすぎないように抑える」必要があります。
では「抑えすぎないように抑える」方法ですが、集団同士の勢力が均衡している状態を維持しながら、危険度の高い「突出した集団」を弱めて各集団の強さを均していこうとする形になると考えます。
比喩で説明すると、コンプレッサーなどを使って音声を処理するとき、十分な音量を確保しながら音量の差を均すために、小さい音は持ち上げ大きすぎる音を弱めることがありますが、そのようなイメージで、「十分な集団の総量の確保と勢力均衡の維持を前提に、突出した集団の力を抑えようとする」ようなやり方を意図します。
ここで「より安全な集団安全保障」が実現しやすいと考えるのは
・「豊かさ」が十分にあるので集団主義を強める動機が弱い
・「突出して強い集団」が存在せずに勢力が均衡している
・「プレイヤーの数が多い」のでルール違反をした場合に「多勢に無勢」になりやすい
といった条件が満たされた状態です。
対して現状の世界は、「国家」という「少数の突出して強い集団」に「豊かさ」の多くを依存していて、その上で「豊かさ」が不十分なので、これからナショナリズムを激しく強めようとする動機もあります。
このような状況は危険なものと考えるのですが、国家のような突出した集団を抑えるために「正しさ」を強めようとするとむしろ反動を生んで逆効果になってしまい……「ではどうすればいいか?」というと、「集団を多層化することで、量を確保すると同時に最大値を低くする」ことを考えます。
集団を「多層化」して「弱くしていく」
「国家(ナショナリズム)」というのは言うまでもなく重要な枠組みで、文化や価値観やアイデンティティの基盤でもあり、それを簡単に解体したり分割できるわけがないしするべきでもないと考えます。
ここでは、集団の強さを警戒してそれを弱めようとするときに、大きな集団を単に解体しようとするのではなく、「大きな集団は、その大きさのぶんだけ薄くなければならない(強制力が弱くなければならない)」という考え方をします。
便宜的な基準として、集団の「大きさ」と「強制力」の掛け算によって「集団の強さ・加害性」が決まると考え、それが閾値を超えた場合に問題視します。
ここで言う「強制力」というのは、「集団を重視することが個人に強制される度合い」みたいなイメージで考えてください。
集団の「大きさ」は「家族」から「国家」まで様々です。
まず、「家族・親族」のような血縁は、集団の「大きさ」としては小さく、同時に一定の「強制力」が生じてしまうことは仕方ないと見られています。
もちろん血縁だからといって何でも許されるわけではなく、個人の自由や権利が極端に軽視されている場合は、たとえ家庭内のことであっても問題視して介入する必要があるとされます。
つまり「家族」という集団は、「大きさ」が小さいので一定の「強制力」は許容されるものの、「強制力」があまりにも強い場合は閾値を超えて問題になる……みたいな考え方をします。
次に、「会社」という集団は、「小さい」ものから「大きい」ものまであり、「小さな会社」だったときは許されていたやり方が「大きな会社」になると許されなくなることがあります。
一般的に、組織が大きくなるほど、「明文化されたルール」や「個人の権利」といった近代的なものを重視しなければならないとされていると思います。
このような「大きさ」×「強制力」で加害性を判定し閾値を超えた場合を問題視するという考え方において、例えば「ファミリーのような大企業」はもちろん問題になります。
何らかの「宗教団体」のような集団も、小さいうちは信教の自由として見逃されていても、大きくなって影響力を増すほど警戒の対象になります。
その上で、たとえ「小さい企業」や「小さい団体」であっても、個人に不合理なものを押し付ける「強制力」の度合いがあまりに強い場合は閾値を超えるので問題になると考えます。
そしてこの考え方をするならば、「国家」というのは「巨大な集団」であり、であるからこそ「民主主義・立憲主義・法の下の平等・基本的人権の尊重」などを大きさに見合うぶんだけ重視しなければならないことになります。
このように、「大きな集団であるほど薄くなければならない(所属する個人に対する強制力は集団の大きさに応じて弱くならなければならない)」と考え、これは今の社会の一般的な感覚ともそれほど異なるものではないと思っています。
「大きさ」×「強制力」が閾値を超えたら問題視するという見方において最悪の場合が、「ファシズム」や「戦時下の動員体制」といった、「国家のような巨大な集団」が「個人に対して強い強制力を発揮する場合」で、言うまでもなくそれが生じないようにする必要があります。
このようにして、「大きさ」と「強制力」の掛け算で集団の加害性を判定して閾値を超えそうなものを問題視するのですが、ここでこの基準を持ち出した理由として、「ラインを下回る程度であれば集団主義を強めることも評価しようとする」意図があります。
先に音声処理の比喩で小さい音は持ち上げると説明しましたが、「豊かさ」は十分な量を確保しなければならないので、単に集団の加害性を問題視するだけでなく、ラインを設けてそれを超えない程度であれば集団主義を許容し、「足りないぶんは対立を強めようとすることも必要」という考え方をします。
「強すぎる集団」は抑える必要がある
しかし「豊かさ」は十分な量が必要である
という考え方をしたとき、「豊かさ」の総量を減らさずに「国家」のような集団を警戒してその強さの最大値を引き下げようとするならば、そのぶんだけ引き上げようとする何らかの集団の枠組みが必要になります。
それは例えば「国家から独立した生産能力を持ち、内側から国家と対立するローカルな集団」になり、ここでは、そのような集団は「平和」を実現する可能性を持っていると考えます。
「国家と対立する独立した集団」と言うと、むしろ平和を脅かす危険なイメージがあるかもしれませんが、しかし、例えば日本は近代国家として戦争をするために独立したコミュニティだった「藩」を廃止して中央集権を進めた経緯がありますが、単純にその逆のことを行えば近代戦争はしにくくなると考えられます。
国家の内側に「必ずしも国家に追従しない独立したコミュニティ」が存在するほど近代戦争が難しくなり、それが多くあるような状況が、先に述べた「プレイヤーが多いより安全な集団安全保障」のイメージに近いです。
先に、「9対1」が「99対1」になるとより侵略しにくいように、集団安全保障はプレイヤーが増えるほど「多勢に無勢」になって安全になると述べましたが、そのような「プレイヤーが多いより安全な集団安全保障」は、「国家の内側にある集団」が「国家」と対立するような多層化によって実現に近づくと考えます。
単純化したモデルでの説明になるのですが、例えば、ある「国家」の枠組みが加害や侵略を意図したときに、「他の国家」に加えて、「自国内にある各集団」をも敵に回し、さらに「敵対する各国家の内側にある各集団」も敵に回すのだとすれば、「9対1」だったのが「99対1」になるようなより安全な集団安全保障が成立しうると考えます。
なお、そうなったときに危険なのは「国家」に限らず、「国家の内側にある集団」も、独立した供給力を持つコミュニティになるからこそ加害的な集団に転じるリスクも高まります。
その場合は、「国家」はもちろんそれに対処しようとするし、「同じ国内の他の集団」や「他の国家やその内側にある各集団」もが、加害的なことを意図したコミュニティの問題に対処しようとして、このような形で「より多勢に無勢な集団安全保障」を目指します。
あるいは、宗教団体やテロ組織など国家横断的に影響力を持つ集団が加害性を強めた場合も同様に、世界中の他の集団が敵に回るならば加害的な行為は難しくなるはずです。
ちなみに、「具体的にどうやって対処するのか?」の部分はここで詰められるわけではないのですが、「問題のある集団を破壊する」のではなく、「近代的理念を重視させることで集団の強制力を弱めて薄くする」「集団に同化し取り込まれている個人を引っぱり出す」……みたいなイメージで考えています。
以上のように、現在は国家のような「強い集団」同士の勢力均衡によって平和が維持されているのに対して、「グローバルと接続された個人」が「集団に多層的に属している」ことを意識した上で、「国家を薄くする・内側のローカル集団などを引き上げる」ことによって集団の数を増やし強さを均すことで、「よりプレイヤーの数が多く多勢に無勢になりやすい集団安全保障」を目指し、ひとつの集団の強さの最大値を低くしようとします。
ただ先に言ったように、プレイヤーの数が増え各々が小さくなりすぎても「統制の欠如・利害の不一致・責任の曖昧化」といった問題が生じやすくなるので、今の国家よりは小さいほうが安全になりやすい一方で、いくらでも小さくしていけばいいわけではないとも考えます。
その上で、数が増えて小粒になると集団安全保障の役割を果たしにくくなる問題に対しては、「よりプレイヤーの数が多い集団安全保障」のコンセプトを実行に移す代理システムとしての「世界警察」のような組織を構想します。
世界警察は実現可能か?
先に、「グローバル」には「国家」と違って「土台」を捻出する力がないので「世界警察」は不可能と述べました。
実際に今の状況において「グローバルな世界政府や世界警察」が「国家」より大きな力を持つことは考えにくいです。
ただ、先に述べた「よりプレイヤーの数が多い集団安全保障」に向かっていくと仮定した場合に、そのコンセプトを実行するために各集団がリソースを少しずつ出し合って運用する「世界警察」ならば実現は不可能ではないと考えます。
まず、日本国内においては、ある意味では「プレイヤーの数が多い集団安全保障」はすでに実現しています。
実質的に、犯罪者や犯罪組織に対して「国民全員」が敵に回るような形で「多勢に無勢」になっているからです。
現在の国内の治安維持は、見方によっては「多勢に無勢になった集団安全保障」的な構造があり、そこでは、「ルール違反をすると全員を敵に回す」というコンセプトを「警察」が代理して、警察は企業や国民から徴収したリソースによって運用されています。
であれば同じように、「ルール違反をしたどこかの集団」が「世界中の各集団・世界中のすべての人たち」を敵に回すというコンセプトを「世界警察」が代理し、その「世界警察」は世界中の各集団や各個人から少しずつリソースを徴収して運用される……ということも、理論上不可能ではないと考えます。
しかしながら現状ではそれが成り立たない理由もいくつかあり、そのひとつとして、今の国際社会において「集団」はそれぞれの強さが大きくバラついています。
有名なホッブズの論で、「万人の万人に対する闘争を防ぐために社会契約をして暴力を一元化しよう」というのがありますが、その前提には、「人間ひとりひとりの強さはそんなに変わらず、弱い者でもその気になれば強い者を殺すことができるので、平和のために暴力を一箇所に集めないと誰も安心できないよね」という理屈があります。
一方で今の国際社会にはこの理屈を適用しにくく、なぜなら「個人」と違って「集団」はそれぞれ強さが全然違うので、全員で対等に社会契約を結ぼうということにはならず、腕っぷしの強い各集団が睨み合って均衡しているのが現状です。
ただ、日本もかつては「有力な各集団の勢力均衡による秩序の維持」だったのが、今は「日本国家」として「警察が治安維持を担う社会」を実現しているわけで、「世界」規模でも、いずれ「世界警察」が治安維持を担うようになることが不可能とまでは言えないはずです。
もっとも先に述べたように「国家」と「グローバル」は性質が異なり、「グローバル」には「外敵」が存在しないので、今の国家が行ったような「外敵に対する危機感によって国内をまとめ上げる」という方法は使えないのですが、「平和であること」は世界中の多くの人にとって恩恵になりうるものであり、「世界警察」への同意もまったく想定しえないものではないと思います。
ただそのためには、「ひとつの国が圧倒的に強くなって覇権を握り世界をまとめあげる」のではなく、グローバルな理念の重視を大前提とした上で、「勢力均衡を維持しながら、少しずつ集団の強さの最大値を引き下げていく・各集団の強さを均していく」必要があります。
今よりも各集団が多層化し強さが均されていった先に、「世界のどこかで起こった何らかの加害を世界中のすべての人たちが問題視する」というコンセプトを実行するための「世界警察」を、各集団や各個人が少しずつリソースを出し合って運用しうる可能性があります。
核兵器などの強力な兵器は、他国がそれを持っているから勢力均衡のために自国もそれを持たなければならないのですが、治安の良い国は国内を取り締まるために警察や市民がそれほど強い武器を持っていないように、「多勢に無勢の集団安全保障」が「世界警察」によって実現しているならば、ひとつひとつの国や共同体はそこまで強力な兵器を有する必要がなくなるはずです。
そしてそのような「世界警察」は、「ひとつの国が他よりも圧倒的に強くなり覇権を握る」ことではなく、「最も強力な国家よりも、弱くなった各集団が少しずつリソースを出し合って運用する世界警察の力が上回る」ことで成立します。
そのためには、勢力均衡を維持しながらの地道な軍縮が必要で、それはつまり、現状の国際社会で重視されているやり方の延長に世界平和があると見ているので、その点においてはそれほど通説に反することは言っていないと思います。
しかしここでは、「カント的な普遍的理念が実現することで世界が平和になる」みたいな国際社会のビジョンに関しては疑問視している部分があり、先に繰り返し述べたように、「正しさ」の過剰は反動的に集団主義を強めるので、むしろ平和を破壊するものになりやすいと見ています。
近代的理念はむしろ平和を脅かす?
集団同士が責任を持って暴力を抑制し合う「勢力均衡・集団安全保障」の考え方は平和のために最重要で、安直に「まずは自分たちの国から率先して軍縮を」という態度は、たとえ善意によるものであっても決して褒められたものではありません。
憲法9条的な理念による武力放棄は、原理的にはすべての国がそれを受け入れれば平和が達成されるのですが、集団安全保障上の役割を自ら放棄しようとすることは、相手の集団に侵略のインセンティブや成功体験を与えるので、むしろ平和を毀損しようとする態度になります。
加えて、近代的権利の重視は逆説的に国家の力を過剰に強めてしまうことがあります。
例えば、今の社会で「戦争反対」と言いたがる人たちは、二言目には「政府は国民の生活を保障しろ」みたいなことを言いがちなのですが、このような「自助や共助を否定してとにかく国家に権利を保障させようとする類の主張」は、むしろ国家の力を過剰に強めます。
そして、政府が国民の生活を全面的に保障している状況において、存続の危機などから国家が反動的にナショナリズムを強めたとき、国家に生殺与奪の権を握られている個人にはまともな対抗手段がありません。
対して、ここで提示しようとしている考え方は、「国家が必要なものをすべて提供すればいい」のではなく、「国家という枠組み」と「国家の内側にある集団」が「対立」している状態にも一定の望ましさがあるというものです。
「国家が個人に必要なものをすべて提供している場合」は、集団の強さの最大値が高くなりやすく、一方で、「国家と内側のコミュニティが対立していて、なおかつ豊かさの総量が十分である場合」は、前者よりも集団の強さの最大値が下がりやすいと考えます。
このような見方においては、「国家と内側から対立するローカルな集団」が平和のために重要な役割を担うことになります。
「国家と対立する集団」というと危険な印象がありますが、「集団の強さの最大値を引き下げていく」ことが長期的な平和の維持に必要とした上で、国家を弱くしても「豊かさ」の総量を不足させないためには、「国家の内側にあるローカルな集団」が独立した供給力を持っている必要があります。
では「国家と対立するローカル」ですが、このチャンネルの過去動画でしてきた「ローカルで完結する社会」の話とも繋がってきて、これに関しては、「非専門家でも専門技能を運用できるようにするイノベーション」などの論点と絡めて、これからこの動画内でも説明していくつもりです。
なお留意してほしいのは、ここでは「今から国家の力を弱めていこうとするべき」とは必ずしも主張しません。
長期的な世界平和のためには「国家」の武力削減が必要でも、これから社会が貧しくなっていくほど「国家」という枠組みがますます切実になる側面があり、今後は多くの国で「ナショナリズム」を再び強めて「豊かさ」を戻そうとする動きが起こるだろうと見ています。
そのような状況で安易に自国の武力削減を進めると、他国に侵略のインセンティブを与えかねないので、「勢力均衡と集団安全保障」は最重要と考える必要があります。
ゆえに手順としては、まずは「弱い集団を引き上げる」ことで「豊かさ」を十分にしてから、「大きさ×強制力」においてラインを超えそうな「強い集団」の力を弱めていこうとします。
「正しさ」から先にやろうとするのはダメで、まずは「豊かさ」の問題をどうにかしようとしなければならないのが、今の世界の状況だと考えています。
つまり、ここで言いたいことをまとめると、
・「豊かさ」の総量が同じならば、ひとつの集団の強さの最大値が低いほうが望ましいと考えるので、「国家だけによって必要なものが提供される」よりも、「国家と、それと対立する内側の集団との合計によって必要なものが提供される」状態を目指す。
・ただ、世界全体の勢力均衡は最重要なので、むやみに国家を弱くしようとすべきではなく、まずは内側のローカルな集団で「豊かさ」を賄うことを考える。
という話になります。
「最大と最小」によって「中間の対立」を制御する
ここでは、平和のために重要とされる「近代的理念(正しさ)」を、「全人類と個人」や「優秀な者と弱者」のような「極端」に向かっていって、「同質的・中間的な土台」を切り崩していくものと見ています。
対して、「中間的な土台(豊かさ)」は社会や共同体に不可欠な要素で、「正しさ」が成立するための土台でもあると考えます。
また、このチャンネルの過去動画でしてきた説明は、「正しさ」が「アクセル」であると勘違いされがちなのに対して、「豊かさ」が「アクセル」で「正しさ」は「ブレーキ」と考え、であるからこそ「必要だが危険な豊かさを正しさによって制御しようとする」構図になります。
「正しさ」を「アクセル」と捉えてそれで社会が進歩していくと考えると「正しさ」が過度に優先されやすくなるのですが、「正しさ」の過剰は「土台」になる社会や共同体を解体して継続性を失わせていき、そして、その危機感から反動的に「正しさ」を突き破ろうとする集団主義が強まったとき、「正しさ」ではそれに対処できません。
このようにして「グローバルな理念(正しさ)を重視すること」はむしろ平和を破壊する結果をもたらしうるので、「豊かさ」と「正しさ」はバランスを取って両方を重視する必要があると考えます。
そしてここでは、「中間的な集団」を「アクセル」と置き、「グローバルと個人」を「ブレーキ」と置いて、アクセルをブレーキによって制御しようとし、図式的には「最大と最小によって中間の対立を制御しようとする」ことになります。
ここまでの話をまとめて図式的に説明しようとするなら、まず、「グローバルという最大」と「個人という最小」の「中間」に「集団」があり、各集団は「対立」し合っているとします。
我々「個人」は、国家、地域、会社、家族……など、「中間にある集団」に多層に属していることになるのですが、そのうちの「特定の集団の枠組み」が過剰に強くなることを問題視します。
集団の強さを「大きさ」と「強制力」の掛け算で判定し、それが閾値を超えれば問題と考え、「大きな集団はその大きさに見合うぶんだけ薄くなければならない(強制力を弱めなければならない)」として、集団の強さの最大値を引き下げようとしていきます。
一方で、「豊かさ」は十分な量が必要と考えるので、「多層な集団」の総和によって「豊かさ」を満たすために、「集団同士の対立」も、それがラインを超えない限りにおいて肯定的に評価しようとします。
国家同士の「対立」からインフラや社会福祉が生まれ、企業同士の「対立」から良い商品が生まれるように、ここでは、「集団の対立」から「豊かさ」が発生するという見方をしています。
そして、「対立」は「豊かさ」という恩恵をもたらすと同時に危険なものでもあるので、「豊かさを生む中間的な対立(アクセル)」が「最大と最小の正しさ(ブレーキ)」によって制御されている必要があると考えます。
この「最大と最小によって中間の対立を制御」という考え方において、各個人は「グローバルで普遍的な自由と権利」を意識すべきで、俯瞰的な近代的個人としての視点を持ちながら多層な集団に属している必要があり、対して、「個人」が「最大」と切り離されて「集団に取り込まれている」ような状態を問題視します。
このように考えた上で、ここで望ましいとしているのは、「中間的な集団の対立」が「最大と最小」にちゃんと制御されていて、「対立」から生じる恩恵が「全体」と「個人」に還元されやすくなっているような状態です。
集団同士の対立を積極的に評価しつつも、そのことが相対化されていて、個人が対立の恩恵を得られるような状態を、「最大と最小によって中間の対立が制御されている」と考えます。
なお、この「最大・中間・最小」の図式において、基本的に「最大」を「グローバル」に設定していますが、例えば「国家」を「最大」に設定した場合にも似たような考え方ができるとします。
国内の企業同士の対立や、省庁や業界団体や政治団体の対立など、「国内で起こっている何らかの対立」は、「国民個人」と「国家全体」に利益が還元されやすい形で制御されているならば良くても、「個人と全体」を無視して特定の枠組みの利害が強まりすぎるなら問題と考えます。
また、より小さくして「会社」を「最大」に設定した場合でも、例えば「派閥争い」みたいなものが、「社員個人」と「会社全体」に利のある形で行なわれるならよくても、会社のことよりも派閥の事情が過度に優先されるようになれば問題……みたいに考えます。
あるいはスコープを広げて、「グローバル企業同士の対立」の場合、それがちゃんと市場のルールに制御されていて世界中の各個人にリターンが還元されやすい形の競争ならば望ましいのですが、巨大テック企業が支配力を強めようとしているなどの場合は警戒や規制が必要になります。
以上のように、ここでは「最大と最小によって中間の対立を制御」という考え方をしていて、「最大か最小に向かう正しさ」が強まるほど世界平和に近づくとは考えず、「勢力が均衡している集団の対立」が「最大と最小に制御」されている状態で、「集団の総量が失われないまま、ひとつの集団の強さの最大値が小さくなっていく」ことによって平和の実現に向かうと考えます。
そしてこの考え方においては、「対立が強すぎる場合」を問題視すると同時に、「対立が弱すぎる場合」も問題視することになります。
必要な「対立」がちゃんと起こっていなければ「豊かさ」が足りなくなってしまうので、「対立」が起こるべき場所で起こっていないなら、むしろ「対立」を強めようとする必要があります。
分断や対立というのは現代の常識的な感覚では良くないとされやすいものですが、企業同士がちゃんと対立していない場合は独占や寡占として問題視されるのと同様に、「国家制度・社会のルール」などに対しても、それと対立しようとする動きがまったく起こっていないのは問題と考えます。
この動画ではここまで、「世界平和の方法」という前置きにしては壮大な話をしてきたのですが、その意図としては、「対立」という「正しくないもの」を積極的に評価する視点を提示したいというのがありました。
そして、では「豊かさ」のためにこれから必要になり、それが十分に起こっていないことを問題視すべき「対立」の例は何かというと、ここではその筆頭として、「専門家と非専門家の対立」を挙げたいと思います。
以降では、このチャンネルにおいて「社会を豊かにするために必要な対立」と考えている「専門家と非専門家の対立」について論じていきます。
【「科学」は誰の味方だったのか?】
専門家と非専門家の対立
ここから、「専門家」と「非専門家」の「対立」について話します。
世間には「あらゆることには専門性があり全員が専門家」みたいな建前もありますが、ここで言う「専門家」は主に「社会的に有利な専門性を認められた高収入専門職」のことを指すものとします。
つまり、社会階層やメリトクラシーといった論点も含めた話をこれからしていきます。
平等が重視され身分制が否定される今の世の中においても、現実的には「相対的に上位のポジションの人」と「そうでない人」の社会的・制度的な差が存在しますが、それが許容される理由のひとつは、「優秀な人間を評価することが社会全体のメリットになる」と考えられているからです。
例えば優秀な人間が「医学」のような専門性を身につけそれが社会的に高く評価されることは、社会全体の便益に繋がると考えられています。
加えて今の社会は、実質的には序列があっても、各々がそれに納得しやすい形で均衡しています。
なぜなら現代の「優秀な人間」は「人をバカにしない」し「弱者を蔑ろにしない」からです。
学習塾などがたくさん建って人生の早い段階から競争が煽られやすいのが今の社会ですが、そのわりには「競争の勝者である上位層」が「勝者になれなかった中間層」を表立ってバカにするようなことは起こりにくいです。
それどころかむしろ、「社会を支える仕事をしているのだからもっとちゃんと評価されるべきだ」みたいなことがよく言われます。
過去動画で繰り返し述べてきたので詳しい説明は割愛しますが、このチャンネルの枠組みでは、「プラスの競争」と「マイナスの競争」の勝者が「分配の優先権を得やすい側」に行き、どちらの勝者でもない「中間層」が「分配のもとになる余剰を生産する仕事」を担いやすくなると見ています。
そして実はこれは、全員が納得しやすい形です。
「中間層」は、競争に勝てなくても「社会を支える重要な仕事をしているのにそれがちゃんと評価されていない立派で不遇な人たち」という評価になるのでわりと納得します。
「競争の勝者」は、努力して競争の勝者になった上で謙虚になりやすく、実際に重要な仕事をしている「中間層」に一定の敬意を払うし、「マイナスの競争の勝者」である「弱者」のことを慮ろうとするので、周囲から相対的上位のポジションを認められやすいです。
「マイナスの競争の勝者」も福祉や配慮という形で分配の優先権を得やすく、このようにしてわりと全員が納得して均衡している状態が今の社会です。
ただ、では何が問題なのかというと「実は豊かにならないこと」で、各々が納得しやすい代わりに、各自の努力が「分配のもとの余剰の生産」ではなく「分配の優先権を獲得する競争」のために消費されていくので、大勢が努力していながら全体としては苦しくなっていきます。
ここで言っているのは「競争の勝者」が不当なことをしているという話ではありません。
むしろ「競争の勝者」なのだからそうでない人よりも真面目に努力している場合が多いです。
しかし、例えばプロスポーツ選手は努力しているし成果を出しているものの、スポーツ自体は分配のもとの余剰を生産するわけではなく、社会の余剰を消費して行われる性質のものです。
そして競技ではない「仕事」においても、競争的な高度化が起こることで、その仕事が社会にとって消費的なものになってしまう部分があると見ています。
例えば、医療の進歩によってこれまで助からなかった人が助かるようになることは、もちろん素晴らしいことで、純粋に善いことが起こっているように感じるかもしれません。
医療は競技と違って実際に人の命を助けている点においてより否定しがたい正当性を持っているのですが、それでも、もしごく少数の寿命をほんの少し伸ばすための試みが、社会の継続に必要なリソースを削って行われているなら、それは「社会全体」の視点では消費的な性質のものになります。
ここではスポーツや医療の素晴らしさにケチをつけたいわけではなく、優秀な人間が善いものを目指して努力していても、まさにそのことによって全体が疲弊し継続の土台が失われていく構造があり、その問題を扱いたいと考えています。
今回の一連のシリーズで、以前「専門家を本当に信用できる?」というタイトルの動画を出したのですが、そこでは、専門家はまさに専門的であるからこそ「社会全体のリソースをその専門のためにどれだけ使っていいか?」を考慮できず、自分の専門に余剰をなるべく多く注ぎ込むように働きかけてしまう問題があることを説明してきました。
これは不手際や怠慢から生じる問題ではなく、専門家として真面目に努力することで起こる問題なので、「正しさ」はそれをうまく問題視することができません。
以降では、各々が努力して善いことを為そうとした結果、「個別最適」的な問題に「全体」のリソースが注ぎ込まれ、社会の「土台」が切り崩されてしまう「専門性」の問題について論じていきたいと思います。
医者はエッセンシャルワーカーか?
ここからは「専門家」の問題を論じるための具体例として「医療」の話をしたいのですが、前提として日本の医療は、クオリティの高さ、アクセスの良さ、GDPに占める医療費の低さのようなコストパフォーマンスなどにおいて、他国よりも優れたところが多いものだと考えています。
このようにうまく運用されている日本の医療を問題のあるものの例とするのは気が引ける部分もありますが、この動画では後でコロナ禍やワクチンの問題も扱うので、それとのつながりも考えて「医療」の問題を挙げることにします。
あくまでもここで問題視したいのは「医療」ではなく「専門性」の問題であり、ここから挙げる「医療」の問題は、「医者」以外の「専門家」に対しても当てはまるとした上で、具体例として「医療」を扱います。
そうやって断りを入れた上で、ここからはあえて「医者はエッセンシャルワーカーなのか?」という不穏な問いを投げかけたいと思います。
このチャンネルの過去動画では、競争の勝者ではない「中間層」が「社会を支える仕事(エッセンシャルワーク)」を担い、その仕事は「市場のルール」や「社会の相対的序列」や「公的分配の優先度」において高く評価されにくいという説明をしてきました。
対して、「いや医者はエッセンシャルワーカーだし所得も社会的地位も高いだろ」と思った人も多かったと思うので、まずそれについて説明します。
ここでは、今の医療従事者の仕事にケチをつけたい意図はなく、現実的に不可欠な役割を果たしていると見ているのですが、ただここで疑問視したいのは、「優秀な能力を持っているから社会にとって重要な仕事を担うことができる」という考え方の部分です。
例えば
「医者になるためには優秀な能力が必要」
「医療行為を行う資格は医者が持っている」
「医療は健康と安心のための不可欠な仕事」
というのがすべて「True」だと仮定しても、これらが繋がって「優秀な能力があるから社会に不可欠な仕事を担える」となるのはおかしいと考えます。
なぜなら、「重要な仕事を行える能力があること」と「現在の社会制度上それを行う資格を持っていること」は、必ずしもしっかり重なるわけではないからです。
そして、「不可欠な仕事を独占する権限」が「不可欠な仕事を担える優秀な人間だから価値がある」というメリトクラシー的正当性と繋がっているとしたら、そこには不当な部分があると考えます。
例えば、「医療の初歩的でエッセンシャルな部分」を担える最低限の能力は、現在の医者の資格を取得する能力よりはずっと低い可能性があります。
対して、「大勢に必要なものを提供する権限」が「高難易度資格」という形で独占された上で、それが社会に十分に提供されなくなっても対策が講じられない、あるいは今の段階からAI診療などの仕組みを充実させようとする動きが阻害されるのであれば、それは「専門家が不当なことをしている」と言うべきかもしれません。
ここでこのような話をする理由は、これから医療過疎や医療崩壊などの問題が起こると予想されていて、それに対して、「エッセンシャルな仕事(最低限必要な仕事)を行うための最低限の難易度」というものを改めて検討してみることも必要と考えるからです。
そのための仮定として、「もし今の日本にいる医者が全員急に消えたらどうなるか?」をまず考えてみることにします。
この仮定においては、インフラや流通や製薬は変わらず機能していて、看護師や薬剤師などはいるものとします。
医者がいなくなると、当然ながら大変なことになり助からない人が多く出ます。
ただ、医療水準が近代以前まで退行するようなことにはさすがにならないと思います。
ちょっとした怪我や病気がすぐに死に直結し、帝王切開などができずに出産が命がけになったり、感染症で膨大な数が死亡したり乳幼児死亡率が非常に高くなるような、医療が前近代の水準に退行するまでのことにはおそらくなりません。
なぜなら、「資格を持っている人」が消えることは専門知識や専門技能そのものが失われることを必ずしも意味しないからです。
「公衆衛生の概念」や「医療の教科書的な知識」や「科学的な考え方」そのものが失われるわけではないなら、緊急事態の対処のために迅速に法改正が行われ、看護師や薬剤師の職域が大きく拡張されたり、AIなどを使った医療の効率化や工業化が急ピッチで進められることになると思います。
ただそれでも、高度な治療はできなくなり、簡単な手術の成功率も下がって多くの命が失われるだろうし、その不安や混乱が各所に波及して多くの悲しみをもたらす未曾有の社会的危機になることは間違いないので、今の医者が重要な役割を担っていないという話ではもちろんありません。
しかし、仮に医者全員が急にいなくなるほどのことが起こったとしても、「近代化以前の医療水準に後戻りする」までのことにはならないだろうし、「社会の継続性が破綻する」ということにもならないだろうと考えています。
これは「正しくない」論点になりますが、医療の質が大きく下がっても「社会の継続性」という観点においてはマイナスどころかプラスになる可能性もあります。
例えば日本とアメリカを比較したときアメリカの医療のほうが酷い部分が多いですが、「社会の継続性」という観点においてアメリカが日本より絶望的な状況かというとそうも言えません。
もっとも、「医療の質が下がっても社会を回していく健康な人の多くは生き残るだろうから、高度医療はそんなにエッセンシャルでもない」ということを言い出すならば、極端な話、電気や水道や物流などですら「それがなくなった状況に適応できる人が生き残るだけなのでエッセンシャルではない」と言うこともできて、「そもそもエッセンシャルワークってなんだよ」という話になります。
「何が最低限必要なエッセンシャルな仕事なのか」は定義しだいですが、ここで提示しようとしている論点は、「社会」にとっては「普通の人が普通に行えること」が「土台」になるのではないかということです。
対して、「特別に優秀な人間でなければ行えないこと」は、まさにそうである点において「土台」になりにくいと考えます。
もし代替不可能な「特別に優秀な人間」が社会を支えているのだとして、その人が不調や事故や転職などによっていなくなったときに社会の土台が危うくなってしまうのだとしたら、それは「社会」としては脆弱であり望ましい状況とは言えません。
「社会全体」を考えたとき、社会の維持に不可欠な仕事であるほどむしろ、普通の人が普通に行える範囲のものである必要があります。
対して、今の社会における「個人」が有利になろうとするふるまいは、「社会にとってなくてはならないポジションに自分を入れようとすること」であり、各々は善意や野心によって「不可欠な個人」になることを目指すのですが、「社会全体」の側からすれば実はそれをされると迷惑な部分があり、この事情を当チャンネルでは「豊かさと正しさ(集団と個人)の相反」という形で説明してきました。
過去動画で「豊かさと正しさの相反」という形で説明してきた内容になりますが、「豊かさ」は「個人の納得感」に反する性質があると考えます。
例えば、「誰でも楽に運用できる仕組み」は、個人の感覚として何か間違っていて納得しがたいものに感じやすい一方で、実はそのようなものほど持続性があり、対して「優秀な人が苦労してギリギリ回している仕組み」は、素晴らしいことが行われているように感じやすいものの、実は持続性がありません。
例えばメディアの特集などで、外科医が不眠不休で患者の命を救っているみたいなドキュメンタリーがよくありますが、これは個人の感覚としては強い敬意を抱きやすいものだと思います。
ただ、「こういう人たちによって医療が支えられている」という考え方の是非について言えば、現段階において優秀な人がギリギリのハードワークで医療を回していることは、保険料を支払う現役世代がいずれ病気になったときにちゃんと治療してもらえることを保証するわけではなく、むしろ逆を意味するかもしれません。
ここでこういった話をする背景としては、日本の出生数は70年代のピーク時には200万人超えでその世代はまだ現役世代であるのに対して、2024年からは出生数が60万人台に入ったというあまりに急激な少子化が進んでいる事情があります。
「医療や福祉を受ける人」と「それを支える人」の割合が急激に悪化していくのは確定していて、普通に考えて現状でギリギリ回している仕組みがこれからも同じように維持できるとは思いにくいです。
このような状況に対して、先ほどは「もし医者が急に全員消えたらどうなるか?」という最低の地点を想定したのですが、「専門家がいなくなったゼロベースから、どこまでが可能で何を率先すべきか」を考えることもこれから必要になるのではないかという意図がありました。
しかし、「非専門家がゼロベースで質の低いことをやろうとする」というのは、近代的正当性には否定されやすく、例えば現代社会において、「低品質な医療」は許されていません。
仮に「今の正規の医者が行うと成功率が100%に近い施術」があるとして、対して、それが「成功率90%」に下がった「低品質な医療」を想定したとき、それは今の社会では絶対に許容されるものではなく、「10%の失敗」が出た場合は、医療行為どころではない加害行為として責任を問われることになります。
これが近代社会のルールですが、とはいえ、もし医療崩壊が極端に進んで「0%(治療されない)」が生じやすくなっていくならば、「90%の医療」が近くにあったほうが安心できると考える人が増えていくはずです。
医療過疎や医療崩壊が迫っている状況において、AIなどを使って低コストで提供可能な「90%の医療」の開発をしようとすることは、多くの市民が望んでいることかもしれないし、少なくとも「ない」よりは「(低品質な医療でも)ある」ほうがマシなはずです。
一方で、AI診療などが進むことは、「医者」というポジションを手に入れた専門家の側からすると自分の優位性が失われるので歓迎しにくいものになり、さらに現状では「質の低い医療行為を行って人の命を危険に晒してはならない」という強力な近代的正当性を専門家の側が持っています。
以上の論点を踏まえた上で、ここでは、先にも述べましたが「非専門家と専門家の対立」が必要と考えます。
専門家に頼らずに特定の専門技能を運用しようとする「非専門家」側と、自分たちの権限を守ろうとする「専門家」側との間にちゃんと「対立」が生じていることが、これからの社会に必要な「豊かさ」の評価に繋がるという考え方をしています。
「今より後を楽にする方法」
少し視点を変えて、「今より後を楽にする方法」が必要という話をしたいと思います。
もし、人類の知識や技術や制度などが「後の世代の人たちをより楽にする形」で積み上がっていくのであれば、少子化が進んでいるからといって必ずしもゼロサム的に状況が苦しくなり続けていくとは限りません。
医療の効率化や自動化が進めば医療崩壊を防げるかもしれないように、「今より後を楽にする方法」を積み上げていくことがこれからの社会の様々な問題解決のために必要というのは、基本的には多くの人に同意されやすい話だと思っています。
まず、ここでは便宜的に、「今より後を楽にする方法」を、「必要なものの生産を効率的かつ完結的に行う方法」であると定義してみます。
「必要なもの」というのは、これを厳密に定めることは今回の趣旨ではないので省略しますが、とりあえず生活インフラや食料や医療などをイメージしてほしいです。
「効率的」というのは、「必要なもの」をより少ないコストで生産できたほうがいいということで、これは説明不要だと思います。
最後に「完結的」についてですが、これに関しては常用とはやや違う言葉の使い方をしています。
ここでは、「希少なものに頼らない」ほど「完結的」であると考えます。
現代社会ではグローバルな交易・世界規模の専門的分業によって生産が行われていますが、そのネットワークから切り離された「ローカル」でも運用しやすいほど「完結性が高い」と考えます。
極端に言えば、文明が崩壊し外界と遮断されたとして、そこに残された平均的な能力の人たちでも運用可能なシステムであるほど「完結性が高い」ことになり、逆に、特定の資源や特定の才能や特定の訓練を積んだ人など希少なものに頼る度合いが大きいほど「完結性が低い」ことになります。
この「完結性」という見方において、何らかの仕組みは、優秀でない人でも運用できるほど・また同じ人でもより少ない学習量で運用できるほど「完結性」が高くなります。
つまり、「専門家」が揃わないと使えない仕組みは「完結性」が低く、素人集団でも使えるなら「完結性」が高いと考えます。
なおこの場合、「優秀な人間」と「AI」はどちらが「完結性が高い(希少性が低い)」のか……みたいな議論も生じると思います。
AIがコモディティ化した社会ではAIの希少性は低いのに対して、優秀な人間は文明が崩壊した後でもコミュニティに一定数生まれてくるという点で希少性の低さがあります。
このような議論はあるかもしれませんが、ここでは文明が崩壊した状況の想定まではせず、基本的にはこれから少子化が進んでAIがコモディティ化していくだろうという前提で話します。
つまり、「優秀な人間」よりも「AI」のほうが希少性が低く(完結性が高く)なりやすいと考えます。
このように考えるとして、「完結性の高さ」は、これから次世代の人口が大幅に減っていき社会の継続性が危ぶまれるなかで無視すべきでない評価軸であり、また、心理的安全性や発展可能性などの観点においても重視する理由があります。
ゆえにここでは、「今より後を楽にする方法」の定義に「完結性」を組み込んで、「必要なものの生産を効率的かつ完結的に行う方法」を整備して後世に引き継ごうとすべきとしています。
ただそのように定義した上で、「効率性」と「完結性」の関係を見たとき、今の社会において両者はトレードオフになりやすいと言えます。
例えば「自給自足」というのは「完結性」が高い一方で「効率性」は低くなります。
今の社会の「豊かさ」の根幹には「専門的分業」があり、つまり「完結性」を低くする分業によって「効率性」を高めているのが現代社会のメインシステムです。
人が人生において何かに注ぎ込める時間が限られている以上、各々が専門に特化した後で成果を交換し合う「専門的分業」は、今の社会の「豊かさ」にとって不可欠なものです。
「専門的分業システム」に「豊かさ」の多くを頼っている現代社会は、「完結性が低い状態で完成している」とも言えるかもしれません。
ここでは「完結性」の低さを問題視するのですが、ただ、まず主張したいのは、今の日本のような社会は、間違っているわけではなく、むしろ非常に良くできていると考えています。
例えば、専門家が提供する「日本の標準医療」は質が高くコストパフォーマンスに優れたものだし、他にも、巨大な建造物が建ち並んでいて、交通が整理されていて、電車や新幹線が時間通り来て、スーパーやコンビニに行けば色んな商品が売っていて、通貨を信用してやり取りすることができて、スマホであらゆる情報にアクセスできて、SNSでは大勢が罵り合っているのに実際の暴力や殺人はそんなに起きていない……などなど、改めて考えると本当にすごいことが達成されています。
当たり前になっているから特段意識されなくとも、様々な人たちが少しでも状況を良くしようとしてきたことの集積として今の社会があり、それはちゃんと考えれば考えるほど良くできている部分があります。
しかし、問題は「社会の継続性」で、年間200万人以上が生まれていた時期の人たちがまだ現役なのに、今生まれている子どもは年間60万人台で、これからもっと少なくなろうとしています。
「継続性」以外は今の社会に対してそれほど文句をつけるつもりはないにしても、「社会の継続が危ぶまれていること」は当然ながら極めて重大な問題で、また将来不安という形で現時点の苦しみを大きくしていくものでもあり、それを何とかしようとする必要があるという前提で今回の話を進めていきます。
その前提の上で、「専門的分業システムの効率性」と「専門家に頼らなくても機能するシステムの完結性」のトレードオフにおいて、「完結性」のほうを重視する考え方も必要なのではないか……というのがここでの主張です。
今の社会の「専門的分業システム」は「完結性の低い状態で完成」していて優れた実績があるものなので、「専門家」と「非専門家」のジャンプがあまりにも大きくなっていて、「完結性」を重視しようとして非専門家が専門家の領域に口出ししても、「素人が何を言っているんだ」というようにバカげたことに思われやすいです。
しかしそうなることを加味した上でも、「完結性」は「社会の継続性」において重要な要素であり、その点において現代社会のメインシステムである「専門的分業システム」を疑う理由はあります。
「専門的分業システム」の問題として、まず、大規模分業が前提の社会ゆえに、人生の早い段階から相対的に有利なポジションを得るための競争が始まり、「医者」などはその有利なポジションの典型と言えると思います。
そして、競争に勝って有利なポジションを手に入れた側が社会の「完結性」を高める方針に手を貸しやすいかというと、基本的には競争に勝って手に入れた特権は手放されにくく、加えて先に述べたように、各々の努力は社会にとって不可欠な個人になることを目指す(より完結性を低くする)方向に向かうので、「完結性」という本来ならばもっと重視すべきものが否定されていくことになります。
どういうことが起こっているのかを図式的に説明しようとするなら、まず、現状の「専門的分業システム」は、国家規模の大規模分業を前提とした「完結性の低い状態で完成」していて、それが成功した仕組みだからこそ「完結性が低い状態」から動かしにくくなっています。
その上で、後の世代のことなどを考えて本来ならば「完結性を高める」方向に向かわなければならないのに、各々の個人としての努力が「さらに完結性を低くする」方向に向かっていくので、「社会の継続性」という問題は悪化し続けていきます。
では、このような問題をどうやって解決すべきと考えているかというと、「高度な専門性を前提としない完結性が高い状態」という制約を設けた「別系統の技術発展ルート」みたいなものを想定して、それを現状の専門的分業システムと対立させる……というやり方をします。
まず、最初は効率や質が低くても構わないので、「ローカルでもある程度は機能する、低品質だが完結性のある社会」を無理矢理にでも作ろうとします。
過去動画で「低品質だが完結性のある社会」について言及しましたが、特別な人材などを必要とせずローカルでもそれなりに機能する「完結性の高い状態」からスタートして、そのクオリティを少しずつ上げていこうとするような動きを、現状の「専門的分業システム」と対立させる形で置きます。
大規模分業が前提の「国家」という枠組みの内側に「ローカルでも完結的に動く共同体」を置こうとするのですが、これは先の世界平和の話でも述べた、「内側から国家と対立する、独立した供給力を持つローカルコミュニティ」とも関連してくる話になります。
もちろん現時点で「ローカルコミュニティの自給自足」がまともに機能するわけがないのですが、今の社会で専門家がやっているような仕事を「基準・お手本」にした上で、「完結性の高い状態(専門家に多くを頼らない状態)」から、同程度のことができるようになることを目指します。
「今より後を楽にする方法」を素朴にイメージしてみるならばそれは、AIなどのテクノロジーの力を借りて「今の専門家がやっている仕事と同水準かそれ以上のことを、専門家ではない素人でも楽に行えるようにするイノベーション」というものになり、実際にそれが可能かどうかはともかく、それを目指すことは供給力の向上をもたらす可能性があり、そうした供給力の向上はこれからの社会が必要とするものだと思っています。
ただ、将来の日本のために「今より後を楽にする方法」が必要だと理屈ではわかっていても、「専門家」が有利なポジションを自主的に切り崩してまでそれに協力するとは限りません。
ゆえに「対立」が必要と考えていて、「ローカルでも完結的に運用可能なシステムを良しとする非専門家の側」と「自分の専門性による有利を守ろうとする専門家の側」との「対立」が生じることが、「今より後を楽にする方法」が意識される契機になると考えます。
たとえ低品質であっても「完結的なローカル」を重視する理由として、先に述べたように現状の分業システムが「完結性の低い状態で完成」していて、さらに「完結性をより低くする分業の細分化が肯定されやすい」のに対して、極端に「完結的」な地点を置いてみて「対立」を起こすことで、社会の関心を「完結性」の側に向けようとする狙いもあります。
最終的には「今より後を楽にする方法(必要なものの生産を効率的かつ完結的に行う方法)」が後の世代に残ればいいと考えるのですが、現状の社会の延長ではそれがあまり進まないだろうという問題意識から、「非専門家と専門家の対立」によって「完結性」に目を向けようとする……という考え方をします。
正しいから豊かになると考える倒錯
今の社会では、「完結性を低くすること(細分化を進めること)を肯定するイデオロギー」が影響力を持っていると見ています。
例えば、学術研究を進めると扱う対象が細かくなっていきやすいのですが、一方で、そのような研究を進めていった先にどこかで社会を大きく変えるイノベーションが起こる……みたいな期待がされている部分もあるように思います。
つまり現在の「科学」の延長に大勢が望む成果があると考えられがちで、「今までは専門家に頼らなければならなかったことを素人でもできるようにする供給力の向上をもたらすイノベーション」なども、それが望まれているし、科学者はそれを実現するための努力や競争をしているので、ゆえに研究を支援することが大事……という立て付けになっているかもしれません。
しかしながら、これは今回の一連のシリーズで「科学」の問題を扱う際に説明してきたことなので詳細な理屈の説明は割愛しますが、「学術研究のルール」においては基本的に「細分化を進める」ほうが成果を出しやすく、「完結性」を高めるようなイノベーションは起こりにくいと考えています。
「研究者」というのは自分の興味関心に公金が使われる社会的に有利なポジションで、そのポジションを争う「競争」が起こっているのですが、競争のルールにおいて実質的に「細分化」を過剰に進めるインセンティブがあります。
「多くの人が直面している問題の根本的な解決に寄与すること」と「何らかの対象を細かくして自分の専門性を主張すること」とで、どちらの難易度が低いかというと後者であり、「新規性」を評価する「学術研究のルール」で「競争」が起こっているとき、前者を目指すよりも後者で成果を出そうとしたほうが勝ちやすくなります。
そのため科学・学術研究の場においては、「本質的な問題に取り組むこと」よりも「自分が有利になるための細分化」が重視され、普通ならそのようなことがされている場は支持を得られなくなっていくはずですが、「正しいから豊かになると考える倒錯」によって「細分化」が肯定されやすくなっている事情については、このチャンネルのこれまでの動画で繰り返し説明してきました。
なぜ「個人が相対的に有利なポジションを得るために進める細分化」が「社会全体のためになる」と考えられる倒錯が起こるかというと、「最小と最大が接続」しているのが「正しさ」だからで、すでに過去動画で説明した内容はここでは割愛しますが、今回は「専門性」において「正しさ」がどのように「倒錯」をもたらすかを話します。
ここではまず、「社会にまったく専門性がない状態(全員が素人である場合)」を「最大もしくは最小の片方の極」とし、また、「ひとりひとりが自分だけのまったくオリジナルな専門性を持っている場合(全員が個別の専門家である場合)」を「もう片方の極」として、この「両極端」を「正しさ」であるとします。
「全員が素人」と「全員が専門家」の極端な場合を「最大と最小(正しさ)」であると見ているということです。
対して、「専門性」はその「中間」である場合にパフォーマンスを発揮する(豊かさにつながる)と考えます。
つまり、「全員が素人」と「全員が専門家」の「中間」であることで、「専門性」が「豊かさ」になると考えるのですが、しかし今の社会では「専門的分業が細かくなればなるほど(極端に向かうほど)豊かになる」と考えるような「倒錯」が起こりやすいと見ています。
たしかに過去から現代までの経緯を見れば、「片方の極」から「中間」に向かうような専門の細分化によって「専門的分業」が機能し社会が豊かになっていったのですが、だからといって細分化すればするほど良いわけではなく、「中間」から「もう片方の極」に向かうような細分化が進むと今度は「豊かさ」から遠ざかっていくことになります。
そもそも、「細かくなればなるほど豊かになる」というのは非現実的で、細分化が進んで「共有できるもの」が失われるほど、調整や交渉や事務や管理などのコストが膨らんでいきます。
「分業によって減らせるコスト」と「細分化によって生じるコスト」の合計が最小になる地点を考えるならば、それは「細分化の度合い」が「最小」でも「最大」でもない「中間」にあるはずで、その「中間」をここでは「豊かさ」であるとしています。
なお、これはこの動画内で後に説明するつもりですが、専門が細分化すると「パフォーマンス」だけでなく「信頼性」も低下していき、専門が「人それぞれ」に向かうほど、間違いや不正を指摘することが難しくなっていきます。
つまり、「中間」から遠ざかって「片方の極」に進むと、パフォーマンスも信頼性も低下していくと考えるのが自然ですが、「正しいから豊かになるという倒錯」によって細分化の問題が考慮されにくくなっているというのが、このチャンネルで繰り返し主張してきたことです。
また、これも過去動画で説明してきた内容ですが、細分化の問題は「学術的専門性」において顕著に起こると見ています。
「職業的専門性」の場合は、まだ現実的な需要のある仕事を行っていて同じ専門家同士で基準が共有されやすいのに対して、「学術的専門性」であるほど歯止めが効かずに細分化が進んでいきます。
先に、「片方の極」から「中間」に向かうと「豊かさ」が強まるがそこから「もう片方の極」に向かうと「豊かさ」が失われる、と述べましたが、現在は、「科学がこれまで社会を豊かにしてきたのだから、これからも科学が重要である」という考えのもと、「中間」から「極端」に向かうような細分化された先端研究に公的資金が投入されやすいです。
しかしそれが「社会の継続性」にかかわる喫緊の課題の解決に繋がるかは疑問です。
多くの市民が「科学」に期待しているのは、「今より後を楽にする方法の開発」や「生活の不安や社会の継続性の問題を解決してくれる供給力の向上をもたらすイノベーション」だと思います。
対して現在の「科学」の場においてそれが重視されているかというと、「すぐに役に立ちそうな研究」ではなく、「すぐには役に立たないが人類が抱える普遍的な問題を解決する可能性のある研究」が肯定されやすいです。
「不確実性に挑んでフロンティアを切り拓こうとする先端研究」みたいな言い方をすると聞こえはいいですが、「生活の苦しさや将来の不安などの問題に対する突破口を見つける」みたいな市民が求めることをせず、あるいは科学の重視によってそれが進んでいくだろうという期待を利用しながら、実のところは、細分化して相互チェックも形骸化した場所で、一部の人たちの自己実現のようなことに公的資金が使われやすくなっています。
もっともこれも、誰かが極端に不当なことをしていると言いたいわけでもなく、「正しさの倒錯」によって起こるものだと考えています。
過去動画で説明した内容になりますが、なぜ「最大と最小が接続する正しさ」において、「中長期的な社会の継続に関わる問題に取り組むこと」よりも「細分化された個人の研究」が重視されやすくなるのかというと、「普遍的な成果」を志向すると「無限の時間」が想定されるからです。
場所や時間によらない普遍的な成果を追求する近代科学においては「無限の時間」が想定され、「時間が有限」ならば現実的な優先順位をつける必要があるのに対して、「時間が無限」ならば何でも好きなことをしてよく、細分化によるコストの増加も無視して、どれだけ細かい問題に取り組んでもいいことになります。
つまり近代科学は、「普遍性を志向する」ことで「非現実的に超長期的な無限の時間(最大)」を想定し、それは、「現実的な中長期的スパンで必要な仕事(中間)」を否定して、「細分化のコストを考慮しない目の前の個別の問題(最小)」と接続されることになります。
先に、「中間」から「片方の極」に向かう細分化によって調整や交渉や事務や管理などのコストが膨らんでいくと述べましたが、それが「場所や時間によらない普遍性(最大)」と接続することで、「時間が無限だからコストを考慮する必要もなくなる」ようにして「最小に向かう細分化(最小)」が肯定されやすくなります。
これが「最大と最小の接続」による「正しいから豊かになると考える倒錯」です。
しかしながら、現実的な研究のためのリソースを出し科学の土台になっている「国家」や「共同体」はもちろん有限であり、しかも中長期的な課題に取り組まなければ存続が危ぶまれる状況にいます。
対して現在のアカデミアは、「科学は中長期的な課題の解決を目指してくれるだろう」という世間一般の期待からリソースを引っ張っておきながら、それを一部の人たちの「個別の問題」に使って公的な土台を消費する場になっています。
そこには世間的な信用と実態とのギャップがあり、本当に民主的な同意があるのか疑わしく、倒錯によってそうなるのでそこまでの悪意はないにしても、詐称的なことが行われている部分があると見ています。
「国民の役に立つ」から「科学」への支援が正当化される
この議論の最初のほうで述べたことですが、なぜ平等が重視される今の社会で相対的に有利な立場・特権的な立場が認められているのかというと、優秀な人たちが社会全体に恩恵をもたらすと思われているから……つまり「役に立つ」という期待があるからです。
そのような「科学が問題を解決するので大学や研究機関を支援すべき」という信用に対して、そうやって支援を引き出しながら実はそれほど役割を果たそうとするわけでもなく、過去の社会が蓄積した信用を切り崩しているのが今のアカデミアだと考えています。
近代社会においては「個人の自由や権利の保障」や「能力や興味関心の尊重」が重視され、もちろんそれらは重要なことなのですが、しかしそのことが学術研究への公的支援を正当化するかというと、実はそうは言えない部分があります。
研究に対する公的支援は、「優秀な人間は国家の役に立つから支援すべき」という「ナショナリズム」ならばそれが可能でも、「優秀な人間だから支援すべき」という「メリトクラシー」は実は正当性を持ちません。
なぜなら、「ナショナリズム」のような集団主義的な要素がなくなった場合は例えば、「優秀な人間ならば自分で稼いで資金を用意するなり、同じように優秀な人たちから理解を集めて寄付を募るなりするべきで、ただでさえ高学歴などの形で有利なのに、その上で市民から取った税金で活動しようとするのは不当」となります。
また「学問の自由や権利」も公的支援の正当性には実はならず、むしろ自由や権利が重視されるならば、特定の場所に対する支援は否定されやすいです。
現在の大学や学者は「選択と集中」を否定して、「政府や官僚は選択と集中を求めるが、それは当たりの出る宝くじだけを買えみたいなバカな話で研究のことを何もわかっていない」……みたいなことを言いがちですが、しかし「何が当たるかわからない」という理由で「選択と集中」が否定されるなら「大学という選択と集中の場所」も否定されることになります。
「何が当たるかわからない」のならば、大学の外にいる市井の人たちの興味関心の追究や探究が重要な発見に繋がる可能性も当然あるわけで、その人たちからリソースを徴収して大学など特定の場所に「選択と集中」する道理はなくなります。
つまり、「優秀な人間の支援」も「学問の自由や権利」も大学への公的支援の根拠にはならず、実は「土台」になりうるのは「優秀な人間は国家の役に立つから支援すべき」という「ナショナリズム」です。
ちなみに、「普遍的な科学の発展への貢献」という「グローバル」な性質のものも「ナショナリズム」が土台になっていて、例えば、基礎研究への公的リソースの投入は「日本人の科学者が成果を出すことが日本人全員にとって嬉しいことだから」という幻想によって成立しています。
対して、日本人がノーベル賞などを取っても「日本人がすごいのではなくその研究者がスゴいだけ」という感覚になるほど、無関係な人間の自己実現のために公金が使われることに同意する理由が大衆にはなくなっていきます。
以上のような事情がある上で、しかし知ってのとおりアカデミアは「ナショナリズム」に否定的な価値観を強めているような場所で、「正しさの倒錯」や制度の惰性から支援を引き出しながら、公的な信用の土台を切り崩していることになります。
このように「正しさ」が強まることには問題があると見ているのですが、一方で、では「豊かさ」を強めるべきかというとそれも問題があり、例えば研究において「豊かさ」を強めるというのは、公的な研究機関に自由な研究をさせずインフラ整備の効率化など直近の問題解決に繋がりそうな課題を強制するみたいな、「これはこれでどうなんだ」というものになりやすいです。
このような事情を当チャンネルでは「豊かさと正しさの相反」と説明していて、加害的な「豊かさ」と消費的な「正しさ」とを、どちらが善いものであるともしていません。
ただ両者のバランスを考えるとして、現状は「正しいから豊かになると考える倒錯」によって「正しさ」の側が過剰に影響力を持っていると見ています。
例えば、フロンティアを開拓しようとする「先端研究」が「これからの日本の課題の解決のために必要」みたいな形で推進されるのはさすがにおかしく、たしかに個別の研究成果に着目すれば希望を抱けそうなものもあるかもしれませんが、全体として見れば、追い詰められた貧窮者が宝くじを買おうとしているような愚かしさがあります。
同じリソースを生活インフラなど地道な課題に集中させれば状況がマシになっていたかもしれないのに、「予想もできなかったことが起こるかもしれないし過去の科学はそれをしてきた」みたいな考えで細分化していく先端研究に希望が託されるというのは、近代的理念の観点からはともかく、現実的な問題解決の方法として合理的な期待値のあるものとは言えないと思います。
このような状況は研究者としてすでにポジションを得た人たちにとっては都合がいいのかもしれませんが、社会全体にとっては詐称的で収奪的なことが行われています。
偉い学者の先生が「科学はすぐに役に立つことではなく、人類の未来に貢献するものを目指すべきなんだ」みたいなことを言ってそれに拍手が送られたりするのに対して、その手の主張には社会を維持するための仕事への無関心があり、「貴族が学問を進める」というのは今も昔もそうなのかもしれませんが、しかし現在が近代的で民主的な社会であるからこそむしろ、今の科学の場で行われていることの是非を問い直す自由と権利を各々が持っているとも思います。
「正しさ」の過剰によって「正しさ」が失われてしまう
このチャンネルの過去動画や今回の一連のシリーズでは、「正しさの過剰によって正しさが失われてしまう」ことについて繰り返し説明してきました。
「正しさに反するもの(豊かさ)」が「正しさ」の土台になっている→「正しさ」が強まることで土台が弱くなる→土台が失われてもとからあった「正しさ」も成り立たなくなる……という形で、「正しさ」が過剰になるとやがて「正しさ」が失われます。
これが顕著な場所がアカデミアであり、今の大学はある部分では、宗教改革前の教会のような、もともとあった理念を裏切って大衆からの支持を失っていく場所になりつつあります。
例えば「学力競争」のようなメリトクラシーは、もともとは伝統社会の身分制度に対抗する形で正当性を得てきました。
能力があっても役職に就くことが許されなかったような伝統的な社会においては、実力を重視するメリトクラシー的正当性が、近代的な個人の自由や権利を意識させるものとして働くことが多かったかもしれません。
しかし現在は、もはや教育資源の制約がそれほどあるわけでもなく入口を絞る合理性もないのに、「選別」のための競争が過剰で、今の大学という場所の主な関心が「選別」になっていることは否定しがたいと思います。
そして、かつては「お前なんかが勉強しても無駄だ」と言いたがったのは伝統社会の側だったかもしれませんが、今の時代にそれを言いたがる場所は主に学校や大学であり、「この段階でこの程度の学歴の人間は何らかの知的な試みを行うのに相応しくない」というようなメッセージは、今の学生が普通に生きていれば受け取ってしまうものではあります。
これは、一周回って人権を軽視する発言をしてしまうリベラルとか、保守的な主張に回帰してしまうフェミニストなどと似たような構図で、「正しさ」が特に重視されるはずの場所だからこそ、むしろ「正しさ」が失われたようなことが起こりやすくなっています。
伝統社会の影響力が強く「豊かさ」が過剰だったときは「正しさ」を強めることに正当性があったと思いますが、「正しさ」が過剰な状態でさらに「正しさ」を強めようとすると、「土台」が成立しなくなり、もともとあった「正しさ」すら失われていくようなことが起こります。
一方で、「正しさ」の過剰を問題視することの難しさについても過去動画で繰り返し説明してきました。
例えば、学歴社会に問題があるからといって高い成績を取らなければ当人が不利になりやすいように、「競争」が影響力を持つ状況において、それがおかしなものだったとしても個人としては競争に勝とうとしなければ多くを失います。
そういった構造の上で、「正しさ」は疑うのが難しい特徴をいくつも持っています。
過去動画で説明した内容ですが、「正しさ」の構造に守られるアカデミアのような場所は、「優秀な専門家のやることは専門家にしかわからない」という「メリトクラシー」と、「学問の自由が保障されるべき」という「政治的正しさ」といった、「プラスとマイナスの競争」の両方の優位を持っているので、腐敗したふるまいが咎められにくい場所になっています。
この動画では以降でコロナ禍やワクチンなどとも関連する科学的権威の問題にも踏み込むつもりですが、現在の「科学」は一般大衆にとって、実質的に疑うことや検証することが許されないものになっている面があります。
大衆がアカデミアを疑いにくい理由として、何だかんだでアカデミアは近代的正当性において有利な立場を占めやすい場所だと見ています。
例えば、「国立大学ですら設備がこんなにボロいところもあり、国家や政治権力がいかに学問を軽視しているかがわかるよね……」みたいな言説が大学人などに好んで共有されやすいかもしれませんが、そういったものも「マイナスの競争」の範疇で、そのようにして被害性や弱者性が強調される一方、自分たちの側の有利な部分や不当な部分に言及されることは少ないです。
アカデミアが持つ実質的な権力は強い部分もあって、例えば政治家は選挙で民主的なふるいにかけられるし、経営者ならば市場に評価されるのに対して、学者に対しては市民がその公的支援の是非を民主的に審議するルートが今の社会にほとんど存在しません。
もちろん市民の多数決に研究者の待遇が左右されるのは危険であり、ゆえに「学者の言論の自由を強く守ろうとする」のが近代社会なのですが、だからこそ無敵のポジションが生まれやすいことになります。
また、よく言われる「企業と大学を比べて大学側の給料がこんなに低い」みたいな話もフェアではない部分があり、例えば企業で働いている場合は自分の仕事の成果が会社のものになりやすい一方で、学者は業績が自分に紐づきやすく、勤務しながら著作を出したりメディアに出ることも比較的しやすいので、そのような諸々を考えたときに給与面だけを見て不利ということも一概には言えません。
このようにして今のアカデミアは、「自分たちが受けている恩恵には触れず、いかに自分たちが不遇かを主張しながら、他の場所で行われている不公正については糾弾したがる」みたいなふるまいが躊躇われにくい場所になっていて、それをここでは、「正しさ」が特に重視される場所だからこそ「正しさ」が失われていきやすい……という見方をしています。
さらに、これも過去動画で説明した内容になりますが、現在の「学術的専門性」の問題は間違いや不正が指摘されなくなっていることだと見ています。
「職業的専門家」の場合は、まだ「専門家同士で共有できる同質的な部分」が残りやすく、例えば「医者」であれば「これは医療ミスだろう」と他の医者もわかることが多いだろうし、「警察」のような組織で同じ警察官が不正に関わっていたら、職業倫理上さすがに問題視されるだろうと思います。
それが問題視されなくなった状態が一般に「腐敗」と言われるものです。
「職業的専門性」でも「正しさ」による同質的な部分の解体は進んでいるのですが、程度問題としては「学術的専門性」よりは進みにくいと考えます。
対して「学術的専門家」の場合は、専門分野の細分化がより進みやすく、専門家同士で共有できるものが少なくなっていくほど、他の研究者の間違いや不正をチェックすることが難しくなっていきます。
ちなみに、「研究」と違って「ビジネス」は意外と「細分化」が進みにくいところがあり、なぜならビジネスは成功して大規模になるほど消費者やステークホルダーが増えて多くの人にチェックされやすくなるからです。
一方で学術研究は、細分化・高度化が進むほど理解できる人が少なくなっていきやすく、しかもそれが「少数しか理解していないこと・少数しか関心を持っていないことだからこそ素晴らしい」みたいに近代のイデオロギーに肯定されるので、問題があっても他人がチェックしにくくなっていきます。
これも過去動画で説明した内容ですが、「最大と最小が接続した正しさ」による学術研究の歪みは例えば、「グローバルに通用する普遍的な研究成果」が「専門が細分化したごく少数の人たち」によって評価されるという構造において起こっています。
「最大」に接続された普遍的成果を、「最小」に近いごく少数の人たちが判定する権限を持っているという、他のどのような場所でも起こりえないほどの権力勾配が、「中間の土台」が失われていく社会において、まさに「ハラスメントを世の中からなくしていきましょう」みたいなことを言いたがる近代的理念が特に重視される場所だからこそ生じる……といった皮肉めいた構造があります。
そして、「伝統社会の閉鎖性」は「近代的価値観」に厳しくチェックされやすいのに対して、「近代的価値観から生じた閉鎖性」は「チェックする側の問題はチェックされない」ように盲点になりやすいです。
近代社会には「伝統社会の問題に対処するための道具」は充実していても、「近代社会(自分自身)の問題に対処するための道具」は乏しいという問題があり、こういった問題をこのチャンネルでは「豊かさと正しさの相反」という見方で扱おうとしています。
相互不可侵を固め合う専門性カルテル
ここまで専門性やアカデミアの話をしてきた意図として、「事実の検証がちゃんと行われるのか?」という問題意識があり、「客観的な事実の検証」は近代社会にとって不可欠なものですが、それが信用できなくなっていくとどうなるかという問題は、今回の一連のシリーズでずっと扱ってきたテーマです。
この動画では後でコロナ禍の問題も論じますが、社会が「専門家」を重視する理由のひとつとして、何らかの有事の際などには「客観的な事実の検証」が必要というのがあり、しかし、重要な局面でその役割が果たされる仕組みになっているのか……という論点をこれから扱います。
「正しさ」自体は「客観的な事実の検証」を重視するものでも、「正しさの過剰によって正しさが失われてしまう」と先に述べたように、土台になる「豊かさ」が失われると事実を検証することも難しくなります。
この場合の「土台」というのは例えば、「自分にとって都合の悪い事実でも、それが事実であるならば認めなければならない」という「モラル」なのですが、「ポストを得るための競争」や「共有できるものが失われる細分化」が強まるほど、自分に都合の良いデータで成果を主張する不正研究が起こりやすくなり、さらにその不正が他の研究者から指摘されにくくなります。
科学の相互チェックはおそらく一般に思われているよりは機能しておらず、例えば小保方晴子さんのSTAP細胞の問題は、メディアで大注目されたことでちゃんと検証され、他の不正も見つかって博士号の取り消しなどがされたのですが、逆に言えばそれまではコピペを含む研究で博士号を取ってポストを得ていたわけで、STAP細胞で変に目立たなければ今も研究者のキャリアを続けていた可能性が高いです。
また、東大などで贈収賄をした教授が逮捕されて注目された事例は、贈収賄というわかりやすく足がつく刑事事件で、関係者が勇気を出して告発したから表面化したのですが、そうなる場合はおそらく例外で、「細分化された領域で一部の人たちが相互に研究を評価し合う」みたいなことがされていて、しかもその人たちが権威を持っていた場合、それを外から問題視することは非常に難しくなります。
さらに、自然科学の再現実験をしやすい分野であれば、STAP細胞がそうだったように再現性を確認できなければ間違いや不正とされますが、実験で再現性を確認できるわけでもない人文系の場合、どれだけ変なことがされていても「専門の違うお前に何がわかるんだ」と言われれば他人が問題を指摘できなくなります。
以上のようなポジションの問題は、「正しさ」がもたらす「細分化」と「競争」の結果として起こると見ています。
そして、近代的な思考様式の影響が強い今の社会では、「細分化すること」も「競争すること」も、基本的には「善いこと」と見なされやすいと思います。
例えば「細分化」が肯定される例として、今の社会では、「他の多くの人が興味を持たない珍しいものに関心があること」が好ましく思われやすく、対して、「それが何の役に立つの?」という疑問を呈するような人間は、もはや今は迂闊にそんなことを言う人のほうが珍しくなっていてもなお、安直なフィクションの悪役のような仮想敵にされがちで、その手の価値観がSNSなどで共有されるときは往々にして、政府や官僚がそのような「多様な可能性を否定してすぐに役に立つものを求める無能」の役にされます。
これが今の社会で影響力を持ちやすい価値観なのですが、しかしそうやって「役に立つ」ことを否定して、「それぞれ個別の興味関心や専門性を尊重し合うことが大事ですね」みたいなことを互いに言い合うふるまいは、一定のポジションを持つ人たちがやっているならば、むしろそれこそが腐敗したふるまいなのではないか、という疑問を投げかけたいとここでは思っています。
学者などのポジションを得た専門家同士が「それぞれの専門性を尊重することが大事」と言って相互不可侵を固め合う「専門性カルテル」のようなやり方は、今の価値観に肯定されやすいものである一方で、その社会的正当性をよく考えればけっこう不当なことが行われています。
すでにポジションを手に入れた人からすれば、専門の細分化が進んで自分の仕事を他人が評価できなくなったほうが都合がいいのですが、それは社会全体としては間違いや不正が検知されない問題のある状態です。
そして先に述べたように、科学への投資は「国民の役に立つから」という前提で国民から徴収したリソースで行われていて、であるにもかかわらず「役に立つこと」が否定され、さらに「客観的な事実の検証」という学者が最低限担わなければならない仕事も「互いに相互不可侵を固め合う専門性カルテル」によって実は形骸化しているわけで、今の価値観が相対化された後で少し冷静な見方がされれば、「腐敗したことが行われていた」という評価になると思います。
もっともここではそれを、「正しさの過剰によって正しさが失われてしまう」という構造的に起こる問題だと考えていて、特定の人間の悪意や怠慢が原因という見方はしていません。
日本の学者や大学に特に問題があると言いたいわけでもなく、どこの国でも似たようなことが起こっているだろうと見ています。
さらに言うなら、もし仮に、科学者全員のモラルが高く一切の「不正研究」が起こらなかったとしても、「細分化」と「競争」によって「客観的な事実の検証」が難しくなっていっただろうと考えています。
なぜなら、専門家になるためには「自分の専門に肩入れする」必要があり、そうやってまさに専門家である点において「客観的」になりえなくなってしまう面があるからです。
研究をしているうちに「これは冷静に考えてそんなに重要な問題でもないかも?」と思えてきたとしても、「競争」が強まった状況で、自分の専門をそれに決めて研究計画を出して研究資金などが与えられた場合、「正直いま自分がやっていることが的外れに感じてきたので方向転換します」ということはやりにくくなり、「とにかくこれは重要なテーマなんだ!」という主張を押し通そうとせざるを得なくなってしまいます。
「専門家」のポジションを得ることは、相対的に多くの社会的分配を得られるポストや資金を勝ち取ることであり、そのために自分の専門の相対的重要性を主張しなければならないのですが、たとえどれだけ事実性に対して誠実であろうとしても、「自分の専門を重視する」という点において「客観性」は失われていきます。
当たり前ですが、専門家は専門家である以上、自分の専門を他よりも優先する見方・考え方をせざるを得ず、その点において客観的であることが難しくなっていくということです。
これは構造的に仕方なく起こる問題であり、このチャンネルの過去動画では、「ビジネス」について、「各々が市場のルール通りに成果を出そうとすることで市場の土台になるものを解体してしまう」というような説明をしてきたのですが、「科学」についても同じように、「各々が研究のルール通りに成果を出そうとすることで科学の土台になるものを解体してしまう」と考えます。
このようにして「客観的な事実の検証(の土台になるもの)」が危うくなっていく問題について、以降では、コロナ禍などの状況で起こったことも含めて引き続き論じていきます。
有事における「専門家」の脆弱性
ここからは、最初は抽象化した説明をしますが、暗にコロナ禍の問題に言及していると捉えてもらって構いません。
まず、「何らかの社会を揺るがす問題」が起こったとします。
このとき、社会が専門家を重視するのは、「客観的な事実を把握すること」が判断の前提として必要だからです。
ウイルスの問題であれば、その対処のためにウイルスの正確な情報を知る必要があります。
しかしながら、社会が専門家に求めているのが「客観的な事実・正確な情報」であるのに対して、専門家がやろうとするのは、「その専門の影響力の最大化を意図するような情報の提示」になってしまうかもしれません。
専門家は、例えば感染症の専門家として呼ばれたならば、感染症を収束させて問題を解決することを自分の使命と考え、そのウイルスの危険性を強調して、「活動自粛」や「緊急事態宣言」や、あるいは「オリンピックなどのイベントの中止」のような「成果」を政府から引き出そうとするかもしれません。
これは専門家のふるまいとしてはそれほどおかしくはなく、相対的重要性を勝ち取ろうとするのは現代の競争の勝者の基本ムーブみたいなもので、先に述べたように、それをうまくやれるような人が「専門家」になれます。
しかし、そもそもの専門家が重視される前提が「客観的な事実が判断のために必要だから」であるのに対して、いざというときの専門家のふるまいが「自らの専門の影響力の拡大」なのだとしたら、期待される役割が果たされたわけではなく、むしろ裏切られたことになります。
感染症などの問題の場合、本来、市民が求めているのは「感染症の問題を大きく見積もる専門家の主張」ではなく、「その感染症の客観的で正確な情報」なのですが、「細分化」と「競争」が進んだ社会の「専門家」は、悪意によるものではなくとも「自分の専門の重要性の強調」を意図してしまいやすいです。
もちろん自制心を働かせて「客観的で正確な情報」を提供しようとする専門家も多いと思いますが、しかし重要な局面でそのようなちゃんとした人たちが選出される仕組みになっているのかは疑問です。
この動画で先に、「専門性のパフォーマンスが高いのは最大でも最小でもなく中間」という話をしましたが、未曾有の事態が起こって専門家の知見が求められたとき、その「パフォーマンスの高い部分で問題に対処してほしい」というのが、多くの国民が暗に期待していることだと思います。
イメージで言うなら、社会全体を揺るがすような有事の際には、専門家のコミュニティ内で「こいつに任せれば間違いないだろう」と言われるような、「優秀な人たちのコミュニティの中でも特に優秀だと思われている人に白羽の矢が立つ」……みたいな感じになってほしいはずです。
スポーツの国際試合ではオールスターチームが組まれるように、多くの国民の命運を左右する社会的危機の対処には、トップクラスに優秀な人たちを集めた「科学者代表」のようなチームで取り組んでほしい……というのは、市民が「そうあってほしい」と期待しているものであり、あるいは「そのようになってくれるものだろう」という信用も今の社会にはあるかもしれません。
特にコロナ禍のような社会の広範囲に影響がある初見の問題は、特定の専門家がいるわけでもないのだから、細分化された専門性において権威だけを持っている学者ではなく、専門知識を持ちながら柔軟でバランスの取れた考え方ができる「優秀なジェネラリスト」に問題に当たってほしいし、問題の重大さに応じた「優秀な人の中でも特に優秀な人」に出てきてほしいというのが、今の社会のメリトクラシー的な期待や信頼だったと思います。
しかし、「重要局面においてコミュニティ内で一目置かれている優秀な人間に白羽の矢が立つ」みたいな映画やドラマでよく見るようなことは、実は「正しさ」に反するホモソーシャルなものを必要として、例えば、省庁や大学などで働く人たちに高校や大学の同期・先輩後輩などの繋がりが漠然とあって、「こいつなら間違いない」みたいな評価が形成されているような場合に、総合的に優秀な人間が抜擢されやすくなります。
過去の日本の組織でそれが成り立っていた部分もあったかもしれませんが、「正しさ」が重視され専門の細分化や競争が進むほどそういったものはなくなっていきます。
「科学的知見を持った優秀なジェネラリスト」みたいな人はおそらく今の日本にも多くいると思いますが、そのような人は大学や研究機関ではなく企業に所属しているかもしれないし、いずれにしろ「細分化した専門性に正当性が与えられる社会」においては権限を持ちにくいです。
政府や行政の側も責任や保身があるわけで、重要な場面であるほど立場と実績がわかりやすい専門家に頼ろうとします。
その上で、ここで指摘したい脆弱性の問題は、専門が細分化した状況において、もし「専門家として政府から任命された人が間違った見方や極端な見方をしていた場合どうするのか」です。
この動画では以降でより具体的にコロナ禍の問題を扱っていくつもりですが、コロナ禍をめぐる言説においては、「なぜ専門家ではないお前が専門家の見解に口を出すの?」みたいな権威性がそれなりに働いていたと見ていて、それが大衆と専門家の分断を生んだ部分もあったと考えています。
そして、「なぜ専門家ではないお前が専門家の見解に口を出すの?」というセクショナリズムは、「エリートから大衆に」だけではなく、「エリートからエリートに」も働くし、あるいは「近い専門同士」だからこそより強く働くこともあるかもしれません。
特定の専門家がその実績と専門性を認められて政府に任命された場合、その専門家に口出しするのは、同じ分野の科学者でも難しくなりやすいです。
先に述べたように、アカデミアは「専門性カルテル」を結んで実質的に相互レビューを否定し合う風潮が強まっている場所で、「研究者であるからこそ他の研究者がやることに安易に口出しできない」ようなところがおそらくあります。
この問題は後でも述べますが、コロナ禍で注目を浴びた専門家のふるまいに対して、他の自然科学の優秀な研究者たちがそれを批判したかというと、そういうことは少なかったと見ています。
たとえおかしなことがされていても、専門が異なる学者を批判するのは簡単ではありません。
そこでは、「正しさの過剰によって正しさが失われてしまう」ような構造上の欠陥から生じる本末転倒なことが起こっていると見ていて、例えば、臆断を避けるために各々が細分化した領分をしっかり守ろうとした結果、むしろ信頼性の低い見解が強い科学的権威を帯びるリスクが高まります。
イメージとしては例えば、何かを断言しにくい初見の問題に対して、各々の学者が「厳密性を重視して慎重な態度を取り、自分よりもその問題に専門性が少しだけ近い他の学者に判断を譲る」ということをやったとして、大多数がそれをやると、譲り合いの結果としてごく少数の人たちに専門家としての科学的正当性が集約されることになるのですが、「その人たちが間違ったらどうするのか?」という話になります。
この場合、各々が客観的事実に対して慎重になるからこそ判断を譲る結果として、「少数の極端な意見を持つ人たちが過剰に影響力を持つ」という皮肉めいたことが起こり、さらにそれが、「優秀な少数が問題を解決すると考えられるメリトクラシー」や「少数者性に政治的正当性を付与する近代的理念」といった「正しさの倒錯」に補強されます。
本来であれば「大勢の専門家によって形成される見解」と「少数の専門家の見解」とでは前者のほうが信頼性が高くなりやすいはずなのに、先に述べた構造によって、「少数の専門家の、自分の専門の問題の重大さを強調しようとするふるまい」が社会的に大きな影響力を持ってしまう問題が、日本のコロナ禍においても起こっていたと考えていて、以降でそれについて説明していきます。
コロナ禍の問題
日本のコロナ禍において、知っての通り感染対策のために「活動の自粛」が求められましたが、「自粛をどれくらい強めるか?」は正解のない問題でした。
活動自粛を強めなければ、感染者が増えて亡くなる人や後遺症に苦しむ人が出たり、医療の逼迫によってコロナ以外の病気の治療ができなくなりさらに被害が拡大するかもしれません。
一方で自粛を強めることで失われるものも多くあります。
活動自粛によって、経済的な損失はもちろん、歴史が途絶えてしまう文化や活動があるかもしれないし、若年層の体験の喪失は後に尾を引く問題になるかもしれません。
経済苦によって自殺者が出る場合もあるし、交流や出会いが減ると出生数の減少などの悪影響も懸念されます。
コロナ対策で守られる命がある一方、経済苦で失われる命やあるいは本来は生まれていたはずなのに生まれなくなってしまった命もあるのではないか……という観点もあり、その試算をしている学者もいます。
ただそういった諸々も含めて、「どれくらい自粛すべきだったか?」は正解のない問題で、民主的な社会においては「国民がどう判断するか」が重要になります。
「価値判断」をするのは国民や国民に選ばれた政治家であるとして、その判断のためには前提となる「科学的事実」が必要です。
例えばウイルスの感染力や致死性が非常に強いものであったなら、徹底的に抑え込まなければ経済や文化そのものがなくなってしまうので「自粛すべき」となりやすいです。
対して、高齢層にとっては重症化リスクが高くても若年層や乳幼児にはそうではないウイルスならば、リスクを気にする人は活動を控えて、そうでない人は今まで通り活動を続けたほうが守られるものが多くなるかもしれません。
このように「価値判断」のためには「ウイルスの正確な情報」が必要で、社会はその提供を専門家に頼ることになります。
専門家の役割は「その感染症に関する客観的な事実を提供しようとすること」で、「情報をもとに判断をするのは国民と政治家」というのが民主的な社会の大前提ですが、しかしコロナ禍のような状況において、「国民の判断」ではない「専門家の判断」が影響力を持ちすぎた事情があり、それに「納得できない」人が増えた理由もあったと見ていて、この問題をこれから論じていこうと思います。
ただ前提として、コロナ禍は誰が悪いわけでもなく全員が被害者であったような問題であり、矢面に立って正解のない問題に向き合った人たちに対しては基本的に敬意を持つべきと考えています。
またここでは、「コロナ禍における一部の専門家のふるまいによって科学の信用が失われた」という見方をしているわけではなく、「この動画で先に説明したような構造的な問題がもともとあって、コロナ禍という有事の際にその問題が顕著に表面化した部分があった」という見方をしています。
ここではあくまで構造的な問題を扱おうとしていて特定個人の批判を意図しないのですが、しかし扱う問題の性質上それに関わった専門家に言及することを避けにくい部分もあり、変に名前だけ伏せても意味がないので名前もそのまま出して進めます。
なお以降の内容に関して、コロナ禍における専門家のふるまいや数理モデルの評価については、『コロナ対策の政策評価 日本は合理的に対応したのか』というタイトルの、日本のコロナ対策に影響を与えた数理モデルの妥当性を経済学者が検証した書籍を参考にする形で述べます。
日本のコロナ禍において、最も注目を浴び影響力を持った「専門家」が誰かというと、「8割おじさん」と呼ばれて2020年にメディアで話題になった西浦博教授になると思います。
2020年の4月7日に日本で初めて「緊急事態宣言」が出されたのですが、当時の安倍首相の記者会見では「専門家の試算では……」という文言があり、その「試算」が西浦教授のものです。
当時の西浦教授は厚生労働省の「クラスター対策班」というポジションで、彼が出した「数理モデル」は「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」のメンバーからは基本的に高く評価されていて、例えば専門家会議の副座長でメディア出演も多かった尾身茂さんは、「今回は数理モデルが重要なツールとなり、そこは西浦さんの貢献が大きかった」と評価しているし、他の有識者やメンバーからも「科学的根拠に基づいた政策決定」「画期的な取り組みであったことは間違いない」など、「科学的に正しい内容の助言が行われたことを暗黙の前提」とした肯定的な評価が見られました。
専門家会議も一枚岩ではなく「現場の実態や日本人の行動特性がモデルに反映されていない」という批判が医師会の臨床医からあったりはしたものの、基本的には信頼できるものと他の専門家から評価され、実際に安倍首相の会見の文言にも反映されました。
つまりメディアがたまたまそれに注目したからなどの理由ではなく、公的なポジションの専門家の信用によって大きな社会的影響力を持ったのが西浦教授の「数理モデル」になります。
参考にしている『コロナ対策の政策評価』という書籍では、「科学的根拠に基づく合理的な政策決定が本当にされたのか」という問いのもと西浦教授の「数理モデル」が検証されていて、以降ではその内容をいくつか紹介していきます。
まず、西浦教授の「数理モデル」は、4月7日の「緊急事態宣言」時に首相に言及されるほど影響力を持ったものですが、モデルを計算するソースコードがGitHubで公開されたのは5月27日であり、それまでは第三者がモデルを検証できない状態でした。
第三者が検証して間違いを指摘できる「反証可能性」を重視するのが「科学」であるのに対して、それがない状態のモデルが政策に大きな影響を与えたことは、科学の手続き上問題なのではないか、ということになります。
次に、これも「反証可能性」に関わる論点ですが、「数理モデル」は後からその妥当性を検証することが重要になりやすいのに対して、西浦教授のモデルは事後検証が困難なモデルだったことが指摘されています。
『コロナ対策の政策評価』の著者の岩本教授によると、例えばイギリスで用いられた数理モデルの考え方では、人々が自宅・学校・職場のどこにいて、自宅に隔離を求めたならその遵守率は何%か……などの形で「接触削減」の度合いが数値化されようとします。
「接触」や「どうすれば削減されたか」を定義しないと、モデルの通りの結果にならなかったときに「国民の接触削減の遵守率が足りなかったのか」「コロナウイルスの感染力や毒性を見誤っていたのか」などを検証することができません。
対して西浦教授の当時の数理モデルは「接触」とされているものが実社会の何に対応するかが明確ではなく、どのような結果になろうとその妥当性を検証することができない事後検証が最初から放棄されたモデルだったのではないか、ということが指摘されています。
つまり、反証も事後検証もできないモデルなのに、「専門家が出した数理モデルだから学術的にちゃんとしたものだろう」と思われている科学的権威を利用して主張を通そうとした……と疑われるようなやり方だったのではないかということです。
また、コロナ禍においては「基本再生産数」という言葉を耳にする機会が増えたと思います。
「基本再生産数」は「集団に免疫がない状態で1人が平均して何人に移すか」という指標で、ウイルスの脅威度を見積もる上で重要な数字であると同時に、その社会の衛生環境や慣習の違いなどによって変化するので推計が難しいパラメータでもあります。
『コロナ対策の政策評価』の書籍では、専門家会議が「基本再生産数」をどのように設定し変更していったかにも注目して検証が試みられていて、2020年3月2日の資料では、最小値「1.4」基本値「1.7」最大値「2.0」と幅を持たせながら、基本的には「1.7」と考えられていました。
対して、2020年3月19日に出された提言からは「基本再生産数」が「2.5」程度であるとされた推計が登場し、「8割削減」のモデルにも「2.5」が適用されています。
もともと「1.7」に設定されていたものが急に「2.5」になって、どのような理由でそうなったのかについても検証が試みられているのですが、西浦教授のインタビューなどを見ると、ヨーロッパの感染状況を見て危機感を覚えて、日本もヨーロッパと同程度の「2.5」くらいにする……みたいに本人の心理的な変化が数値の設定に影響しているように読める記述があることが指摘されています。
しかし、「基本再生産数」のような重要なパラメータを特定の誰かが「危機感を覚えた」みたいな理由で変更していいのかという疑問があり、しかも重要なパラメータが更新されたにもかかわらず、公的な資料でその理由がちゃんと説明されることもなく、いつの間にか数字が変わっています。
さらに、細かい話ですが、コロナウイルスの「基本再生産数」が「2.5」に設定されたのが3月19日の資料からなのに対して、それ以降の6月19日に出た病床整備の関連資料では「1.7」のパラメータが踏襲されているものがあったりして、整合性について説明不足なのではないかとも指摘されています。
つまり、「基本再生産数」のような重要な数値をちゃんと説明せず恣意的に変更したり、前後の資料で首尾一貫していない部分があったりなど、コロナ対策という大勢の命運を左右する問題を扱うにしては杜撰なやり方がされていたのではないか、ということになります。
著者の岩本教授によると、例えば日本銀行の政策決定の場合、9人の政策委員がそれぞれ立てた見通しを並べて議論され、将来が科学的に予測可能なものであれば優秀な1人がモデルを提示すれば十分ですが、「科学的知見は不確実性を含む」という前提があるので、不確実性を考慮しながら複数のシナリオを検討して政策決定が行われます。
コロナ禍で呼ばれた専門家にしても、最初は「基本再生産数」を、最小値「1.4」基本値「1.7」最大値「2.0」と幅を持たせていました。
しかし、急に説明もなく「2.5」に設定して危機を煽るような、恣意的に単一のパラメータを設定した数理モデルによって政策に大きな影響を与えようとするやり方がされ、それは科学的に不誠実なのではないかということになります。
以上、ここまで、『コロナ対策の政策評価』で指摘されていた内容の一部を紹介してきました。
またここでは割愛しますが、「新規感染者数と感染者数(フローとストック)を取り違えるようなミスがあり、モデル内部の整合性が破綻しているのではないか」という指摘も本書の中でされていて、ただこれに関しては、本書が出版された後で著者の岩本教授と西浦教授とのメールのやりとりなどがあり、西浦教授側は「取り違えていない」と説明しているようです。
詳細をこの動画で説明するつもりはないので、関連するリンクを動画概要欄に貼っておきます。
ここまで、『コロナ対策の政策評価』の内容の一部を紹介してきた形になりますが、公平を期すために、西浦教授の側からすれば反論したい部分もあるだろうことに留意して、詳細は各自で原文に当たるなどして判断していただければと思っています。
ここからは改めて、参考にした書籍ではなくこのチャンネルの見解を述べることになりますが、この動画では特定の誰かのせいで悪いことが起こったと主張するわけではないものの、コロナ禍で影響力を持った専門家のふるまいには、不当な部分(多くの市民が怒りを感じるのも無理はない部分)があったと見ています。
まず、コロナ禍は未曾有の緊急事態で、使える時間も労力も限られた状況だったので、日銀の政策決定と同じような慎重なやり方ができたわけではなかったと思います。
ただ、そのように「十分な対応ができなくてもしかたない」という言い訳がある状況だったからこそ、論駁不可能なポジションが発生した側面もあったと考えています。
「実績を買われて政府から任命され、何もかも手探りのなか、無報酬で有志の勉強会を開くなどの活動を続け、矢面に立って活動自粛を提言し、大勢に誹謗中傷されながらも感染症から命を守ろうとした専門家」というのは、大衆の側からすれば(あるいは他の専門家からしても)、どうやっても批判が届かないような圧倒的に強いポジションです。
そのようなポジションから、さらに「数理モデル」のような専門家以外が言及しにくいものを出されると、そのやり方に不備があっても指摘するのは難しいし、実際に先に説明してきたような杜撰なやり方がされていたのですが、それでも科学の信用を背景にした大きな影響力を持ちました。
このようなコロナ禍における一部の専門家のやり方は、大衆が科学に抱いていた期待や信用を裏切るようなところがあったと考えていて、以降では、「社会階層の問題」や「公衆衛生ファシズム」のような論点も含めた上で、コロナ禍においてどのようにして「非専門家」が「専門家」に反感を持つようになったのかというテーマに踏み込んでいきたいと思います。
「正しさ」に見放された人たち
このチャンネルの過去動画・今回の一連のシリーズでは、社会的に有利なポジションを持つ人ほど、理念としても利害としても「正しさ」を肯定しやすい構造を説明してきました。
例えば、移民が増えると治安の悪化が起こりやすいとして、住む場所を選びやすい高所得層ほど「外国人差別への反対」などの綺麗事を言いやすい一方、その「正しさ」の現実的な負担を負うのは自分の住んでいる地域から逃げられない人になりやすい……などの話を過去動画でしてきました。
「正しさ」には「他人の腹で切腹」しようとするようなところがあり、それが今の社会において「正しさ」への憎しみを育てている側面があります。
コロナ禍における「命を守るための自粛」というのも同様に、有利なポジションにいる人ほど「自粛」を受け入れやすく、そうでない人に負担が行きやすかった構造があったと考えています。
コロナ禍の時期に、医療従事者が大変な思いをしたことは疑いようがないと思います。
未知の感染症に自分が感染してしまう・感染源になってしまうかもしれない恐怖のなか、懸命に役割をこなそうとした人が多く、当然ながらその仕事には敬意が払われるべきです。
しかし同時に、社会的正当性を得ていた側ではあり、また「自粛」が長引いても自分の仕事を失うまでのことにはなりにくい側でした。
対して、「以前と同じように仕事があって生活ができるか」という観点においては、飲食・観光・レジャー関連などの仕事で、特に会社に守られているわけではない自営業や非正規雇用の人たちは、「自粛」によって不利な立場に追いやられやすかったと言えます。
「自分の店が潰れるかもしれない……いつ感染症が収束するのか……あるいはコロナ禍は終わらずこのままずっと続くのだろうか……」という恐怖が特に深刻で切実だったのは、飲食自営業のような人たちであり、その上で彼らは、自分が「正しくない」側であることも感じていたと思います。
「感染症から命を守らなければならない」という「正しさ」が強く働いた状況において、「他人の命をおびやかしてまで不要不急の飲食や娯楽をやろうとするの?」「人の命を犠牲にして自分の商売を優先するの?」と見られる側という、自身の生業が脅かされている一方で、社会的正当性を持たず加害者と見なされやすい側だった(「正しさ」に見放される側だった)のが、当時の立場の弱い人たちの事情でした。
ただそれでも、経済や文化や次世代の出生など自粛を強めることで失われるものも多くある以上、その差し引きでどうなるか……といった議論も当然あるはずで、そのときに「客観的な事実を検証しようとする科学」は中立公正に双方の言い分を精査してくれるだろう……と思われていたかもしれませんが、「しかしそうではなかった」というのがここで扱いたい論点です。
当時の飲食自営業者など立場の弱い人たちにとって、「科学」は味方をしてくれたわけでもなければ、中立公正ですらなかったと考えます。
これは今回の一連のシリーズでずっとテーマにして論じてきたことですが、「科学(少なくとも現在のアカデミアにおける科学)」は、イデオロギーに忖度せずフェアに「客観的な事実」を検証しようとするものとして社会的な信頼を得ている一方で、実はそうではないという主張をここではしています。
過去動画で出してきた例を言うなら、「男女平等の理念において女性が男性に劣らないことを示すためなら、女性が成果を挙げた事例をチェリーピッキングしてもいいだろう」とか、「普遍的人間観においてレイシズムを否定するためなら、外国人が起こしている問題を過少申告してもいいだろう」といったように、「正しさ」のために「客観的な事実の検証」がむしろ否定されるようなことが起こり、これを「正しさの過剰によって正しさが失われる」と説明してきました。
コロナ禍においても同様のことは起こったと見ていて、「命を守るという正しい目的のためなのだから、事実の検証が多少正確でなかったとしても、警戒の意図も込めてウイルスの危険性を大きく見積もった結果を公表していいだろう」といったような部分が、先に説明した西浦教授の数理モデルなどになかったとは言えないと思います。
一方で、先に述べたように、専門家が重視されるのは判断の前提となる正確な情報のためであって、価値判断をするのは国民と国民に選ばれた政治家なので、「正しい」目的のためだからといって専門家が「客観的な事実」を歪めていい道理はありません。
論点をはっきりさせるために強い言い方をするなら、啓蒙的に「命の大切さ」を強調するようなメッセージを専門家が発していいわけではなかった、と考えます。
それは政治家が言うならば許されて、なぜなら、代議制民主主義において国民の意見を代表しているのが政治家であり、政治家は民主的な選挙によって選ばれているからです。
対して専門家は「客観的な事実を提示しようとすること」において正当性を持っているのであって、「価値判断をすること」や「国民にメッセージを発すること」を認められているわけではありません。
もちろん専門家それぞれの意見や思いはあってそれを表現することが禁止されているわけではないのですが、当時のコロナ禍の状況において専門家が「命を大切に」というメッセージを強調することに正当性があったかというと、「なかった」と考えます。
なぜなら、そもそも「命を大切に」というのは誰かに言われるまでもない前提だからです。
権威のある学者が「命を大切に」というメッセージを発したから、それがなければ人の命を軽視していたような人たちが啓蒙されて命を守る行動をするようになったのかというと、そんなに人をバカにしたような話もありません。
「命が大切」というのは言われるまでもない前提で、だから大多数の人が自粛は仕方ないと考え、しかし自粛で失われるものもあり、その失われるものと守られるもののギリギリの差し引きのなかで、不利な立場の人も営業の自粛や休止など身を切る形で感染症の収束に協力しました。
ではそのような状況において、科学的権威を背景に杜撰な数理モデルで危機感を強調するふるまいが、「命を守ろうとする正しい目的のためだから」という理由で正当化されるかというと、「されない」と考えています。
結果として日本はコロナの感染者や被害者が少ないほうの国だったのですが、「専門家が危機感を強調したおかげで、国民がちゃんと気をつけるようになって命が守られた」のかというと、仮にそのような見方がされようとするならば、それは非民主的で不当な収奪だと考えます。
社会の建て前としては、「命を守ろうとした」のはひとりひとりの国民であるべきです。
実際に色んな葛藤があるなかで各々が自粛を呑んだから感染が抑えられた部分があり、何らかの名誉があるならばそれは、弱い立場で不安に苦しみながら自粛に協力せざるをえなかった人たちに与えられるべきで、そして、だからこそメッセージを発するのは国民の代表としての政治家でなければならないというのが民主的な社会の前提です。
対して、専門家は「事実の検証」において責任を負ってはいても「価値判断」に責任を負うわけではないので、特定の主張を前面に出す正当性が本来ならばありません。
であるにもかかわらず、「命を守るために必要だと思ったから事実というよりは極端に悪くなったケースを強調したが、危機感を煽った結果としてより多くの人が気をつけるようになってくれたのかもしれないし、最悪のケースが現実にならなくてよかった」……みたいなやり方を専門家がして、それをした人に「コロナ禍で命を守ろうとした専門家」という評価がメディアなどから与えられるのだとしたらそれは、不当であり収奪的なことが行われていたと指摘するべきだと考えます。
「命を守る」という道徳的な目的のための活動自粛で特に負担を負いやすいのは、自営業や非正規のような立場の弱い人たちで、そのような苦しい状況で自粛に協力した人たちの功績が、本来の専門家の領分を逸脱して危機を強調した人間の「コロナ禍で命を守ろうとした専門家」という評価に回収されていくならば、そこには酷く収奪的な構造があることになります。
しかしこういったことがアカデミアやメディアにちゃんと批判されるかというと、有利なポジションを持っている側ほど「専門性カルテル」のように有利を固め合って「他の専門家の不当さ」を否定しにくくなっています。
一方で大衆の側は、それに怒りや不満を感じている人も多くいるとは思いますが、「論点をちゃんと言語化する」とか「問題を主張して社会に認めさせる」などの部分でアカデミアやメディアに対して後手に回りやすく、怒りや不満をうまく表現するのが難しくなっている面があるかもしれません。
もっとも、問題をちゃんと論じることができなくてもSNSを使うことはできるので、言葉にできない思いが一部の専門家に対する極端な誹謗中傷になったりなどして、もちろんそれは良くないし、大衆が単に声なき弱者だったと言うつもりまではありません。
ただ、専門家の不当さが咎められない構造があり、有利なポジションを取った人ほどその構造を批判しにくいのでそれが表立って論じられることも少なく、大衆の怒りや不満が社会に蓄積されていったところがあると見ていて、以降でも引き続きその話をしていきます。
科学者が「検証」を軽視してしまう事情
ここまで、専門家に対して大衆が怒りや不満を持ちやすくなる構造について話してきて、現在の専門家のあり方には問題があると見ているのですが、ただ専門家が一方的に不当なことをしていたと主張したいわけではありません。
例えば、コロナ禍において「活動自粛」「緊急事態宣言」「オリンピックの無観客開催」あるいは「オリンピックの中止」など、「感染症対策を重視する政策や価値判断」を政府から勝ち取ろうとした専門家のふるまいは、「手続き的正当性においてそこまでおかしなことはされていない」という見方もあると思っています。
なぜなら、それぞれの専門家の意見を比較検討して調整するのは政府の役割であり、実際に座組みを組んだり最終的な判断をする権限は政治家にあるからです。
もし経済に関する視点が欠けていると考えるのであれば、経済学者などを任命するのは政府の仕事で、「感染症の専門家は感染症を抑えるための主張をする」「経済の専門家は経済を停滞させないための主張をする」……というように、呼ばれた各専門家は自らの専門の成果を勝ち取るための主張をすればよく、その上で総合的な判断を政治家が行えばいい……という考え方はあります。
先に述べたように、社会の分配をめぐる競争において自らの相対的重要性を認められた者が「専門家」の立場を得られるわけで、「相対的な優遇を政府から勝ち取ろうとする」というのは、今の社会で成功した専門家の標準的なふるまいとも言えるものです。
そのため、「感染症の専門家」が「感染症を抑えるために社会のリソースをより多く使う政策を政府から引き出そうとする」というのは、普通にやればそうなってしまうようなもので、特別に変なことがされたわけでもありません。
もっとも繰り返し説明してきたように、そもそも専門家が重視されるのは「正確な情報を知るために必要だから」であり、「客観性」を歪める競争的な専門家のふるまいは、社会が専門家を重視する前提を切り崩していくことになります。
「コロナ禍において抜擢された専門家が問題のあるやり方をした」という指摘はこの動画の趣旨ではなく、もともとあった構造的な問題が有事の際に表面化してそうなったと見ているのですが、ただその上で、コロナ禍の専門家のふるまいで問題のある部分を強いて挙げるとすれば、「検証可能性」が軽視されていたことだと思います。
例えば当時、「専門家会議」が議事録を作成していなかったことが強く批判されていました。
後から判断の妥当性を検証できるようにするためにはちゃんと記録を残す必要があり、国家の方針に影響を与えたかもしれない場面で記録が軽視されたことに批判があるのは当然です。
専門家会議の副座長で顔役を担っていた尾身茂さんが出した『1100日間の葛藤』から引用すると、「私たちに責任も権限もない議事録問題ばかり関心が集まったことに釈然としない気持ちだった。そういうことは政府に聞いてほしかったというのが本音だった」と尾身さんは述べていて、当時の専門家会議自体が急ごしらえの組織であり法的な位置づけも不明瞭で、多くの混乱や不手際が生じた部分があったと説明されています。
とはいえ、たとえ政治家から指示されなかったとしても、専門家は自分たちを守るためにもちゃんと記録を残して「検証可能性」を重視する義務が普通はあると考えるべきです。
例えば「裁判官」は、自分の気持ちによって判決を下すわけではなく「法」に規定されるし、弁護士も検事も「法」に縛られた上でそれぞれの主張を通そうとして、そのように「法」のもとで動くから法曹でいられることになります。
同じように「科学者」も、「検証や反証」に規定されるからこそ守られるし信用されることになります。
科学は新しい事態に対して常に正解を選べるわけではなく、適切な価値判断ができるとも限りません。
にもかかわらず科学が正当性を持つのは、「公開性のあるプロセスにおいて問題を改善し修正していくこと」が重視されるからであり、ゆえに専門家は「正解を出そうとする」よりも「記録を残そうとする」必要があります。
このように考えれば科学者の「検証可能性」の軽視は、それ自体が強く咎められるふるまいになるはずです。
一応、ここで言う「検証可能性」が何かを単純化して説明すると、「データをどうやって集めたか→集められたデータ→データから導き出される結論」があったとして、これらが透明化されていてブラックボックスがないほど検証や反証をしやすいと一般に考えられます。
「この集め方をしてこのデータになるのはおかしくないか?」とか「なぜこのデータからこの結論になるのか?」みたいな疑わしい部分があったとして、「実はこれはこういう事情で……」みたいに当人や関係者にしかわからない事情があるほど検証や反証をしにくくなり、そうならない提示の仕方をすることが科学においては重視されます。
言うまでもなく「議事録を残さない」と意思決定のロジックなどを検証できなくなるので「検証可能性」が毀損されやすいです。
「収集方法→収集されたデータ→結論」を客観的に検証しやすい形で示すのが科学のルールであり、これは特別なことを言っているわけではなく大学のレポートなどでも指導される話だと思います。
対して、コロナ禍という科学的知見が切実に求められた未曾有の事態に国家のお墨付きを得て集まった科学者の集団がその「初歩」を疎かにしているというのは奇妙な話ではあります。
ワールドカップなどで招集される選手が基礎的な技術を疎かにしているとは考えにくいのに対して、コロナ禍において国に招集された学者は、「科学」で最初に意識するはずの「検証や反証を可能にすること」を軽視していた部分がありました。
ただ、「だからおかしい」と言いたいのではなく「そうなってしまう事情があった」という見方をしていて、それをこのチャンネルでは「豊かさと正しさの相反(モラルとルールの相反)」という形で説明しようとしています。
「市場競争」についてこのチャンネルで過去に述べた内容では、「人のためになる仕事をするべき」という「モラル」がありそれが当たり前に重要なこととされる一方で、実際の「市場のルール」はその「モラル」と相反し、むしろ他人を不利な状況に追いやる(モラルに反する)やり方が「ルールに評価されやすい」ことを指摘しました。
「科学」も同じように、「検証や反証をしやすくするべき」という「モラル」がありそれが重要なこととされる一方で、実際の「学術研究のルール」は「モラル」と相反し、むしろ他人が自分の研究を検証しにくくする(モラルに反する)やり方が「ルールに評価されやすい」面があります。
ビジネスにおいて「人のためになる仕事をするべき」を真に受けてそのためにリソースを使うと実は不利になりやすいように、科学においても「検証や反証をしやすくするべき」を真に受けてそのためにリソースを使うと競争に不利になりやすい構造があります。
競争的優位を得たい専門家の側からすれば、「親切にわかりやすく」するよりも、「不親切にわかりにくく」したほうが、他人が正確な情報にアクセスしにくくなり、自分だけがそれをわかっているという優位性を作りやすくなります。
「競争」的な状況において、その専門に関することが専門外の人にとってわかりにくい場合、「理解に能力が必要だからわからないのか」あるいは「不親切だからわからないのか」は区別しにくく、個人の側からすれば、「わかりやすさのためにリソースを割かないこと」が「自身の希少性やメリトクラシー的優位性を高める」ルールになっていて、「親切さ」や「わかりやすさ」には実は負のインセンティブがあります。
「モラルとしてそうすべきとされていること」と、「ルールに評価されること」は相反していて、このような事情を当チャンネルでは「豊かさと正しさの相反」という形で繰り返し説明してきました。
この動画で先に説明した西浦教授の数理モデルなどに関しても、「外部から検証や反証をしやすくすること」が重視されていたとは言えない部分があり、しかしそれが「専門家として他人から論駁されないポジション」を強めていた側面があったと見ています。
コロナ禍の専門家の仕事について、まず、有事の際に奔走してデータを集めたことは間違いなく専門家の貢献です。
尾身茂さんの著書では、当時のデータ収集の困難さについても語られていて、医療機関や保健所や自治体の連携がちゃんと行われていたわけではなく、混乱が生じているなか駆け回ってデータを集める必要があったと回顧されています。
そのような部分の専門家の活躍に対して文句を言う人はあまりいないと思います。
またデータ収集にしても、属人性を完全に排して客観的にデータを集めるというのは現実的ではなく、何の咀嚼もされていないバラバラのデータが手当たり次第に公開されても混乱するだけなので、仮説を立てながら適切なデータの集め方をする必要があります。
その部分では専門家としての能力が必要で、もちろん誰でもできる仕事ではありません。
このように専門家が重要な役割を担っていたことを認めた上で、しかし、「現場がデータを囲い込んで現場の人間が数理モデルを公表する」ことの合理性は、当時のコロナ禍の状況においてそれほどあったのか……という疑問があります。
検証可能性を重視した誠実なやり方をするのなら、収集したデータはなるべく早くわかりやすく公開して、その解釈なりモデルの作成なりは外部の得意な人間に任せるのがより適切……という考え方もあります。
コロナ禍のような問題において、データの公開が疎かになっていて市民が検証不可能な状態で、そのデータを使って現場の人間がモデルを作成して何かを主張するというのは、合理性や正当性が疑問視されるやり方なのではないかということです。
逆に言えば、「収集したデータをちゃんと公開して、データの解釈やモデルの作成は客観的な見方をしやすい外部の人たちとも協力する」という誠実なやり方がされていた場合、日本のコロナ禍で見られたような、特定の専門家の見解が注目を浴びて社会に大きな影響を与えるということは起こらなかったと思います。
改めてこの話の論点を整理すると、「専門家は、正確な情報の提供や科学的な検証を期待されて重用される一方で、専門家個人が競争的に成果を追求しようとすると、専門家が重用される根拠になる公開性や検証可能性を軽視することが合理的になってしまう場合がある」というものです。
データの公開性が不十分な状況において、現場しかアクセスできないデータでモデルを作成して当人が影響力を獲得する……というのは、個人の成果を最大化しようとするふるまいではあっても、コロナ禍のような重要局面で抜擢された科学者として適切なふるまいだったとは言えないと考えます。
しかしながら、そういったふるまいや構造が、日本に多くいるはずの自然科学分野の優秀な研究者たちなどからちゃんと批判されたかというと、あまりそういうことは起こらなかったと見ています。
先に述べたように、「専門性カルテル」のような「互いの専門性を尊重し合う体の相互不可侵」を結んでいるのがアカデミアの特徴で、専門家が他の専門家の仕事を批判することは難しくなっています。
加えて、専門家が政府に対して自身の影響力を最大化しようとするふるまいに対しても、政府から予算やポストを獲得している科学者である時点でそれぞれ後ろ暗いところがあるだろうから、表立って批判すると自分に返ってきやすいです。
以上のような事情があり、ここでは特定の専門家を特に悪いとしたいわけではなく、コロナ禍で行われたことも「まあ今の社会のルールならそういう感じになるよね」くらいに思っているのですが、一方で、「専門家」や「科学」に不信感を抱く人が増えていくのも当然だと考えています。
先に説明したように、コロナ禍で要請された「自粛」には、社会的に有利なポジションの人ほど比較的ダメージが少なく、その上で、弱い立場の人たちが身を切って協力せざるをえなかったことが、ウイルスの危機を強調した専門家の「コロナ禍で命を守ろうとした専門家」という評価に回収されていく収奪的な構造がありました。
そこには検証や反証を重視する科学の手続きにおいても本来なら問題視されるべき部分があったのですが、科学者のポジションを得ている人たちは実質的に相互批判の役割を放棄し合っていて、そのようにして「今の科学」というもの自体が、中立公正ではなく、特定の人たちの有利を補強するものとして働いています。
さらに、科学的権威を認められやすい側の人たちが、「本来ならば自分たちが批判しなければならない不当なふるまい」ではなく、「科学を疑問視する側」に攻撃的だったことも、コロナ禍のような状況でよく見られたものだったと思います。
コロナ禍において、「デマに気をつけよう」「正確な情報を探そう」みたいにリテラシーの重要性が説かれることも多かったかもしれませんが、しかしそのようにして求められる「リテラシー」というのも、申請主義の社会福祉と似たようなどこかメリトクラシー的な不親切さのあるもので、「よく見れば情報はここに載っている」というのはあっても、それが「わかりやすく親切」に提示されるわけではありません。
「各々がリテラシーを身に付けて正確な情報を探すことが大事だが、何が正確な情報かを決める権限は大衆ではなく専門家が握っている」という社会秩序のなか、専門家の信用のもとになる専門家同士の相互チェックが実はちゃんと行われているわけではなく、しかし専門家が有利な立場を固め合っているからこそ「相互チェックがちゃんと行われていないこと」も問題視されない……というのが今の社会の専門家のふるまいで、コロナ禍のような生活が関わってくる場面でその不当さに直面した人たちが「専門家」や「科学」に不信感を持つのも無理はないと思っています。
そしてそうした不信感が、いわゆる「陰謀論」とされるものに繋がっていった部分もあると考えていて、以降ではワクチンや陰謀論の話にも踏み込んでいきたいと思います。
反ワクチン
ここから「反ワクチン」のテーマを扱いますが、「反ワクチン」というと、「反自粛」よりもさらに科学や専門家に対して否定的な思想・態度であると一般的には見なされると思います。
もちろん「自粛に否定的かどうか」が程度問題であるように、「ワクチンに懐疑的かどうか」も程度問題で、極端な場合は「陰謀論」と言われますが、科学的であろうとするからこそワクチンを疑問視する人もいます。
コロナワクチンが打たれ出した2021年の日本においては、ワクチンを打つことのリスクとベネフィットとを比較して、「ベネフィットのほうが大きい」というのが「科学的コンセンサス」であったと言えると思います。
ワクチンは過去に多くの命を救ってきた信頼性の高い方法であり、コロナワクチンについても大手製薬会社の治験によって有効性が示され、「自然感染のリスク」と「ワクチンのリスク」とを秤にかけて、ワクチンを打つベネフィットが上回りやすいと当時は考えられていました。
一方でそれに対する疑問や批判も一定数あったし、今もあると思います。
まずここで論じたいのは、仮に社会の「全体最適」的な視点においてワクチンが「打つメリットのほうが多い」ものだったとしても、ワクチンには「トロッコ問題」のような論点があることです。
全体におけるごく少数ではあっても、「コロナワクチンが死亡や後遺症につながる副反応をもたらすことがある」というのも「科学的コンセンサス」だと思います。
また、コロナウイルスは若年層の重症化リスクが低い一方で、ワクチンには若年層で発生リスクが高い副反応もあるとされていて、ワクチンの副反応で亡くなった若い人が、接種しなかった場合にコロナの自然感染で亡くなっていた確率は低いです。
つまり少数ではあってもワクチンの被害者は確実に存在して、介入によって「助かる人」と「助からない人」の構成が変化したのだから、ワクチンには「トロッコ問題」的な性質があると言えます。
ただここでは、「全体のために少数の犠牲を容認するものだからワクチンは良くない」と言いたいわけではありません。
もともと社会は「個別最適」よりも「全体最適」を重視するもので、自動車事故が起こるからといって自動車は禁止されないし、冤罪が発生するリスクがあっても司法はなくならないし、警察や国防なども誰かがそのための犠牲になる可能性があるけれど必要とされているものです。
そのためここでは、ワクチンが「全体最適」を重視するから問題だ、という主張をしようとはしないのですが、ただコロナ禍の状況においては、納得いかないと感じる人を増やしやすい「ねじれ」や「裏切り」のようなものが発生してしまう事情があったと見ています。
もし、普段は「全体最適」を重視する「豊かさ」を批判し、「個別最適」を重視する「正しさ」によって正当性を得ていた領域が、コロナ禍のような状況において急に「全体最適」の側に取って代わろうとしたならば、そこには「おかしい・納得できない」と思われても仕方ない部分があるかもしれません。
その上で、先に説明した「専門家や科学に対する不信感」などがそれと合わさったならば、ワクチン接種が推奨された動きに反発したくなる人が出てくるのも無理はないと考えます。
例えば、今の医療は「個別最適」によって正当性を得ているようなところがあり、医療の負担によって社会全体が疲弊して継続性が危うくなっているなか、たとえ恩恵を受ける人が社会全体から見て少数の医療行為であっても「すべての人の健康や命が大切だから」という「正しさ」に肯定されます。
対して、先に述べたように「ワクチン」には「全体最適」を志向する性質があります。
つまり、平時には「個別最適」によって正当性を得ている「医療」が、ワクチンに関しては「全体最適」を掲げることになり、医者がワクチンを推奨するのに対して、「少数の命でも大切にすることで正当性を得ている現代医療が、どうしてワクチンの被害者が出ることは軽視するの?」というように「ねじれ」や「裏切り」を感じた人もいたことになります。
ただこれはもちろん医者の側が変なことをしたと言いたいわけではなく、ワクチンの接種を推奨した医者が多かったことは、基本的には、職業的モラルによって役割を果たそうとしたからそうなったものだと考えています。
まず、患者に対してパターナリズム的に標準医療を推奨することは、日本の医者が現実的・日常的に求められる業務ではあると思います。
標準医療以外の変な医療行為でも、期待値を無視するなら、標準医療をした場合よりも状況が改善する可能性自体は否定できません。
そうした中で、「まあ自己決定なので好きにしてください」と言う医者と、「面倒な患者に対しても説得して標準医療に導こうとする」医者とでは、後者のほうがちゃんとした医者だと思います。
ワクチンについても、「まあ自己判断で」みたいなスタンスだった医者と、「接種を推奨した」医者とで、前者のほうが慎重で立派な態度だったとは自分は思いません。
ここではワクチン接種を推奨した医者に問題があったという見方はしておらず、医者が医療に関してパターナリズム的なのは職業上の役割を果たそうとするからで、「平時にはどんな人でも治療しようとして、有事にはワクチンで全体の被害を減らそうとする」というのは医療の専門家としては一貫性のある態度です。
しかし変化したのは医療を取り巻く社会状況で、大衆の側からすれば医療はあくまで社会全体の一部なのに対して、コロナ禍においてはその一部の影響力が拡大して誰も無視できなくなりました。
平時において日本の医療は、次世代のために使えばもっと状況がマシになっていたかもしれないリソースを「医療」のために無理をして注ぎ込んでいるようなところがあり、それは近代社会が「個別最適(正しさ)」を否定できないことでそうなっています。
そうやって平時においては「パターナリズムを否定する個別最適」によって正当性を得ていた領域が、コロナ禍においては「ワクチン接種という全体最適のパターナリズム」を肯定する側に急に回ったようなところがあり、これは別に医療の側が変なことをしたわけでもなく仕方なかったと思うのですが、「納得できない」人を生む一因になった部分もあると見ています。
またそれを言うなら、「公衆衛生のための活動自粛の要請」自体にも、「個別最適」的な正当性が「全体最適」に成り代わろうとした性質があったと言えて、「少数であっても命や健康が大事だから」という正当性が「社会全体の行動を制限しようとする強権的なもの」になったのがコロナ禍という状況でした。
このような形で、「自粛」に対する懐疑と「ワクチン」に対する懐疑とが繋がっている部分もあると見ているのですが、コロナ禍において「全体最適」と「個別最適」がひっくり返り、そこに釈然としないものを感じた人が出てきた問題は、「医療」よりも「科学」においてより顕著だったと考えています。
有事の際に「全体最適」と「個別最適」がひっくり返る
まず、「ワクチンを打つメリットが多いことはわかっているのだから、ワクチンを打つのが科学的な態度である」という考えは間違っています。
「科学的に正しい判断」というのは語義矛盾的なところがあり、「科学」においては「客観的な事実」が重視されますが、そこから「価値判断」を演繹できるわけではありません。
このチャンネルの過去動画では「科学」についても「豊かさと正しさの相反」の枠組みで扱っていて、詳細の説明は割愛しますが、実は「科学」は「信じること」が土台になっているという見方をしています。
「豊かさと正しさ」の見方において、「疑う」のが「正しさ」であるなら、「疑うのをやめる」のが「豊かさ」です。
「科学的であるとはどういうことか?」においてよく引用されるポパーの論では、「証明されたものの集まりが科学」なのではなく、「反証可能性を備えた仮説や理論が、暫定的に受け入れられて成り立っているのが科学」とされます。
しかし、反証できるのが大事と言っても無限に疑い続けることは人間にはできないので、どこかで線引きして「疑うのをやめる」ことが現実的には必要です。
そのため、科学において、疑う程度を現実的な範囲に限定するために「専門家集団が信用できるものとそうでないものとの境界を定めてコンセンサスを形成しようとする」働きが「豊かさ」であり、それが土台になっているとして、対して「際限なく疑って細分化を進めていく」働きを「正しさ」であるとしています。
このように「科学」においても実は「豊かさと正しさ」の両方が機能しているのに対して、今のアカデミアで平時から重視されているのは「正しさ」の側であることについて、過去動画などで説明してきました。
ではコロナワクチンについてですが、ワクチンの支持派も懐疑派もいて、支持派は例えば「ワクチンの製造方法は理論上安全であるという専門家のコンセンサスがあり、数万人規模の治験によって有用性が示されたから大丈夫だろう」と考えて、懐疑派は例えば「新しい方法で急速に開発されたワクチンであり、長期的に予期していない副反応や悪影響が表れる可能性も否定できない」と考えたとして、これはどちらもおかしくはありません。
ただコロナ禍において起こったのは、平時は「疑うこと」が科学的だとされていたのが、有事には急に「信じること」が科学的だとされやすくなり、つまり、普段は「疑う側」として正当性を得ていた人たちが急に「信じる側」に鞍替えしてパターナリズムを強めたような事態でした。
例えば、「信じること」も「疑うこと」もどちらも同程度に重視する中立的な人がいたと仮定するとして、その人は普段は「疑わない」ことで非科学的だとされて、しかしコロナ禍においては同じ人が「信じない」ことで非科学的だとされることになります。
当時の空気感として、先の見えないコロナ禍のなかで「科学によって問題が解決すること」に期待をかけたかった気持ちはよくわかるし、ワクチンがこれまでになかった方法で急速に開発・量産され全世界に行き渡っていったのを見て「科学の凄さ」を称賛したくなった気持ちもわかります。
しかし、ファイザーやモデルナのようなアメリカの大手製薬会社にしても、そんなに褒められない部分ももとからあった企業だったのに対して、普段はグローバル企業の悪事を問題視したがるような人たちが急に鞍替えしてその手の企業を人類の救世主のように奉ろうとするようになり、「いやお前らパターナリズムとかに批判的な側じゃなかったんかい」と言いたくなってしまうようなことも起こっていたと思います。
平時には政府や巨大企業に懐疑的な態度で正当性を勝ち取ろうとしていた人たちが、特定の条件が揃ったときにパターナリズムの側に急に回ろうとするのは、「いじめ反対」みたいなことを言っている人ほど条件が揃ったときにいじめる側に回ろうとするような人間の醜悪さが現れたようなところがあり、当時のコロナ禍における公衆衛生ファシズムなどにそういった部分がなかったわけではないと思います。
有事の際に「全体最適」が強められるのは、仕方ない部分があると同時におかしなことでもあり、あるいはメディアなどに扇動されにくい正気の人ほどおかしさを感じたかもしれません。
ただここでは、「おかしなことが起こっていた」と考える一方で、「仕方がなかった」という部分にも着目しようと思っていて、以降では「有事の際に社会がパターナリズムを強めなければならなかった事情」についても説明します。
有事の際だから「科学という権威」が必要だった
ここでは、コロナ禍においてパターナリズムが急に強められたことについて、おかしなところがあったと考えると同時に、「仕方のない事情もあった」と考えています。
なぜなら、統制の欠如による混乱もまた大きな問題をもたらすからで、一例として、新型コロナの影響が話題になり出した2020年の2月頃は、トイレットペーパーが在庫切れになりがちでした。
日本ではトイレットペーパーのほとんどが国内生産されていたので長期的に品薄になる可能性は低かったのですが、不安に思って買い占める人がいるから必要な人に行き渡りにくくなり、そのような状況だから自分も多めに持っておかないと不安に思う人が増えて、トイレットペーパーが店頭に並ばないような状況が続きました。
秩序が失われると混乱が混乱を生んで社会が大変なことになる場合があり、そのような混乱の連鎖と比べれば、「嘘の権威でもいいから方針が決まっていて統制が取れていることに意味がある」という考え方もあります。
嫌な例をひとつ出すと、もし仮に「もうすでに医療は崩壊していていざというときに救急車がこなかったり適切な治療が受けられない」ような状況だったとしても、「医療は崩壊していない」という嘘をみんなが信じてさえいれば、不安に思いながら過ごすことも混乱することもなく、「いざというときに助からない人」の割合が小さいならば社会全体の安定は保たれるかもしれません。
不安や混乱による機能の麻痺がないほうが、医療のパフォーマンスも維持され、結果的に助かる人が増えるかもしれません。
対して、助からない少数を無視せずに「真実を暴こうとする」のは「正しい」ことなのですが、曲がりなりにも上手くいっている状況を解体しようとすることになります。
つまり、「間違ったものが信じられて安定している状態」と「間違いをなくそうとして統制が失われた状態」とで、前者のほうにメリットが多い場合もあり、「社会を安定させるための嘘」が求められる状況もあるということです。
そして、社会が混乱しそうなときほど何かを信じさせる権威性やパターナリズムを強める必要があるとして、しかし伝統的な権威が信じられなくなっている現代において何が権威になりうるのかというと、それが「科学という権威」だったのではないかとここでは考えています。
先に説明したようにコロナ禍においては、平時には「疑う」ことを重視していた科学が、急に「信じる」働きを強めたようなことが起こったのですが、それはそれで社会に求められてそうなった部分があったと見ます。
「嘘でもいいから何らかの信じられるものによって社会を安定させる必要がある」状況において、その「何らかの信じられるもの」の役割を「科学的権威」が担うことになったのは、当時の社会状況を考えればやむを得ないところがあったと思っています。
尾身茂さんの『1100日間の葛藤』によると、厚労省は最初は専門家が独自見解を出すことに難色を示していたものの、態度が急変して、「専門家が前面に出ることを期待するような雰囲気が政府内にはあった」と回顧されています。
当時求められていたのは、専門家が提示する科学的事実というよりは、「専門家がそう言っているから」という形で人々を納得させる科学的権威だったかもしれず、その点においては、先に批判してきた西浦教授のやり方にしても、政府や官僚と利害が一致してそうなった部分もあったかもしれません。
この動画では先に『コロナ対策の政策評価』という書籍を引用し、「接触8割削減」の結論を出した数理モデルに対する否定的な見方を紹介してきて、科学としては疑問視すべき点が多いやり方だったと見ていることに変わりはないのですが、ただ一方の論点として、最初の緊急事態宣言が出された2020年4月の時点ではコロナは未知のウイルスであり、予想を超える感染の仕方をするかもしれないと懸念されていた状況でもありました。
「コロナはマジでヤバい可能性があるから国民全員がかなり気をつける感じでやっていこう」というのが当時の民意や空気感であり、政治家や官僚ももともとその方針で行くつもりで、それを補強するための科学的権威として「警戒を強める意図の数理モデル」が注目された……みたいな部分もあったかもしれないと思っています。
先に、「命の大切さ」を強調するようなメッセージを専門家が発する道義的な正当性はないと述べたのですが、一方で緊急時にはそれが正当化される場合があり、例えば災害で命を落とすリスクがある状況においては、「すぐに避難しろ・とにかく命を守る行動をしろ」みたいな強い言葉で人を動かそうとする必要があります。
科学にとっては検証や反証ができることが最重要であっても、目の前で人が死のうとしているときにちゃんと記録を残すことを優先する……というわけにもいかないので、緊急時に限っては「検証可能性」の軽視が許されるかもしれません。
ではコロナ禍のような状況において、いつまでが「検証可能性の軽視が許される緊急事態」だったと見るべきかですが、もちろん意見が分かれる論点ではあるものの、個人的には、西浦教授の「8割削減」や「何もしなければ約42万人死ぬ」などの発言が注目され最初の緊急事態宣言が出された2020年4月くらいの段階においては、専門家が自身の判断で「強く警告的な発言をする」ことにも一定の正当性がある緊急事態だった、と見てもおかしくはないと思っています。
このような事情を踏まえるなら、先に批判してきた専門家会議や西浦教授のやり方も、まだ感染症の実態が十分にわからず、深刻な被害が生じる可能性も否定できなかったコロナ禍の初期段階においては、正当性を持っていた部分もあったと考えます。
しかしながら、初期段階を「緊急事態」とすることに一定の正当性があったとしても、2年も3年も「緊急事態」を続けていいわけがなく、専門家の強い介入が例外的に許されやすくなる「緊急事態」の長期化が意図されたことなどに関しては、批判されてしかるべき部分が多くあると思っています。
科学的だが専門的になりすぎない方法
ここまで説明してきたように、たとえそれが「実は科学的な方法に則っていない科学という権威」だったとしても、コロナ禍において果たした役割はあったと考えています。
しかしながら、それは「科学に対する世間の信用」を消費して行われた側面もあったわけで、これからさらに科学の信用が失われていけば、「有事の際に科学的権威によって統制を強める」というやり方も次はできなくなるかもしれません。
また、「正確な情報が必要だから」専門家が重視されるのに対して、いざというときに重用された専門家が、客観的な事実よりも「自らの影響力の最大化を意図する情報」を提示しようとして、そこに科学的正当性が集約されてしまうなら、そのような社会の仕組みは大きな脆弱性を抱えていることになります。
コロナ禍は対応を誤っても何だかんだで収束した問題だったと思いますが、これから社会の根幹を揺るがすようなより深刻な問題がやってくるかもしれないとして、今の「科学」が問題に対処するために適切に働くとは限りません。
つまりここでは、インフラや医療など今の社会の様々なものが限界を迎えようとしているのと同様に、「科学」もまた機能不全に陥ろうとしている……という見方をしています。
この動画では先に、「非専門家(低品質だが完結性のあるローカル)」と「専門家」との「対立」を設定することで、専門の細分化に向かいやすい現状に対して、専門家への依存度を下げる「完結性」のほうに関心を向けようとする狙いがあることを説明してきました。
「科学」にもそれが必要と考え、そのためには、「科学的だが専門的になりすぎない」地点を設定しようとします。
専門的分業システムが前提の今の社会において、「科学者」と「専門家」はほとんど同義ですが、「汎用性を重視するジェネラリスト(非専門的)でありつつ、科学的であることを重視する」というあり方を想定できないわけではないし、むしろ科学の信頼性を再構築するためにそれが必要と考えます。
先に、検証や反証のためには「収集方法→収集されたデータ→結論」をわかりやすく親切に提示することが必要という話をしてきましたが、それは「メリトクラシー」や「専門の細分化」が進むことでむしろ失われてしまうので、現実的に「検証可能性」を高めるためには、これからは「非専門的(完結的)」な方に寄せていく必要があると考えます。
この詳細については今回の動画内では説明しきれず、以降に出す動画で説明していくつもりなのですが、「非専門的な方法(完結的な方法)」というのは、「何をしているのかがわかりやすく親切であること」を重視し、生活インフラのような「多数派」が必要とするものから手を付けようとします。
このチャンネルの「豊かさと正しさの相反」という見方において、「すべての人」と「個人」が「正しさ」で、「多数派」が「豊かさ」になるのですが、「土台」になる「豊かさ」を強めようとするならば、「多数派にとってわかりやすく親切なもの」を高く評価しようとすることになります。
「科学」に関して言えば例えば、「一握りの優秀な人間にしか理解できない複雑な理論」みたいなものが「正しさ」において高く評価されがちなのが今の社会であるのに対して、「属人性を排して運用できる仕組み」や「基礎的なデータを安定して収集できるインフラ」などをより高く評価しようとすることが「豊かさ」に繋がりやすいという考え方をします。
例えば感染症のような問題に対しても、特定の専門家の予測や判断に依存するよりも、隔離生活をしやすい住居や病床の供給力、感染者数や人の流れのような数値を計測しやすい社会設計といった、インフラ的な部分を高く評価することが重要と考えます。
なお、今回の一連のシリーズでは「不正研究」の問題についても論じてきて、「実験」で再現性を確認しにくい文系の研究は理系よりもさらに信頼性が低くなりやすいと説明しました。
専門が細分化して相互レビューが機能しなくなり、なおかつ競争で成果を出さなければならない状況において、少人数のチームや個人の研究者が出す調査結果の信頼性が高いとは普通は見なしにくいし、現時点ですでに社会科学系や人文系は世間からの信用を失っている面もあると思います。
「個別性に正当性を与える近代のイデオロギー」を相対化して冷静に考えれば、本来は「社会調査」のようなものほど、少人数でやらずにインフラ面からアプローチしたほうが長期的に信頼できるデータを蓄積しやすいはずです。
これらの点を踏まえれば、「科学」のための検証性や反証性を重視するからこそ、「少数しか理解できないこと」に過剰な正当性を与えるのではなく、「多数派が理解しやすいこと」を評価し、「科学的だが専門的になりすぎない領域」に目を向ける必要があるのではないか、ということになります。
今回の動画では先に、「今の医者がいなくなっても社会から医療自体が消えて非文明的な医療水準にまで退行するわけではない」と述べましたが、同様に、「今の科学者がいなくなっても社会から科学的な思考そのものが失われるわけではない」と考えます。
「科学的なアプローチ」自体は特定の誰かの専有物ではなく、「非専門家」であっても「科学的」であることができないわけではありません。
このように、ここでは「非専門性」に目を向けることを意図するのですが、しかしながら、「科学や学問において、専門的であろうとするよりも汎用的・総合的であることを重視する」という考えから多くの人が思い浮かべるのは、いわゆる「陰謀論」と呼ばれるものかもしれません。
そのためここからは「陰謀論」について話していきたいのですが、結論から言うとこの動画では、「科学を否定すると陰謀論になる」のではなく、「科学的権威への信奉から陰謀論が生まれる」と考えます。
俗な言い方をするなら、「陰謀論者」は「科学的権威」に対する「反転アンチ」のようなものだと見ています。
「反転アンチ」というのは、タレントやアイドルなどに対して愛憎が反転して「もともとファンだったからこそ強いアンチになる」現象のことです。
今の専門家に懐疑的な意見に対して、「科学を否定するの?じゃあお前は水道や電気などの科学の成果を使うなよ。自分より遥かに頭のいい人たちが試行錯誤して取り組んでいる問題に対して、どうして何の専門性も資格もないお前ごときの意見が通用すると思っているんだ?」みたいなことを極端に言いたがる権威主義的な人たちを「ファン」とするなら、「実は大多数の専門家が間違っている」みたいなことを極端に言いたがる人たちは「科学的権威の反転アンチ」のようなもので、両者に共通するのは「科学的権威」を前提として強く受け入れていることです。
この論点について以降で説明していきます。
陰謀論について
ここから、具体的には「反ワクチン」や「財務省解体」のような話題を扱いたいと考えているのですが、それぞれの考え方があるなかで「お前のそれは陰謀論だ」というのはもちろん失礼にあたり、「陰謀論」は扱うのが難しい話題ではあります。
「コロナワクチンは実は言われているよりはリスクが大きくベネフィットが少ないのではないか?」とか、「今の経済学が主流としているものとは別の経済の見方があるのではないか?」という問い自体は、陰謀論と言うべきでない科学として正当な問いであり問題提起です。
ただここでは「陰謀論」とするものの特徴として
水面下で「悪意」や「統率」が強く働いていると想定されること
「大多数の専門家の常識が実は間違っている」と主張されること
を挙げたいと考えます。
これらは陰謀論の特徴と一般に見なされているものと思いますが、しかし歴史を振り返ったとき、上記に当てはまる陰謀論とされていたものが実は本当だったという事例もないわけではないので、陰謀論を完全に否定するのは難しい……というのもよく言われることだと思います。
この動画で先に述べてきたように、日本のコロナ禍では、科学が信頼できるという前提のもと重要な局面で重用された専門家のふるまいに杜撰な部分や利己的な部分があり、にもかかわらず他の科学者がそれを十分に批判するわけでもない状況だったわけで、それに鑑みればコロナワクチンに対しても、「実は杜撰なやり方がされているのではないか」とか「製薬会社の利害に沿ったやり方がされているのではないか」という疑念や不安を人々が抱くのもおかしくはないかもしれません。
しかしそれが、「大規模で統率の取れた悪意や利害によって行なわれている」みたいな主張にまでなった場合は、一般に「陰謀論」的だと見なされると思います。
たしかに製薬会社や関連業者には自社の利益を追求しようとする傾向があると思いますが、各国家や研究機関や病院や競合企業などをすべて欺いたり抱き込んだりして研究データを改ざんできるかというと、もし仮にそんなことが可能な力を持っているなら、ウイルスを流行らせて危険なワクチンで儲けるみたいな回りくどいことをせずにもっと直接的に世界を支配できるはずです。
また、官僚は利権を作りたがる傾向があるかもしれませんが、財務官僚が自らの利益のために悪意を持って日本を衰退させようとしているかというと、利害を考えるならば官僚は基本的には自国が発展したほうが得だし、多少なりとも日本を良くしたい気持ちがあるから官僚として働いている場合が多いと思います。
特定の人たちの強い悪意や利害が問題の主因だと感じるなら、そのようにしてわかりやすい悪者を見出そうとする心理が働いていないかを疑うべきかもしれません。
何らかの問題の説明に安易に「陰謀」を持ち出してしまうのが「陰謀論」であるとして、ここではそのようなものを肯定的に見ようとはしていません。
ただ、「陰謀論を肯定的に見ない」という前提の上で論じたいのは、「陰謀論」的な考えが支持される理由として、「陰謀論」には、「個別最適」に向かっていく今の社会の問題を、「個別最適の否定(全体最適の追求)」によって打破しようとする志向性があるのではないか……という見方をしていて、それについてこれから説明したいと思います。
陰謀論が向かう先は、「専門家」にとっての「最悪」かもしれません。
例えば「ワクチンの否定」がより極端になり、乳幼児に必須のワクチンまで拒否されて乳幼児死亡率が増加しようものなら、医療従事者にとっては悪夢のような事態だと思います。
あるいは「財務(プライマリーバランス)の否定」が極端になって、これまで国民が貯めてきた資産が吹き飛ぶような過度なインフレが起こることは、財務省や日銀にとっては「最悪」です。
しかし一方で、今の社会のこのままの延長にも「最悪」があります。
少子化で次世代が減って社会のあらゆるものが維持できなくなっていくなか、老老介護のような逃げ場がなく救いのない問題に多くの人が閉じ込められ、未来に希望を持てず憎しみと混乱が蔓延する社会にこれから向かっていくだろうという「最悪」が、今のこの社会の延長にあります。
それに対して細分化された専門家は、自分の専門の「個別の最悪」を回避しようとするかもしれませんが、そうやって各々が全体最適よりも個別最適を重視するからこそ、「全体にとっての最悪」の問題に向き合えなくなっている・あるいはその問題が酷くなっていく面があります。
一方で「陰謀論」というのは、それが暗に志向しているものとして、「個別の最悪」を許容することで「全体の最悪」を回避しようとするようなところがあるかもしれないと、ここでは考えています。
ワクチンが否定され死亡率が増加することは近代医療の失敗と言うべき「最悪」の事態ですが、「社会の継続」という「全体最適」的な観点において、生き残った健康な人の負担が減るという側面も否定できないかもしれません。
あるいは、財務が否定され貨幣価値が暴落したとして、様々な混乱が起こり生活水準も低下するかもしれませんが、労働力を有する現役労働者が有利になることで「社会の継続性」においてプラスに働く可能性がないとは言えません。
より抽象化・一般化して言うなら、何らかの知的なものや高度なものに懐疑的で「反知性主義」と言われることがある態度にしても、「個別最適」よりも「全体最適」を重視しようとする点において一定の合理性を持っているかもしれません。
そしてこのように考えるなら、陰謀論には、染まった人たちがそれを意識しているわけではなくとも、暗に「個別の最悪」よりも「全体の最悪」のほうをより重く見ようとする意図があることを認められるかもしれません。
ただ繰り返し言うようにここでは陰謀論に肩入れしたいのではなく、むしろ陰謀論を、「全体の最悪」の問題を重く見ようとする志向を持ちながらも、「個別最適が全体の問題を解決する」と考える倒錯した近代社会の前提をちゃんと疑うことができていないものと見ています。
このチャンネルの過去動画では「最大と最小が接続する正しさの倒錯」の問題を何度も扱ってきました。
「正しさ」は「個別」に向かう性質のものが「全体」の問題を解決するという倒錯した考えをもたらし、それは「中間の欠如(社会の空洞化)」を進めて旧来社会の蓄積を消費しながら、「細分化を進める専門家」に実態以上の評価を与えることになります。
そして、そのような「正しさの倒錯」による「専門的権威」をちゃんと疑えないまま、「正しさ」が起こす「個別最適によって全体の問題を扱えなくなっていること」の問題にアプローチしようとすると、「陰謀論」的な考え方をすることになってしまいやすいと見ています。
一般に陰謀論とされるものによくある形としては例えば、「大多数の専門家の常識が実は間違っている」と主張する、形式的には肩書きや権威性が他の専門家と同等の専門家などがいて、そのような学者の提示する「新事実」が注目され一定数の人に支持される……みたいなことが起こります。
しかしながらそれは、今の専門家に対する疑念がそうさせるものではあっても、結局のところ「個別最適の追求によって全体の問題が解決する」という「細分化された専門的権威」の前提に無批判であることは変わらないと考えます。
その上でここで問題にしたいのは、「何らかの新事実であれ新理論であれ、それによって全体の問題が解決するわけでもないのではないか?」という点です。
ようするに「陰謀論も結局は個別最適に向かっているのではないか?」という指摘になります。
例えばコロナワクチンに関して、「接種のリスクよりもベネフィットが上回る」という専門家のコンセンサスに対して、「実はリスクのほうが大きい」という「常識を覆す新事実」を認めさせようとする試みが、もし仮に最大限に成功したとして、それはスゴいことだし重要なことだと思いますが、ただそうなったとしても「社会がコロナウイルスに自然感染するリスクを抱えた状況であること」自体は変化しません。
あるいは、主流経済学の常識を覆す「経済学のコペルニクス的転回」が仮に起こったとして、それももちろんスゴいことだと思いますが、従来の見方をしようとMMT的な見方をしようと結局のところ政府支出がインフレのリスクに制約されることは変わらないし、「日本はすでに歳出が税収を上回る状態が長く続いていて、生産年齢人口や供給力の低下によって状況が年々厳しくなっていること」自体は覆りません。
もちろんワクチンにしても経済理論にしても軽視すべきでない非常に重要な問題なのですが、しかし、「それが社会全体の問題を解決する」という期待が込められて提唱されることに関しては疑問で、もし仮にその試みが最大限に成功したとしても、日本社会全体が抱える問題に対してはそこまで影響がないかもしれません。
つまり、「これまでの専門家の常識を否定する新事実」みたいな形で停滞を打ち破るためのものとして期待が集まっている論であっても、結局は「個別最適」的であり、「個別最適の成果が全体の問題を解決する」と考えてしまう「細分化のデメリットを考慮しない専門的権威」の問題はそのまま引き継いでしまっているのではないか……ということです。
そしてそのような点を見て、専門家を盲信する権威主義者が「ファン」であるとするなら、専門家の常識を疑う陰謀論者は「反転アンチ」のようなものであり、どちらも「専門家の力を過剰に見積もっている」という点においては根っこの部分が共通していると考えています。
ちなみに、科学者であるほどむしろ「科学が一気に問題を解決する」みたいな幻想は持っておらず、「自分がやっていることは個別最適だな」くらいのメタ認知はあると思います。
しかしだからといって、「個別最適が全体の問題を解決すると考える倒錯から来る専門的権威への信奉」のような、科学への公的支援を正当化する自分たちに都合のいいものをあえて否定しようとはしにくいかもしれません。
無理やり喩えるなら、アイドル当人はアイドルに対して幻想を持っていなかったとしても、「アイドルに恋人がいるなんて当たり前だから幻想を持つなよ」と積極的に口にするアイドルは多くない……みたいな話になります。
そして、ここまでの「陰謀論者は専門的権威の反転アンチ」という比喩で言いたかったのは、「専門家が支持されなくなれば世界から科学が失われて陰謀論者ばかりになる」という考え方は、「ファンビジネスがなくなれば世界から愛が失われて反転アンチばかりになる」と考えるくらいおかしなものだということで、「愛を利用する産業」と「人を愛すること」が別であるように、「科学的権威を利用するアカデミア」と「科学をすること」は別であるはずです。
権限をめぐって対立する必要がある
「専門家と非専門家の対立」の話のまとめに入りますが、ここでは「対立」が必要であるとしているものの、陰謀論と呼ばれやすい「専門家が実は間違っている」と主張するようなやり方ではなく、「もっとまともなやり方で対立しようとしたほうがいい」と考えます。
そもそも、「専門家は実は間違っている」みたいな論を素人が展開したところで勝負になるはずがありません。
この動画で先に説明したように、現代社会の「専門的分業システム」自体は非常に完成度の高いものであり、特に「専門家集団が共有している同質性・専門家のコンセンサス」の部分において専門家が間違っている場合は稀だと思います。
「専門的な能力」の部分で「非専門家」が「専門家」と争おうとしてもまったく勝負にならないのですが、ただ一方で、「能力」では勝負にならなくとも、「権限」をめぐる対立ならばちゃんと争点は発生するし、対立を起こす意味もあると考えています。
例えばこれから、医療過疎が進んで医療へのアクセシビリティが低下していくとき、「AIを使った専門家に頼らない医療システム」を構築しようとする試みを専門家が何かしらの理由をつけて妨害する(あるいは権限を独占したまま十分に進めようとしない)ならば、それは国民が持つ「生存権」などの権利侵害にあたるかもしれず、そのような部分においては「能力差(メリトクラシー的正当性)」と別のところで「専門家と非専門家の対立」は成立します。
また研究に関しても先に述べたように、「優秀な人間が普遍的な科学の発展に貢献することが素晴らしいから」ではなく、「それが国民全員に利するから」というのが大学などの場所が公的に支援される根拠であり、民主的な同意がすでに失われた状態で一部の人たちの学問が優遇されることは、それに同意しない人たちに不利益を強いることになるので、その部分に関しては「対立」が成り立ちます。
今回はコロナ禍の問題を扱いましたが、大衆の何となくの感覚として、日本には優秀な専門家が多くいて、社会が危機的な状況になったときは各分野の優秀な人たちがオールスターのように集まって問題に対処してくれるだろう……みたいな漠然としたイメージが、専門家の公的支援に対する同意を後押ししていた部分があったかもしれません。
対して実際にコロナ禍で活躍した専門家のふるまいは、大衆の事情を軽視するものでありながら科学としても杜撰な部分があり、さらに、そのことが他の科学者からちゃんと批判されたかというと、専門家同士が相互不可侵を固め合う構造によって、科学の信頼性を支えるための相互批判が十分に機能していなかった部分もありました。
大衆の側からすれば、これまで専門家に対して資金や敬意を支払ってきたのに、科学的知見が切実に求められた「いざというとき」に納得できないやり方をされて、ちょっと話が違うような、契約不履行をされたような気持ちになった人も一定数発生した……というのが、コロナ禍においてより表面化した科学や専門家に対する不信だと思います。
専門家の側にも言い分はあり、例えば「枠組みを作るのは政府や行政なので、そこが予算や権限をくれないと何もできないし、大学や研究機関も色んな雑務などで疲弊していて余裕がなく柔軟に動けない」というような主張をおそらく専門家はしやすく、それは実際にその通りでもあると思います。
各々に事情があり、ここでは特定の専門家が悪いという見方をしているわけでもないのですが、しかし構造的な不健全さがあるとも考えています。
一方が「話が違う。契約不履行だ」と言って、もう一方は「もっと金を出さないとまともな対応はできないですね」と言っている感じで、どちら側の言い分もあるにしても、今回の一連のシリーズで説明してきたように、「自分たちに一切問題はなく政府や国民が科学に対して無理解であることが問題」みたいな考え方をしがちなのが今のアカデミアで、ではその人たちの言い分を聞いて「もっと金を出すこと」で状況が良くなるかというと、そうはならないと見ています。
「話が違う」と感じた側が「契約し続けるかどうか」を選べる「別の選択肢」があったほうが健全で、この動画で最初に述べましたが、「対立」は危険なものである一方、企業の独占や寡占が問題視されるように「対立」がまったく起こっていない状況にも問題があり、現在のアカデミアのような場所に対してそれと対立する枠組みが必要になると考えています。
「対立する枠組み」についてはこの動画で先に述べてきて、現状の科学が「専門家が重視される専門的分業システム」であるとするなら、それと対立するのは「専門家がいないローカルでも完結的に機能するシステム」だと考えています。
ここでは「専門的であるよりも非専門的であるほうが良い」と考えているのではなく、「競合」がいなければ腐敗していくしパフォーマンスも出にくいという考え方をしていて、「専門的な枠組み」と「非専門的な枠組み」が「対立」し合っている状態が望ましいとしています。
このシリーズの前の動画では、「対立の前提として客観的な事実の検証が必要」という考え方は機能せず、むしろ「対立」のほうが「客観的な事実の検証」の「土台」であるという考え方を提示しました。
先に述べたように、「専門的分業システム」によって「細分化」と「競争」が進むと、「収集方法→収集されたデータ→結論」をわかりやすく親切に提示しようとする「検証可能性」が実質的に軽視されるようになってしまうので、「客観的な事実の検証」の「土台」が空洞化していくことになります。
このような問題があるとして、「土台」をしっかりさせるためには、「専門的分業システム」に対して「非専門的なシステム」が競合として「対立」して、「同質的な部分(多数派が共有しやすい部分)」に意識が向けられるようになることが必要と考えます。
そのためにここでは「科学的であるが専門的でない」ようなやり方を想定してきました。
より具体的なことまではここでは言及しきれませんが、現状の評価基準は細分化に正当性を与えすぎていて、それに対して、もう少し汎用的な科学の知識や技能を共有しやすい形で測り、アーカイブや再検証の仕事を高く評価しようとするやり方を重視しないと、科学の信用を維持することが難しくなっていくだろうと考えています。
今回の動画で最初にした「世界平和」の話から共通して提示しようとしているのは、「対立の評価」と「最大と最小によって中間の対立を制御」という考え方で、科学においても、「専門的な科学」と「非専門的な科学」の対立が評価されると同時に制御されていて、その結果として信頼性のある科学的知見が「個人」と「社会全体」に還元されている状態が望ましいと考えています。
また先に述べたように、「正しさによる制御」が失われて特定の集団の枠組みに個人が過剰に取り込まれることを警戒すべきと考え、その点において「専門家への盲信」や「陰謀論」は問題があるという見方をしています。
まとめると、現状の「専門的分業システム」や「近代科学」は成功したやり方なのですが、「最大と最小が接続する正しさ」において「普遍性」と接続されるゆえの「個別最適」が強まり、同質性という社会の土台が切り崩され空洞化していきます。
それに対して、「全体最適」的な同質性に関心を寄せようとする「非専門的なシステム」が現状の仕組みと「対立」する必要があり、そのような「専門家と非専門家の対立」については、むしろ対立がちゃんと起こっていないことに問題があるという考え方をここではしています。
以上のように、この動画では「対立」が強すぎることも弱すぎることも問題だと考えていて、ここまでは「起こっていないことを問題視する対立」の話をしてきました。
一方で、ここからの内容では、「強くなりすぎることを問題視する対立」の話をするつもりで、それは例えば、世代や男女の対立になります。
世代対立や男女対立はこれから否応なく強まっていくと見ているのですが、このような対立に関しては強まりすぎることを警戒すべきと考えています。
以降ではそのような「強まることを良しとしていない対立」の問題を扱っていきます。
【公正な社会を目指すべきか?】
「就職氷河期世代」と「女子枠」?
これから「世代間対立」や「男女間対立」の話をしたいのですが、ここまでの「専門家」対「非専門家」と同じくらいの量で語ると動画が長くなりすぎてしまうので、当初の予定を変更して短縮した形で述べることにします。
そのため以降では、やや奇妙なやり方に思われるかもしれませんが、「世代対立」と「男女対立」を短縮しながらまとめて論じるために、「氷河期世代と女子枠の共通点」という話をしたいと思います。
まずは就職氷河期世代の話をしていきたいのですが、以降の内容は、主にデータの部分を『就職氷河期世代』、分析の枠組みの部分を『日本社会のしくみ』という書籍を参考にして述べます。
就職氷河期問題は、今もなおそれに強い感情を抱いている人が多くいて様々な論点のあるトピックですが、動画の尺の都合上、簡易的な説明に留まってしまうことはあらかじめご了承ください。
まず、「日本の就職氷河期問題」を語る前提として、社会の近代化が進むと一般に「高学歴化」と「自由化」が起こって、それが「就職難」をもたらします。
例えば「大卒・高卒・中卒」のようなヒエラルキーがありそれによって職域や賃金が決まりやすい社会だったとして、その社会がより近代化して「大学進学率が上昇」したとき、「大卒」の増加分ほどは「産業構造(必要な仕事内容)」が変化しないことがあり、つまり「大卒」の採用枠が変わらないまま「大卒」の数が増えて就職難になることがあります。
このような場合に、「大卒」の職域が拡張され「これまで高卒がしていた仕事を大卒がするようになる」という形で対処されることがあるのですが、これは構造上しかたのないことでも、転換期にいる世代は「大学を出たのに高卒がやるような仕事をするの?」という上の世代の認識とのギャップに苦しめられることになります。
また、「自由化」も競争を加速させ就職難をもたらしやすく、例えば「高校の担任の先生や大学のゼミの先生の紹介がなければ就職活動の入口に立てない」みたいな不自由な時代は、理不尽ではあってもそれによって過剰競争が抑えられていた側面がありました。
対して、自由に就職先を選んで応募できるようになるほど競争が起こり、極端に言えば、1人が1社しか応募できない場合は倍率が1倍ですが、10人がそれぞれ10社に応募すれば倍率が10倍になります。
そして10人のうち、複数の内定をもらう人と1社も内定をもらえずに自己肯定感を失う人が発生します。
「不自由」には理不尽の代わりに楽だった側面もあったのに対して、「自由」になると競争が起こって苦しくなるというのは、就職のみならず恋愛・結婚などにも見られ、このような「自由化」の動き自体は、グローバリスト的な政治家とか何らかの悪意によって進められるというよりは、各々がそれを良いと思って受け入れられて進むものです。
一般的に、近代化が進んだ社会では「高学歴化」と「自由化」によって「就職難」が起こり、これは日本の就職氷河期特有の問題というわけではなく、他の近代化した国でも似たようなことは起こっています。
ただ、その「高学歴化・自由化」に加えて、バブル崩壊後の不況、人口の多い団塊ジュニア世代、新卒採用にその後のキャリアを左右されやすい日本型雇用……などの諸々の要因が重なって「大変なことになった」のが日本の就職氷河期でした。
就職氷河期世代のデータと実態
まずデータの話をしますが、参考にしている『就職氷河期世代』という書籍の分類の仕方に倣うと、1993年から2004年に新卒として就職活動をした者が「就職氷河期世代」とされ、その上で、93年から98年卒が「前期氷河期世代」、99年から04年卒が「後期氷河期世代」、それ以前の87年から92年卒が「バブル世代」、それ以後の05年から09年卒が「ポスト氷河期世代」、10年から13年卒が「リーマン震災世代」とされています。
参考にした書籍によると、同じ「就職氷河期世代」と括られやすい中でも、「前期氷河期」と「後期氷河期」には大きな差があり、状況は「後期」のほうが悪かったとされています。
一方で、就職率、失業率、正規雇用割合、賃金などどの指標を重く見るかにもよるのですが、確実に状況が悪いのは「後期氷河期」なのに対して、「前期氷河期」と、氷河期以後の「ポスト氷河期」「リーマン震災世代」とを比較したとき、あまり変わらないか後者のほうが悪いデータもあります。
同じ「氷河期世代」と括られる中でも「前期」と「後期」とでかなり差があるとも言えるし、バブル期以降は氷河期を抜けた後もそれほど状況が良くなっていないとも言えます。
例えば「平均年収」を見ても、バブル以降は目立った改善が見られず、引用すると、
"
卒業15年後の段階で全学歴の平均値を比べると、バブル世代の平均年収は477万円なのに対し、氷河期後期世代は415万円と、62万円も差がついている。月あたりにして5万円、かなりの差である。一方、氷河期後期世代と、もっと若い世代の差は、データの取れる範囲ではおおむねプラスマイナス10万円の幅に収まっている
"
とあります。
なお、若い世代ほど卒業後のデータがまだ取れないことには注意が必要で、近年の新卒の給料で景気のいい話が注目されたりもしますが、しかし、過去よりも日本円の相対的価値が下がっているし、現役労働者に対して福祉受給者が多いことによる社会保障費の負担の不均衡などを加味すれば、世代人口の少ない新卒の給料が高くなったからといって必ずしも恵まれているとは言えないかもしれません。
物価上昇や社会保障費の負担などを加味した実質的な「手取り」で言えば、氷河期世代だけが凹んでいるというよりは、バブル以降は基本的に厳しい状態が続いています。
もっともここでは、「年収」や「手取り」など労働市場の各指標に必ずしも表れるわけではない、定性的な面での氷河期世代の状況の悪さがあったとも考えています。
例えば「社会のあり方や労働環境がどれだけブラックだったかの度合い」は、今よりも氷河期世代が若年層だったときのほうがずっと酷かったと考えられます。
先に、近代化が進んだ国では「高学歴化」と「自由化」が起こって「競争」が過剰になりやすいと述べましたが、同時に、個人の自由や権利や多様性に配慮し、暴力や理不尽を否定しようとするのが近代的な考え方の特徴です。
つまり近代化は個人にとって、「競争が過剰になる」というデメリットと「権利が守られる」というメリットを同時にもたらします。
説明のために過度な単純化をしますが、仮に「就職などの競争が楽な度合い」みたいなものを無理やりひとつの尺度にまとめて一本の線で表現するとして、それは近代化が進むほど「右肩下がりになっていく(悪化していく)」と考えます。
対して、「個人の権利が尊重される度合い」みたいなものもひとつの尺度で表現するとして、これは近代化が進むほど「右肩上がりになっていく(良くなっていく)」と考えます。
このように図で表現して氷河期世代とそれ以降の世代とを比較すると、他の条件が同じだったならば、氷河期世代は本来は「権利が尊重される度合い」が低い代わりに、「就職が楽な度合い」はまだマシだったはずです。
しかしながら実際のデータを見ると、「就職が楽な度合い」は後の世代よりもマシだったはずの氷河期世代が、何なら氷河期世代だけ凹んでいます。
つまり、近代化の進み具合からして、本来ならば「権利が尊重されない代わりに就職が楽」だったはずの氷河期世代が、「権利が尊重されない上に就職まで悪かった」ことになります。
労働市場の各種データを見たときに、氷河期以降の世代からすれば「就職率などが悪いには悪いがそこまで言うほどか?」となるかもしれませんが、「まだ社会がブラックだった(近代化がそこまで進んでいなかった)」状態で、近代化の副作用である「過剰競争による就職難」に直面したのが氷河期世代で、社会のブラックさのような要素は労働市場の指標では拾いにくいこともあり、定量的なデータに表れやすい以上の定性的な氷河期の状況の悪さはあったと考えています。
では「近代化が進みきらないまま過剰競争」になった原因は何かというと、これはよく言われているようにバブル崩壊後の不景気、同世代の人口の多さ、御恩と奉公のような封建的な部分を残した日本型雇用の仕組みなどがあり、「不自由な社会」の閉鎖的・暴力的でブラックな環境がまだ強く残った状態で、「自由な社会」の過剰競争に直面しやすかったのが氷河期世代でした。
つまり「自由な社会」と「不自由な社会」の悪いところ取りのようなことが起こりやすかったのが氷河期世代が若手だった時期で、例えば「自己責任」というのはその象徴のような言葉であり、この言葉を蛇蝎のごとく嫌っている氷河期世代は今も多くいるかもしれません。
就職氷河期に関する誤ったイメージ
先に説明したように就職氷河期の状況が悪かったことは大前提として、ただ氷河期に関する言説は、実態とは異なるイメージがSNSや掲示板などで共有され強まっている部分もあると見ています。
氷河期問題についてよく語られる典型的なイメージは、「かつて正社員になるのが当たり前の社会があったが、新自由主義的な政治家や政府の無策無理解のせいでその当たり前が奪われ、いつまでも正社員になれない非正規雇用者が急増してそれが今も尾を引いている」……といった感じのものだと思いますが、実はそのようなよくあるイメージと実態が乖離している部分もあります。
まず、「かつて正社員になるのが当たり前の社会があった」というイメージについて、『日本社会のしくみ』という書籍で引用されている経産省の資料では、「正社員になり定年まで勤めあげる」という生き方をした男性は、50年代生まれで34%、80年代生まれでは27%くらいだろうと推計されています。
つまり「正社員になり定年まで勤めあげる」という生き方はその最盛期ですらおよそ男性の3人に1人で、少なくはないが当たり前とも言えない数字です。
その上で、「正規雇用」で働く日本人の総数ですが、1984年も2016年も約3300万人で、その間に多少の増減はあっても長期的にはあまり変化がありません。
対して「非正規雇用」で働く人の数は近年になるほど増えています。
つまりここ数十年の日本で起こったことは、「正社員」の数はあまり変わっていないのに「非正規雇用」の数が増えて、それによって「全雇用者に占める非正規の割合が上がった」のですが、ではその「増えた非正規はどこから来たのか?」というと、『日本社会のしくみ』という書籍によると、自営業主と家族従業者が減って「雇用労働者」自体が増えたとされています。
主に起こったのは、家族経営でやっていた自営商店や自営食堂などが減り、スーパーやチェーン店で働くパートタイマーになったみたいな変化で、つまり、女性の雇用労働への参加が進み、曖昧な感じで手伝ったりしていた人も「近代化」の結果としてちゃんと契約を結んで雇用されるようになったということで、これ自体は必ずしも悪い変化とは言えず、不本意な非正規雇用とも限りません。
先に説明したように就職氷河期世代の新卒採用の状況は悪かったのですが、「本来であれば大企業正社員になれたはずの枠が意図的に削られて非正規で働かざるをえない人が増えた」みたいな典型的なイメージとは異なる見方もあります。
「大学進学率の上昇によって急に増えた大卒を既存の枠で全員は吸収できず、一方で近代化の結果としてちゃんと雇用契約が結ばれやすくなり、女性の雇用労働への参加が増えた」という変化が起こったのに対して、それを「一部の政治家や経営者がもともとあった正規雇用の枠を切り崩したから非正規で働かざるをえない人が増えた」という見方がされるなら、状況を捉え違えていることになるかもしれません。
キャリア関連の書籍を多く書いている雇用ジャーナリストの海老原嗣生氏が『「就職氷河期世代論」のウソ』という挑発的なタイトルの本を出していて、そのスタンスの是非はともかくとして、「氷河期世代の大卒男性は、新卒時は状況が悪かったものの、長期的には大半が正社員になれていて、他の世代と比べて非正規の比率が特に高いわけではない」と指摘されています。
また先に出した『就職氷河期世代』の書籍でも、氷河期世代の年収や労働条件はすぐ上のバブル世代と比べて悪い傾向にある一方で、就業率に関しては、特に状況の悪かった「氷河期後期世代」であっても、卒業から一定の年数が経つと、大卒男性で95%超、高卒男性でも90%近くと決して低くない数字になり、氷河期以降の世代と比べても就業率に大きな差がないことが指摘されています。
海老原氏の著書では、「いつまでも正社員になれない非正規雇用」というステレオタイプなイメージが氷河期特集などで報道されネットで拡散されやすいのに対して、それは実態以上に強調された部分があり、「氷河期問題=非正規雇用問題」という見方のままでは的はずれな対策がされやすくなってしまうのではないか……みたいな問題提起がされていて、その部分に関しては一理あるとは思います。
先に説明してきたように、氷河期世代が不利や理不尽を被った部分は多くあると見ていますが、しかしそうだからこそ、その憎しみの強さと世代人口の多さから来る政治的影響力によって、歪んだ見方を前提にした政策が要求されやすくなってしまう問題はあるかもしれません。
例えば、「少子化が進み年金や介護の仕組みが維持できなくなっていく」という問題は、日本のような就職氷河期がなかった他の国でも起こっているので、「特定の世代が新卒採用時に不利だった」こととは別のフェイズの問題と見るべきですが、それに対して、「政府があのとき氷河期世代を切り捨てたことで起こった問題であり、政府は氷河期世代に贖罪をするべきだ」みたいに言われ続けるなら、歪んだ認識に基づいた政策の要求が続くことになり、そのようになってしまう点においても社会に憎しみを抱く集団が生まれることの弊害は多くあると言えます。
氷河期問題についてのよくある認識として、「人口の多い氷河期世代に対してまともな経済対策がされていれば、日本の少子化はここまで進んでいなかった」という意見も、ネットなどでは共有され賛同されやすいものだと思います。
しかし、『就職氷河期世代』の書籍の第2章では「氷河期世代の家族形成の問題」が扱われていて、そこでは「若年期の雇用状況の悪化が少子化を招いたとは考えにくい」と結論づけられています。
日本の少子化は経済が好調な時期から進んでいて、氷河期世代ではむしろ出生率が下げ止まっています。
そもそも少子化は経済成長した世界中の国で起こっている現象であり、「日本政府が氷河期世代の問題に向き合わなかったせいで少子化が進んだ」という見方は妥当とは言いにくいです。
なお、先に述べた「近代化すると競争が強まる」という観点において、現在の若年層は人口が少ないので雇用に関しては過剰競争を免れていても、恋愛や配偶者選択などに関してはおそらく厳しくそれに直面していて、氷河期世代が若年層だった時期はその部分においてはまだ牧歌的なところがあったかもしれません。
繰り返し言うように就職氷河期は過酷な状況だったと見ていますが、現在は実態と乖離したイメージがネットのエコーチェンバーなどによって強まり共有されやすくなっている部分もあると思います。
そしてその上で、氷河期世代の問題に関してやや不可解な部分があるとすれば、先にデータを出しましたが、「前期氷河期」と「後期氷河期」との間にも、そこで分断が起こってもおかしくないくらいの格差が実はあり、しかしながら、約12学年分もの幅のある層が「就職氷河期世代」という括りで団結しています。
そうなる理由のひとつとして、「イージーな就職活動をしてきた上の世代」という「憎しみの対象」がいたことが大きいだろうとここでは考えます。
「就職氷河期」と「女子枠」の共通点
氷河期世代の少し上のバブル世代の新卒採用は、極端な売り手市場で、内定者を逃さないために豪華な食事や海外旅行で接待するようなバカげたことが行われていた実態があります。
このような売り手市場から一転して状況が悪くなった氷河期世代が、「生まれた時代が少し違うだけでこうも待遇が変わるのか」と強い不公平感・相対的剥奪感を感じたのは当然で、新卒採用が生涯のキャリアに影響を与えやすいものである以上、後の人生を通して憎しみがさらに育ち膨れ上がっていってもおかしくはありません。
実際に、「楽な就職活動をしてきたバブル世代」がわかりやすい「憎しみの象徴」になり、本来ならばそこで分断が生じていてもおかしくない「前期氷河期」と「後期氷河期」とを引っくるめた約12学年にわたる大所帯が「氷河期世代」として一致団結して、上の世代に対して強い怒りを表明している様がネットなどでは見られます。
しかしここでまず問いたいのは、そのように「憎しみの対象」になりやすい「接待のような新卒採用」を受けてきた人たちは、バブル世代の中のどれくらいの割合なのだろうか……ということです。
先に述べたように、そもそも「正社員になり定年まで勤めあげる」という生き方ができる男性は多くて3人に1人で、バブル以前の世代は氷河期世代よりも大学進学率が低いし、その中でも都市部の有名企業に就職する人となるとかなり数が限られます。
超売り手市場の接待のような新卒採用が行われていた実例は確かにありますが、バブル世代全体がその恩恵を受けてきたとは言い難いです。
氷河期より上の世代が常に楽をし続けてきたかというとそんなわけがなく、例えば「当時の社会のブラックさが下の世代に理解されにくい」という不満を氷河期世代は持っているかもしれませんが、「近代化が進む前の理不尽」という点に関しては氷河期より上の世代にはもっとそれがありました。
氷河期より上の世代は、大学進学率が低く学業が優秀なのに大学に行けなかった人の比率も高かったし、暴力や理不尽や伝統的な価値観の問題がより多くあり、氷河期世代のようにインターネットで不満を共有し合うこともできませんでした。
また、バブル崩壊後の停滞やその後の山一證券の廃業などに象徴される本格的な不況が起こったとき、全体的に自殺率が急増したのですが、特に当時の40代から50代の自殺率の高さが顕著でした。
リストラや会社の倒産やローンを抱えた状態での資産価値の暴落など、逃げ場のない絶望的な状況に陥った人は当時の中高年にも多くいて、バブル崩壊のダメージは氷河期より上の世代もちゃんと受けています。
一部の楽をしてきた人に注目して「その世代全体がイージーモードだった」みたいな見方をエコーチェンバー的に強めていくのは、その部分に関しては氷河期世代の側の見方が不当だと思っています。
そしてここで焦点を当てたいのは、「憎しみの象徴」になるような人たちは集団全体のごく一部であるにもかかわらず、それが「不公平感・相対的剥奪感の象徴」になることで強い憎しみが大規模かつ長期的に発生してしまう現象で、その観点において、「氷河期世代」と「女子枠」には共通点があると考えます。
「氷河期世代」の憎しみを集めている「接待のような新卒採用を受けてきたバブル世代」は、実際にはその世代全体の中のごく一部の人たちです。
同じように、「女子枠」で有名大学などに入るのも同世代の女性の中のごく一部と言えます。
しかし少数ながらも「女子枠」は、「バブル世代の就活」と似て相対的剥奪感の象徴になりうるものであり、同世代の男性の憎しみがこれから強まっていく可能性は高いと考えています。
内申点や推薦入試などにおける実質的な女性優遇、有名企業の女性活躍推進策など諸々すべてを「女子枠」に含めたとしても、その世代の女性の多数派と言える比率には到底及ばないとは思いますが、しかし、数としては少数でもそれが相対的剥奪感の象徴になるなら、現在の氷河期世代問題がそうであるように長く続く憎しみが醸成されていく場合があります。
そういった観点において、ここでは「氷河期」と「女子枠」には共通する要素があると考えます。
さらに「氷河期」と「女子枠」の共通点として、主に相対的競争の上位帯で起こる問題であり、社会的序列に執着を持つ人たちの関心事になりやすいことが挙げられると思います。
大手企業への就職や有名大学への進学に関心を持つ層は、競争に熱心で、ルールの公平性や相対的な待遇の差などを意識しやすいことが多いです。
競争において全員がトップや上位の位置につけることはありえず、「負けた人」は原理的に発生しますが、「競争の上位帯にいたが納得する結果を出せず、その上で競争が公正でなかったことに不満を感じている」人たちは、強いルサンチマンを抱えながら、全体の意見・論調の形成に影響力を与えやすい中位から上位の層ではあるので、そのような人たちにとっての「不公平感・相対的剥奪感の象徴」ができると、憎しみのこもった社会的言説が形成されやすくなります。
「氷河期」にしても「女子枠」にしても、限定された状況における一部の人たち・一時期の不公平に過ぎないかもしれませんが、新卒採用や学歴が後の人生に影響を与えやすいものである以上、その時点の不公平に対する怒りが、むしろその後の人生を通して強まっていくこともあります。
自分より能力が低く見える上の世代が自分以上のポストや給料を得ていたり、自分より能力が低く見える女性が自分以上の学歴やキャリアを得ている……みたいな不公平を日々感じ続けるならば、人生を通してその社会に対する憎しみが強められていくことになり、「氷河期」に関しては現にそのようなことが起こっている部分があるし、「女子枠」も同じことが起こる要素を持っています。
加えて、日本政府はたしかに氷河期の問題に十分に対処できなかったかもしれませんが、しかし先に説明したように氷河期の就職難は近代化による構造的必然として起こった側面があり、政府も不況に苦しむ企業などに対して無理やり人を雇えと迫るまでのことはしにくく、初見の問題にうまく対応できなかったのは仕方のない部分もあります。
それでも氷河期世代の多くは今も、「自分たちは他の世代のための捨て石にされた棄民世代」みたいな形で憎しみを強めています。
対して「女子枠」の場合、これも進学率の上昇に伴う就職難などと同じように、男女平等を目指す近代化の構造的必然として進む動きなのかもしれませんが、しかし「女子枠」に関しては、「迫りくる問題にうまく対処できなかった」のではなく、国公立大学などの公的機関が強い反対もあるなか既存の仕組みに強引に介入して「枠」を作ったりしているわけで、それを目の前にした現在の若年層男性からすれば、「自分たちは捨て石にされた」以上のことを感じてもおかしくないと思います。
現在は公的な領域で女子枠のようなことが「善いこと」として進められていますが、日本の氷河期世代問題の教訓を踏まえようとするならば、「現在の若年層男性は氷河期世代以上の憎しみを社会に対して持つようになるのでは?」という懸念はあってしかるべきです。
「世代対立・男女対立」に現状を打破する可能性はあるか?
今回の一連の内容では、「対立」が「豊かさ」を生む可能性を評価しようとする視点を提示してきたのですが、では「世代対立」や「男女対立」に「豊かさ」の可能性があるかというと、「ある」と考えます。
例えば、若年層男性が「女性」や「過度に女性優遇的な社会を作った上の世代」に強い怒りを感じている状況は、良くも悪くも停滞した構造を打ち破る可能性を持っています。
過去動画で説明した内容なので詳細は割愛しますが、このチャンネルでは、「豊かさ」は「男性」や「若年層」を優遇しやすく、「正しさ」は「女性」や「高齢層」を優遇しやすい、という見方を提示してきました。
「正しさ」がもたらす「分配の正当性をめぐる競争」において、制度や資産などの面で、男性よりも女性、現役世代よりも高齢世代のほうが有利になりやすいことを、過去動画で説明しました。
対して、では現役世代の男性が持っているアドバンテージは何かというと、例えば「労働力があること」や「過酷な環境に耐性があること」です。
「いかに分配の優先権を得るか」では不利でも、「いかに生産するか・いかに少ない生産でも耐えられるか」であれば男性のアドバンテージが戻ってきます。
これは本来はより慎重に論じる必要のある話で、詳細は次回以降の動画で説明するとしてここでは簡単に触れるにとどめますが、このチャンネルでは「近代社会の正しさ」に対抗するやり方があると考えています。
近代社会の価値観や思考様式は、「伝統社会の問題に対する対策のセット」を備えた「伝統メタ」みたいなところがあり、それは伝統的・集団主義的な問題を抑えることに関しては高い効果を発揮します。
「伝統メタとしての近代」の働き方は、例えば、「これからの日本社会の継続のために◯◯の福祉の予算を削る必要がある」みたいな「社会の継続性を重視しようとする集団主義的な動き」に対して、まず、「弱者に対する加害であり権利侵害」という「正しさ」がそれと対立します。
そのようにして集団を重視しようとすることを加害だとした上で、「社会全体のことを考えるよりも、資産を蓄えて自分だけは生き延びられるように努力しよう」という形で「個人としての勝利」に人々を駆り立てることで「集団主義」を解体していきます。
過去動画ではこのような「正しさ」の働きを「プラスの競争とマイナスの競争の接続」と説明してきました。
「集団を重視すること」に対して「近代」は、それを「個人に対する加害」であり「個人として不合理な行い」でもあるという形で、しっかり対策していることになります。
このように「伝統メタ」を張っているのが「近代」だとして、それに対処するための「近代メタ」的な方法を考えるならそれは、「限定した範囲内(ローカル)で、自分たちの労働力を自分たちの裁量で分配しようとする」というものになるとここでは考えています。
「いかに分配の優先権を獲得するかの競争」が行われる近代社会に対して、分配の優先権を争う上で不利になりやすい属性の人たち同士で社会を再構築して、協力し合って内部で成果を回し合えば、その人たちが有利になれる可能性があります。
つまり、「小さな社会を再構築して、そこに貢献した人が有利になる状況を作っていこうとする試み」が「近代社会の問題に対する対策」になり、そのやり方には、各々が個別最適を追求しなければならないゆえに停滞を免れない社会構造を打ち破る可能性があると考えています。
近代社会では、「グローバルルール(全員に適用されるルール)の変更」が実質的に不可能になってしまうのですが、「ローカルルールの適用」であればまだ可能性があります。
「グローバルルールの変更が不可能」というのは、たとえそれが全体に不利益をもたらしているルールであっても、そこから利益を得ている少数が反対するとルールの更新が難しくなるのが近代社会の特徴であるということです。
「近代社会のルール(グローバルルール)」はより大きな社会を可能にするものとして影響力を強めてきたのですが、「少数者を守ろうとするのが近代社会の正当性」であり、また、「大勢に適用される大きなルールであるほど、ルールを変えようとするよりもルール内で自分が勝つことを目指すほうが個人にとっては合理的」なので、たとえルールに問題があったとしても、一部の利害関係者がそれを維持しようとするだけで、民主的な方法でルールを変更することが構造的に難しくなります。
このようになってしまう近代社会の問題への対処は、「グローバルルールの変更を目指す」のではなく、「同意した人たちだけのローカルルールで成果を出す」というやり方になると考えていて、その方法の詳細については次回以降の動画で説明するつもりです。
このやり方が近代社会を対策する「近代メタ」になる理由は、近代社会は「ルールの変更」を難しくすると同時に「ルールの強制」をも難しくするからです。
近代社会は「自由と権利」を重視するのですが、だからこそ、「自分たちが納得できるローカルルールでやろうとする集団」に対して、「社会全体のために一生懸命働いて税金を納めろ」ということを強制しにくくもなっています。
前近代的な社会であれば「舐めたことをするな」と権力に潰されていたような試みでも、暴力を否定する近代社会だからこそそれが通用する場合があると見ています。
つまり、暴力を防ぐ代わりに暴力を発揮することも苦手なのが近代社会であり、それを「メタる」方法は「自分たちのルールでやろうとする」ことで、そしてそれを行うリターンが大きくなりやすいのは「男性(特に若年層男性)」だと考えています。
そのため、高齢層が分配の優先権を得やすくなる「若年層の不利」や、女性が分配の優先権を得やすくなる「男性の不利」が強まっている状況には、良くも悪くも、社会を再構築して停滞を打ち破ろうとする動機が生じやすくなっているという点において、社会変革の可能性があります。
しかしそのように考えた上でここでは、「世代対立」や「男女対立」が過剰に強まることを良しとしたいわけではありません。
今回の一連の内容で、「最大と最小によって中間の対立を制御」という考え方を説明してきましたが、「対立」には「豊かさ」の可能性があるものの、それが「正しさ」という「ブレーキ」の制御を超えて過剰に強まることを良しとせず、「世代対立」や「男女対立」は、その過剰を避けようとする必要があるものと見ています。
ここでは、「対立」を評価する視点を提示していますが、対立の過剰を良しとしているわけではありません。
そして、「正しさが行き過ぎた結果として反動的に対立が強まる」ことに対しては、特に警戒すべき理由があると考えています。
人間に対する最低限の敬意が失われるような状況がこれから起こるとして、それは「正しさ」の欠如というよりはむしろ、「正しさが適用される」という形で起こるのではないかという懸念があり、その論点についてこれから説明していきます。
「公正さ」を疑う
このチャンネルの過去動画では、「豊かさと正しさの相反」の枠組みにおいて、「豊かさ」が「文明」であり、「正しさ」が「自然」であるとしてきました。
「文明」は「個人」にとって歪んでいて加害的なものである一方で、「文明」が否定された「自然」が我々にとって望ましいかというと、むしろ多くの人が生きていけない過酷な状況が「自然」です。
そして、「豊かさ」の土台が失われた「正しさ」が過剰な状態は、「文明」が否定された「自然」に近いと考えます。
例えば、「自由と権利が尊重されるのは善いことである」と近代社会では考えられがちですが、「自由と権利が極端に尊重された状態」は「他者のために一切の自己犠牲を強いられるべきではない」というような、社会的協力関係が成立しにくい「自然」に近い状態であり、その点において「正しさ」は残酷な部分を持っています。
では「正しさ」がどのような形で悲惨な状況をもたらしうるかというと
・「正しさ」が過剰になり社会が失われていく
・「対立」が強まって再構築された社会の「内側と外側」ができる
・「外側」になった人に「正しさ(自然)」が適用される
といった機序によって、人間に対する最低限の敬意が失われる事態は、むしろ誰かに「正しさが適用される」という形で起こると考えます。
「正しさ」において「他人のために何かをすることを強制されない自由と権利」を人は持っていて、その上で、「持続的な社会を作ることに失敗してきたのに、今もなお負担をかけ続ける高齢世代」や「妊孕性を根拠に配慮や優遇を受けながら、それに見合う役割を果たしてこなかった女性たち」に対して、むしろ「公正さ」が適用されるからこそ、「何も顧みることはない」となってしまう懸念があるということです。
ここまでは世代対立や男女対立の話をしてきたのですが、その上でここで扱いたいのは、「社会は公正であるべき」という理念の問題です。
このチャンネルで繰り返し述べてきたのは、「公正さ(正しさ)」は土台を消費していき、「正しさに反するもの(豊かさ)」が「土台」になっているという見方でした。
これは逆に言うなら、「公正になりえないこと」が、他者に対する敬意を下支えする「土台」になっているということです。
例えば、「生まれた時代が異なる」人たちの間には、原理的に「公正になりえない」部分があり、過去と現在とでは明らかに様々なものの水準が異なります。
人が何らかの形で未来をより良いものにしていこうとするとき、それを目指し尽力してきた人たちは自分たちではその恩恵を十分に受けることができず、次世代に渡そうとするのですが、そのような人類のあり方自体に「公正ではない」部分があります。
そして、我々が先人に敬意を持てるのはその「公正ではない」部分に対してであり、過去よりも未来が善くなっていくことは「不公平」なのですが、そうであるからこそ我々は、先人や祖国に対して恩があるし敬意を持つことになります。
もちろんこれは「親」と「子」などの関係でも同じことが言えます。
また、「世代が異なる」場合と同様に「性別が異なる」場合も、埋められない男女差があり「公正になりえない」部分があるのですが、それが性別の異なる人間に対する敬意に繋がっていることは否定しがたいと思います。
対して「公正であるべき」という考え方は、「世代の違い」にしても「性別の違い」にしても、それによって差が生じることを否定しようとして、それは「正しさ」を目指すゆえのことではあるものの、他者に対する敬意の「土台」を切り崩していくことになります。
「正しさ」の重視が過去に蓄積された「豊かさ」の余剰を消費して行われるというのは、例えば、現在の「女性の活躍推進策」は、過去の女性差別を元手にして行われているようなところがあります。
「出産という不可欠な役割を担ってきたことへの敬意」や「過去の社会が女性差別的だったことの負い目」などを元手にして、現在の女性の相対的地位を押し上げようとする施策が行われるのですが、ただ、そうした施策によって優遇された女性が期待に応える活躍をするかというと、おそらく失敗して、旧来社会の女性が蓄積してきた女性への敬意を消費していく結果になると思います。
そして、現在の高齢女性は何だかんだで社会から敬意を持たれていると思いますが、「女子枠」などのような介入の仕方で「男女平等」が重視された世代が高齢になったときに同じように思われるとは考えにくいです。
現在はSNSなどで男女対立が盛り上がっていてそれが問題と言われているし、その観点からは、ここでしているこの話も問題視されるものかもしれませんが、そもそも男女対立に関しては、有名大学や大手企業のような公的な場所が分断や憎悪を煽っています。
わかりやすい「憎しみの象徴」を作り出す「女子枠」のようなやり方は、小さい介入で大きな憎しみを育てる結果になりそうで、純粋な悪意を持って社会を破壊したい人間が意思決定に携わる立場にいても似たようなことをするかもしれないくらい、かなり筋の悪いやり方だと見ています。
「女子枠」に対しては批判も多く、「それは本当に公正なのか?」という形で批判されることが多いと思いますが、ここで言いたいのは、公正かどうかの議論のもっと手前にある常識的な感覚として、それに人々がどういう気持ちを抱いて中長期的にどういう結果になりそうかを少しでも想像するなら、「さすがに懸念される悪影響が大きすぎる」という判断になるはずで、ではなぜそうならないかというと、「土台」を考慮しない「正しさ(近代社会のイデオロギー)」の問題があると考えています。
「女子枠」に関して、「それが中長期的に社会の分断と憎悪を強めてしまうだろう」ということが、「十分に考慮されていない」のでもなく、「まったく考慮されていない」ということですらなく、むしろ「考慮すること自体が忌避されている」ようなことが起こっています。
つまり、現在の女性優遇の元手になっているのは「過去の女性が我慢しながら子どもを産む役割を果たしてきたこと」であり、その過去の蓄積を消費しながら現在の女性優遇が行われていて、そうであるがゆえに継続性がない……という論点は、そこに目を向けようとすることや言及しようとすること自体が「正しさ」に反するものであり、このようにして「何が土台になっているか?」を考えられなくなってしまうのが「正しさ」の問題です。
アカデミアなどの場所で推進される「女子枠」において、「何がその土台になっているか・それが中長期的にどのような結果をもたらしそうか」を考慮せず、「目の前の女性の不利に最大限に配慮しようとすることがいつか来る平等な社会を実現する」という理念によって凄惨な結果を招きうる試みが後押しされているのですが、もっともこれは構造的には、「目の前の患者をとにかく助けようとする医者」だって似たようなことをしているわけで、今の社会において特別愚かしいものとまでは言えないとも考えています。
しかし、そうやって善意によって地獄への道が舗装されていった先で起こるのはおそらく、「同じ社会の仲間」の「外側」になった人間に対する「正しさ」の適用で、今度は「正しさ」が我々に牙を剥き、「公正であるべき」という考えのもとで過去の不当な優遇の清算を迫られることになります。
このような理由でここでは「公正であるべき」という考えを警戒するのですが、以降では、「公正さ」を追求することで発生しうる深刻な問題の例として、「子あり」と「子なし」の対立の話をしたいと思います。
「子あり」対「子なし」
「公正であるべき」という考え方自体は「対立」をなくしていこうとするもので、ここではそのような「公正さ(正しさ)」の追求を、「最大と最小」に向かう動きだと説明してきました。
「中間的な集団同士が対立している」のに対して、「正しさ」は「最大あるいは最小」に向かう形で「対立」を否定しようとします。
今回の動画で最初に「世界平和」の話をしましたが、「すべての人が同じ人間」という「最大」に向かっていこうとしたとき、現実的には、理想にたどり着く前に国家同士の最終決戦という最悪の対立が発生する……という見方をしています。
同じように、「人それぞれが個別の事情を持っているのだからすべての人間に配慮しよう」とする「最小」に向かっていこうとしたときにも、現実的にはそこにたどり着く前に、「子あり」対「子なし」のような最悪の対立が発生しうると考えます。
つまり、「最大」を目指すことも「最小」を目指すことも、それ自体は「対立」を解消しようとする動きでありながら、理想にたどり着く前に「社会を破壊する深刻な対立」に直面してしまうと見ています。
現在の公的な場の大前提には「公正であるべき」という理念があると思いますが、しかし、まさにその理念が爆弾を抱えていて、例えば「子あり」対「子なし」のような対立は、「公正さ」を重視するならば避けがたく直面してしまうかもしれない問題のひとつです。
例えば、「ある人たちは子どもを育てたが、そのために時間と労力が必要で十分な資産を蓄えることができなかった。対して、ある人たちは子どもを育てずに十分な資産形成をしてきた。生活水準が資産に左右されやすいとして、後者のほうが豊かな老後を送りやすいが、しかし後者の人たちの老後を支えるのは前者の人たちが育てた子どもである」……という状況があったとして「これは公正なのか?」という話になります。
子どもにリソースを使わないほうが資産形成をしやすい側面が明確にある以上、「公正さ」を追求するならば、「子あり」対「子なし」はそれに突き当たってしまうことを避けにくい問題です。
繰り返し言いますが、「公正さ」を目指す理念自体は、「中間的な対立」を否定して「グローバルという最大」または「人それぞれ違う個人という最小」に向かう動きであり、例えば「子どもを作ったけど養育費を一切支払っていない人の場合は?」みたいに、ひとりひとりの事情を考慮する細分化によって「対立」を解体していこうとします。
しかしながら現実的には、「最大」を目指す動きが世界大戦に直面するように、「最小」を目指す動きもまた、社会を破壊するような深刻な分断に直面してしまうだろうということです。
なお、「国家同士の対立」が、それが極端になりすぎない程度であれば、「富国強兵のために生活インフラや福祉を充実させる」などの恩恵に繋がりうるように、「子あり対子なしの対立」も、それが極端になりすぎない程度であれば、「育児支援を充実させて子育てに負担がかからない社会を目指す」などの恩恵に繋がるかもしれません。
しかし問題は、行き過ぎた「公正さ」の追求に対する反動が起こり「対立」が極端に強まった場合で、それがこれからどのような惨状をもたらすのかは未知数です。
現代社会のような、医療によって寿命が伸びる一方で出生率が低下し働く世代が極端に減っていく状況は、人類史上でも未曾有のものであり、これから様々な問題が表面化してくることになるのですが、「子あり対子なし」のような論点を必ずしも誤魔化し続けられるわけではないかもしれません。
もし「子ありと子なしの対立」が本格化したとして、世代を超えて存続するのは子どもを生んだ人たちの子孫なので、その意味においては「子あり」の勝利は確定している、という見方があると思います。
しかし一方で、両者がより本格的に憎しみ合って対立したとき、「子なし」だからこその強さというのもあるかもしれません。
ひとりの人間が自分の命もその後の評価もどうでもいいと本気で考えて、その気になったときの潜在的な加害能力は極めて大きなもので、その点において人は誰もが悪い意味で可能性を持っています。
「子どもを育てる役割を果たしてこなかったお前が、本来はその資格のない福祉を享受し続けるのは次世代に対する搾取であり、せめて迷惑がられている自覚を持って肩身を狭くして生きるべきで、できれば早く死んでくれ」みたいなメッセージが「子なし」の人たちに向けられ続けたとして、憎しみが強まり残り寿命も少なく大切な人もいないとなったときに、「このクソみたいな社会に最大限のダメージを与えることが自分が生まれてきた意味であり最後の役割だ!」と思って行動に移す人が出てきたり、それに喝采を送る人が増えていくなら、地獄じみた光景が広がることになります。
対して、「子あり」が勝つパターンとして、過度なインフレが起こって高齢層の資産が吹き飛び、社会福祉も限界が来てまともに機能しなくなれば、家族と仲の良い高齢者だけがなんとか助かりやすくなるのですが、それは「子あり」と「子なし」の間の不公平の是正という点だけに関して言えば、ある種の公平化が果たされることになるかもしれません。
インフレが起こっても賢い人間は株や不動産でリスクヘッジして切り抜けるかもしれませんが、身寄りのない金持ち老人が社会から徹底的に憎まれて、資産を持っていても身体能力や認知能力の衰えに付け込まれ金を吐かせられるような過酷な環境になったならば、「子なし」が負けて「子あり」が助かりやすくなります。
ただ、もちろんそれも地獄じみた光景ではあります。
国家同士の戦争で社会が深刻なダメージを負うことがあるように、「子あり対子なしの対立」も、それが激化すると社会を大きく傷つけるものになりかねません。
当然ながらそのような対立を避けて「同じ国民だから」という形で協力し合えればいいのですが、まさにその「同じ国民だから」という「中間」を解体していくのが「最大か最小に向かう正しさ(公正さの追求)」であるという見方をここではしています。
あるいは、これから社会の様々なものが維持できなくなり「子あり対子なし」のような分断が強まっていくときに、ともすれば「同じ国民」というだけで連帯できる「ナショナリズム」のような概念が眩しく見えてくるかもしれません。
ナショナリズムを警戒する近代的な考え方をしがちな人でさえ、「子ありと子なしが憎しみ合う地獄」と「ナショナリズムを強める」とでどちらがマシか?……となったとき、まだ後者のほうがマシかも、という考えになってもおかしくなく、しかし、国家の存続が揺らぐような状況だからこそ右傾化が強まるというのも、言うまでもなく危険です。
では、ここで何が言いたいのかというと、この動画で最初に「最大と最小によって中間の対立が制御されている」必要があると述べ、また、「集団を多層化することで、量を確保すると同時に最大値を低くする」ことにも言及しましたが、「ナショナリズム」のようなひとつの強い枠組みだけに頼るやり方ではない形で「豊かさ」を強めようとする必要があると考えます。
ナショナリズムや伝統主義や家族主義など、特定の集団の枠組みを強めるやり方でなくとも、もう少し科学的・合理的・功利的に考えた上で集団として協力し合おうとすることは可能だと考えていて、例えばこの動画で先に「今より後を楽にする方法(必要なものの生産を効率的かつ完結的に行う方法)」について述べましたが、何らかの良い方法が社会に蓄積されていくのであれば、そのことをもってして「世代を超えた協力関係が成立している」と見なすこともできるかもしれません。
ここで扱ってきた論点は、分断や対立が強まりすぎてもいけないが、それを否定する作用である「正しさ」を強めても「深刻な分断や対立」が生じてしまうことで、この問題に対して「最大と最小によって中間の対立を制御」という考え方を提示してきたのですが、そのためのひとつのアイデアとして、「未来と対立する」という少し奇妙な考えを持っていて、以降でそれについて説明していきたいと思います。
未来と対立することで未来を良くしていくことができる?
もし「今より後を楽にする方法」が蓄積され引き継がれていくのであれば、社会は単なるゼロサムゲームではなく、時代を超えた人類全体の協力関係が成立していると言えるし、現に人類はそうやって今の社会の豊かさを実現してきた側面もあります。
「今より後を楽にする方法」を重視するというのは、決して珍しい考え方ではないというか、何なら「そんなことはいちいち言うまでもない前提だろ」と現代人の大半が思っているようなものかもしれません。
しかしここでは、それはそんなに当たり前のものでもないと考えます。
今回の動画では「氷河期世代」や「女子枠」の話をしてきましたが、世代や男女の間に発生する、人類史的な尺度で見れば些細な差にすぎないような相対的不公平に対して、長く強い憎しみを抱き続けることもあるのが人間です。
そんな我々が、「未来をより良くしていくこと(今の自分たちよりも次世代の人間を有利にしていこうとすること)」に本当に同意しているのだろうか……ということを、ここで改めて問い直したいと思います。
そもそも今の人間がそれほど未来に利するふるまいをしているかというと、社会の継続性という観点においては状況は悪化し続けているし、各々のふるまいを見ても、自己利益のために効率化を阻害しているようなところがあるかもしれません。
例えば、専門技能の効率化や自動化は、これからの社会のためには望ましいことでも、苦労して資格や権限を手に入れた人の側からすると、それが進むと当人は不利になります。
また、「安心できる生活インフラや住居がすべての人に無条件に与えられるようになるような供給力の向上」は、社会全体にとっては恩恵になりやすくとも、「苦労して住居を購入して住宅ローンの返済がもうすぐ終わり」みたいな人からすれば、これまでの自分の努力を無下にされ損をしたように感じる変化かもしれません。
たとえ「今より後を楽にしていく」ことの重要性が理屈ではわかっていても、下の世代が自分たちのしてきた苦労を知らずに生きていくのは面白くないと感じる人も少なくないはずです。
実は我々は、「未来をより良くしていくこと」にそれほど納得しているわけでも、それに寄与する行為をしているわけでもないのではないか……ということで、もっともこのチャンネルで何度も説明してきたように、そこには「正しいから豊かになると考える倒錯」の問題も関わっていると見ています。
嫌な言い方をするなら、「目の前の自己利益を追求するための努力が普遍的な未来の人類の豊かさに繋がっていく」という倒錯した理念を各々が心地よく思いやすい一方で、「中長期的・現実的に社会を良くしていこうとする試み」が放棄されているのが今の社会で、しかしこういった問題を考えることは個人を有利にしないので、停滞が続く構造を脱するのが難しくなっています。
このようにして現状では、個人の努力や納得が重視され、あるいは未来を良くしていこうとする理念が掲げられながら、「今より後が楽になっていく」どころか「社会の破綻」に向かっています。
それに対して、ちょっと正気を疑われるような考え方かもしれませんが、ここでは、「未来と対立する」ことに社会を復活させる可能性があるのではないか……という論点をあえて提示したいと思います。
このチャンネルのこの一連のシリーズでは、「対立」こそが「土台」であるという考え方を繰り返し説明してきました。
例えば、「個人」として相対的競争に勝とうとしなければ不利になる構造から抜け出せない状況があるとして、「個人」レベルでは構造を変えようがなくとも、適切な「対立」が起こっているならば、「どちら側を支持するか」という形で個人の意思が反映されやすくなります。
「対立」は危険で加害的であると同時に、「個人」よりも「集団」を重視する協力関係を成立させる要素であり、「土台」のために不可欠なものであるという見方をしています。
その上で、この動画では「最大・中間・最小」の図式で説明をしてきましたが、「グローバルという最大」は「対立する相手がいなくなった状態」なので、グローバルな理念を重視するほど社会の「土台」が失われやすくなります。
ただ、そのような見方を踏まえた上でここでは、グローバルな理念を重視しながらも「対立」を起こして「豊かさ」を強めるやり方があると考えていて、それは「未来と対立する」ことです。
先の「最大・中間・最小」の図式は現存する集団の規模に着目したものでしたが、そこに「時間」という要素を導入して、「時間に関係ない普遍的な全人類」を「最大」とするなら、「現存する世界中のすべての人たち」は「今の時代というローカル」の中に閉じ込められていることになり、このように考えれば、「今の時代というローカルに属する人たち(我々)」と「未来の人たち」との対立を想定することができます。
そしてこのように考えてみると、「未来と対立することで未来をより良くしていくことができる」という奇妙な逆説が生じます。
・「対立」が起こることで「集団のため」が重視されやすくなり、それが社会を成立させる「土台」になる。
・「個別最適」を促す「普遍的な理念」のもと未来を良くしていこうとしても、「対立」が弱まり「土台」が成立しなくなれば、未来を良くするための余剰も失われる。
・「土台」のために「対立」が必要なら、未来を良くしていくための余剰は「未来と対立すること」によって生まれる。
というように、非常に奇妙な理屈かもしれませんが、「未来のため」を考えて未来を良くしていこうとする近代的進歩観には実は進歩を促す力があまりなく、「未来の人間はズルい」とでも考えて未来と対立することに、未来をより良くしていくための「土台」を成立させる可能性がある……といった見方をしていることになります。
つまり、これから「豊かさ」を強めようとするとして、そのための有効な方法のひとつが、「未来と対立」して、「同時代の人間にあえて不公正なほど肩入れしようとすること」だと考えています。
では「未来と対立するとはどういうことか?」というと、まず、「未来」に対して現在の我々が置かれている状況は、「今はわからない」というものです。
未来のために何らかの良いことをしようとしたとしても、何をするべきで何をするべきでないのか、今の我々にはわからないし、検証しようがありません。
今起こっていることにしても、各々が善かれと思ってしたことの結果として少子化が進み社会の継続が破綻に向かっているというもので、このような状況がいったい何を意味しているのか、未来においては何らかの形で総括されるのかもしれませんが、「今はわからない」ことになります。
今回の動画ではワクチンや科学の問題にも言及してきましたが、「今はわからないことでも、いずれ明らかにしていくことに価値があるから」という近代的進歩観において専門家の見解が重視され、しかしそうやって正当性を得た専門家のふるまいは、「いずれ明らかにしていく」ために必要な過程すら軽視する杜撰なもので、「ワクチンを打つという判断をしたこと」に納得できない人が増えるような問題も起こっています。
それに対してここでは、「いずれ明らかにしていくことに価値がある」という進歩観よりも、「今はわからない」に向き合うことに、社会の土台を再構築する可能性があるのではないかと考え、その上で改めて、「子ありと子なしの対立」の話に戻ろうと思います。
「子あり」にはモラルがあるのか?
このチャンネルでは過去に、「集団」を重視するのが「モラル(豊かさ)」で、「個人」を重視するのが「ルール(正しさ)」と説明してきて、この枠組みにおいて「出産や育児」は「モラル」の側になるのですが、では「子なし」は「モラル」が欠如していると言いたいのかというとそうではありません。
そもそも今の社会に生きていて「過去と比べてモラルが低下している」とは思いにくく、昔のほうが色んな点において粗雑で適当だったことが多いので、基本的には今のほうが「モラルが向上している」と考えられやすいと思います。
過去動画で説明したことですが、このチャンネルにおける「モラル(豊かさ)」は、「義務を重視するが、細かいことを切り捨てて義務のハードルを下げる」というやり方で、個別最適よりも全体最適を強めようとします。
対して「ルール(正しさ)」は、「義務を否定し、細かいことを切り捨てない(個人の多様性を尊重する)」という形で、全体最適よりも個別最適を強めようとします。
つまり「豊かさ」は「これさえやればいい・これだけはやっておけ」を可視化・強化する働きであり、それを否定するのが「正しさ」になるのですが、この見方において、「強制力が否定されるとむしろやらなければならないことが増える」ことになります。
「これだけはやっておけ」という強制は一見負担を押し付けるように感じやすいものの、自由競争において各々が自分の主張を社会に認めさせようとして相対的優劣を競い合うほうが、様々なことの要求水準が上がっていき安心できない状況になっていきやすいです。
このようにして、「これだけはやっておけ」の強制力を強める「豊かさ」が「不自由だけど楽」に向かうのに対して、強制力を否定して自由競争を促す「正しさ」は「自由だけど苦しい」に向かう働きだと過去に説明してきました。
またこれも過去動画で説明してきたことですが、「正しさ」が「豊かさ」を切り崩すやり方は、「豊かさ」が強制する義務を、「やらなくてもいい」し、「もしそれをやるのであれば、これだけのことに配慮しなければならない」という形で、実質的に行えないようにしていくというものです。
具体的に「出産や育児」に関して言うなら、「子どもを持つかどうかは個人が決めることであり社会が口出しすべきではない(やらなくてもいい)」として、その上で、「それでも子どもを持つ選択をするのならば、子どもの権利のために親はこれだけのことに配慮しなければならない」という形で負担を増やして、「出産や育児」を難しくしていく(豊かさを解体していく)のが「正しさ」の働きであるということです。
そして、「正しさ」の「配慮しなければならないことを増やしていく」という部分を見れば「モラル」が向上しているように見えるのですが、そうやってハードルが上がったからこそ「義務」を負えなくなる人が増えていきます。
このようにして、「モラルが向上する」という形で、「モラル」の部分が切り崩されているという見方をしています。
そして、「正しさ」が強まっていく状況において、「モラルのある人だから結婚して子どもを残す」でも「ルールにおいて成果を出した優秀な人だから子どもを残す」ということでもなく、むしろ、「ちゃんと色んなことに配慮しようとした」あるいは「努力して競争に勝とうとした」結果として、子どもを持つに至らなかった人たちがいるし、逆に、あまり考えなかったり頑張らなかった結果として子どもができた人たちもいることになります。
この説明はここではしませんが「伝統的な価値観(男らしさや女らしさ)」のような古い考えを持っていたほうが恋愛結婚などがうまく行くことがあり、逆に「近代的な価値観」に触れたからうまく行かなくなることもあります。
「近代的な価値観(正しさ)」にたまたま被弾してしまったことで、それがなければ結婚して子どもを作っていたような人たちが未婚になることは起こりうるし、時代が進むにつれそのような「正しさ」を避けることが難しくなっていて、基本的には若い世代のほうが「近代的な考え方」をしやすくなっていて出生率も低い傾向にあります。
「正しさ」が影響力を強めるなかでも、マクロで見れば子どもを残しやすい形質というのもあると思いますが、ただ、戦争や災害が個人の特徴を無視して理不尽に命を奪っていくのと同じように、「近代的価値観に被弾するかどうか」にも多くの場合「偶然・運の要素」が関係します。
注目しやすい個別事例を見ても、今の社会の基準で大成功している資産家やアーティストやスポーツ選手やタレントのような人たちが、その評価の高さに見合うだけの子孫を残しているかというとそうでもありません。
「近代化」自体は、このチャンネルの過去動画では「ブレーキがあるからアクセルを強く踏める」と説明してきましたが、現代社会の運用に不可欠なものであり、そのような「近代化」に被弾して子どもを作らない・作れない人が増えることは、見方によっては避けられなかった被害ではあります。
加えて、「近代化と同時に進む少子化」には望ましい部分もあり、というより、「むしろそれが起こらなければ大変なことになっていた」と言えるものかもしれません。
少子化には少なくとも、「資源の奪い合いが緩くなる」というメリットがあります。
等比級数的に増える人類が限られた資源を奪い合うような地獄と比べれば、近代化が進むことで「自然」に各々が産み控えるようになっている現状は、まだマシな状況かもしれないという見方もあります。
今の社会で起こっているのは、各々が善かれと思ってしたことが「個別最適」を強め、それによって「全体最適」が失われて社会の継続性が破綻してしまっている……という状況で、大局的に見ようとするなら、本末転倒で酷くバカバカしいことになっているように見えます。
しかしまさにそうなってしまうことが、より大きな尺度で見ようとして、超長期的な地球や人類の存続を考えたとき、むしろそうなるほかなかったような人類に備わった恩恵かもしれません。
もし人類が「近代化しても少子化しないような種」であったならば、近代化とともに人口が爆発して大混乱が生じて、今よりもはるかに激しく地球環境が破壊されていたかもしれません。
つまり、現状は「全体最適と相反する個別最適」によって失敗しているように見える「近代化の結果として起こる少子化」も、もっとずっと長期的な視点で考えるなら、それによって地球や人類が守られることになるかもしれないということです。
加えて、種の繁栄を好ましく思いやすい我々にとって少子化は憂鬱なことかもしれませんが、そもそも人類はその気になれば数世代で人口を何倍にも増やせるポテンシャルがあります。
未来では、人工的な出産が可能になったり、遺伝子を編集するとか、老化を遅らせるようなことすら可能になるかもしれず、そして、未来にどのような変化が起こり、今我々が直面している問題は未来からどのように位置づけられるものなのか、「今はわからない」ことになります。
その上でここでは、「今はわからない」という部分に焦点を当て、どうせ何が未来に良い影響を与えるのかすらわからないのだから、未来の側に寄り添うのではなく、自分たちが「今いる人たち」の側であることを改めて意識して、いっそのこと「公正な感覚を超えて同時代人の肩を持とうとする」ことに、むしろ未来を良くする原資を生み出せる可能性があるのではないか……という考え方をします。
未来が良くなっていくなら、今の人間はかわいそう
「どのような社会を理想として目指すべきか」とか「これからAIなどのテクノロジーによってどんなスゴいことが起こるのか」みたいなことを、ここでは「今はわからない」とした上で、現時点の消極的な目標として、これから社会が厳しい状況に向かっていくかもしれないなかで、「人間に対する最低限の敬意が失われない社会であればまあ及第点なのではないか」くらいに個人的には考えています。
人間が尊重されることを重視するというのは、一般的な感覚としても極端なものとは見なされないと思います。
しかしそのための方法に関しては、「現状の近代的なルールのもと、人間が尊重される社会の実現を目指して各々が努力することでいずれそこにたどり着くことができる」……みたいな進歩観がちゃんと機能するとは考えず、その点では通念に反する考え方をしています。
では、どう考えるかというと、先に述べたように、「未来と対立することで未来をより良くしていくことができる」という奇妙な逆説があると考えていて、以降でそれについて説明していこうと思います。
これから状況が悪くなっていくかもしれないなか、人間に対する最低限の保障の「土台」を固める力があるのは、「すべての人間には生まれながらにして権利があるから」という理念ではなく、「もし何らかの形で未来がより良くなっていくのだとしたら、今の人間はかわいそうで、未来の人間のほうがズルいし不公平である」とでも言うような「未来との対立」だと考えています。
何らかの発見や発明の積み上げによって未来の状況が今よりも良くなっていくとして、であれば、先に生まれた人間ほど不公平を甘受しなければならないことになり、逆に言えば、「公正さ」が徹底されるならば、未来を良くしていくことは不公平なので望ましくないことになります。
対して、「未来の人間よりも今の人間のほうがかわいそう」という理由で「同時代人の側に立とうとすること」に、社会的協力関係の「土台」を形成する可能性があり、そして逆説的に、未来と対立して同時代人に肩入れすることで生まれる「土台」が、未来をより良くしていく力を持っています。
そのような前提の上でここでは、「はたして未来とはそんなに簡単に気を許せるものだろうか?」という問いを投げかけたいと思います。
人間は時代的な制約を抜け出して思考することができず、今の時代に生きる我々は、未来から見たときにどれだけ滑稽で的外れなことをしているのかを知りようがありません。
生まれた時代が違うという圧倒的な格差が「未来」と「今」の間にあります。
もし仮に、過去の時代に生きて飢餓や病気や暴力などに苦しんだ人たちが今の世界を知ったとしたら、「今まで自分たちが必死にやってきたことは何だったのか?」という気持ちになってもおかしくないかもしれませんが、それは今の時代に生きる我々が「未来」を知った場合も同じかもしれません。
能力や地位や容姿や人間関係や将来の不安など、今の人たちが様々な形で悩み苦しんでいることがあるのに対して、それと無縁になった未来があるかもしれず、あるいはないかもしれないのですが、いずれにしろ実際にどうなるかを今の我々は知りようがありません。
「社会の継続に失敗している」というのは現代人が憂鬱に感じやすいもので、人口が半減していくほどの出生率の社会であるということは、そのなかでどれだけ良さげな理想を唱えたところで、「必要な役割を果たさずに問題を次世代に先送りにしてきた失敗した社会の考え方」であることを否めません。
それに対して、どこかで間違いを認めて別の方法を模索しようとしなければならないのかもしれませんが、ここで提案するのは、「むしろ開き直る」というやり方です。
各々が問題を解決しようとする・間違いを正そうとする結果として個別最適が過剰になり、そうやって「社会の継続の失敗」が起こっているのだとしたら、問題や間違いに対してむしろ開き直ろうとする方向に可能性があるのではないか……というような考え方になります。
ではその「開き直り方」について考えてみるならそれは、現状を「仕方なかったことだった」として、その状況を作ってきた人たちを否定するのではなく、「無理やりにでも先人や同時代人の肩を持とうとする」というようなやり方になるかもしれません。
少子化による社会の継続性の破綻のような問題は、基本的には各々が善かれと思ってしたことの結果として起こっています。
例えば、親は教育が大事だと思って教育費をかけて、その子どもは早いうちから競争に勝ってキャリアを積まなければ不利になる社会の要請に応えて勉強したり働いたりして、キャリア形成期には子どもを作る余裕がなくある程度の年齢になってから不妊治療を始めて、それが間に合わなかったり断念する人が増えて社会全体としては深刻な少子化が進んでいる……みたいな状況は、俯瞰的に見ればバカらしく愚かしいものかもしれませんが、しかし今の社会の当たり前の上でちゃんとやろうとした結果としてそうなってしまうものでもあります。
そして先に述べたように、近代化すると少子化が進む人類の性質自体は、超長期的には種全体にとって恩恵である可能性もあって、そういった諸々を加味したときに今の社会で起こっていることが何を意味するのかは、「今はわからない」としか言いようがない部分もあります。
このように「今はわからない」として、現時点で言えるのは、今生きている人の誰もが同時代人の愚かさを断罪できる未来の側に立っているわけではないということで、であるならば、「未来のため」を掲げて「今いる人たち」を軽視するようなふるまいには慎重になったほうがいいのかもしれません。
例えば、「必要な役割を果たしてこなかった上にもう十分生きてきた高齢者が現役世代のリソースを使い続けるのはおかしい。もっと未来のことを考えるべきだ」みたいなことは、状況も状況なので普通に考えればこれから言われやすくなっていくと思います。
これは「公正さ」を重視するからこそそうなる面もあります。
それに対して、圧倒的に有利な立場にいる「未来の人たち」と対立して、「我々は、同じ仲間である同時代人の味方を無理やりにでもしなければならない」という考え方を仮にするならば、たとえ高齢者や福祉受給者が社会にどれだけ負担をかけていようと、その人たちを責めるのではなく擁護しようとすることになります。
そのための理屈はあると考えていて、例えば、インフラ整備やケアワークなどを効率化・自動化する供給力の向上がこれから進んでいくのであれば、今の福祉受給者は、「本来ならばその資格を持たないのに図々しく福祉の恩恵にあずかろうとしている人たち」ではなく、「それが完成した未来を今から想像できるにもかかわらず、時代的制約によってその恩恵をまだ十分に受けられない人たち」になるはずです。
目指しているものが実現した先の効率化・自動化が進んだ福祉システムにおいては、その恩恵を被る人がそのことを躊躇うことも恥じることもないはずで、そのような未来と対比したとき、現在の福祉の受給が「それを周囲から疎まれ本人が申し訳なさを感じてしまう」ならば、そう感じてしまうこと自体が「時代的な制約から来る不公正」になります。
だとすれば我々は、「生まれた時代が異なるだけで万全な福祉システムなどを享受できる未来の人たち」ではなく、「現代に特有の事情に苦しむ同時代の人たち」に肩入れしようとするのが筋なのではないか……ということになります。
今の社会の常識的な感覚からしてかなり突飛なことを言っているように聞こえるかもしれませんが、ここまでの話で意図しているのは、「公正さ」を重視する現代の大前提を疑って、「公正になりえない部分」に焦点を当て、「公正でないからこそ生まれるもの」を評価しようとすることです。
ここまでの内容で繰り返し述べてきたように、「公正さ(正しさ)」は非常に重要でそれ自体が目的でもあるものの、その実現のために「社会の余剰(豊かさ)」を切り崩していくという見方をしています。
「公正さ」を重視する場合、「今よりも未来が良くなっていくのは不公平」だし、「継続的な社会を作ることに失敗してきた先人たちが図々しく福祉を享受し続けるのは不当」……などといった形で「豊かさ」を評価しにくくなり、実は「公正さ」を目指すことは協力関係を成立させ停滞を打開していく力をあまり持っていません。
対して、我々が社会や先人に対して抱く敬意は実は「公正でなさ」に拠っているのではないか……という考えをここまで述べてきたのですが、何らかの良い未来を目指す試みは、それが実現した後の恩恵を自分が享受できるわけではないにもかかわらず、それを進めようとしてきた人たちに対する敬意に基礎づけられることになります。
「公正さ」を目指したとき、今よりも状況が悪くなっていったほうが「今」と「未来」との不公平が生じにくく、状況が悪くなっていくから福祉の余裕もなくなり、そのような余裕のない社会にしてしまった人たちに「公正さ」を適用して福祉を削減しようとすることでますます余裕がなくなっていく……といったような、「公正さ」を追求するほど社会を良くしようと思えなくなっていく悪循環・結果としての社会や文明の崩壊が起こる……という見方をしています。
対して、「今よりも良い未来」という「公正さ」を超えたものを目指していて、それをしようとしてきた・しようとしている人たちに敬意があるからこそ同時代人の尊厳を守ろうとし、そうやって同時代人を守ろうとする土台があるから未来を良くしていこうとする余裕が生まれる……といった好循環は、実は「公正でない」ことを土台として成立し、このチャンネルにおける「豊かさ」はそのような性質を持っていると考えています。
このように社会通念には反するものの、「公正でないこと」が「豊かさ」を強め、「公正さ」は「豊かさ」を失わせていくという見方をしていて、詭弁のように聞こえるかもしれませんが、これは現実的に重要な問題にも関わってくる論点だと考えています。
例えばこれからの日本において、「高齢層に対する医療や福祉のコストの削減」は、未来のためにそれをしなければならないと主張されやすいものですが、下手にそれをしようとしても意外と問題の解決には繋がらないかもしれません。
「切り捨て」をしようとすると「余裕がないからさらに余裕がなくなる悪循環」を招きやすいのに対して、その逆の「公正さを超えて仲間に肩入れすることで回りだす好循環」を起こそうとすることに可能性があると考えるからです。
この論点を説明するため、最後に、このチャンネルにおける「豊かさと正しさ」について改めて考えをまとめます。
「豊かさ」と「正しさ」
過去動画から、このチャンネルでは「豊かさと正しさ」という枠組みで多くを説明してきましたが、「豊かさ」と「正しさ」は、どちらもそれぞれのやり方で人間を尊重しようとするし、切り捨てようともすると考えます。
「豊かさ」は、「同じ集団の仲間」を重視しようとする(逆に言えばそれ以外を切り捨てようとする)性質のもので、先ほど話してきたのは、無理やり「未来との対立」を想定することで、「同じ時代に生きるすべての人」を仲間として捉えようとする考え方をした場合でした。
これが「ナショナリズム」になった場合は、「同じ国民だから」という形で仲間を大切にしようとします。
この働きにはもちろん善し悪しがあります。
この動画で最初から説明してきたのは、危険だが土台になるものが「豊かさ」であり、それを「正しさ」によって制御しながら、「多層な集団の総和」によって十分な「豊かさ」の総量を確保しようとする考え方です。
先に述べた「未来と対立することによる同時代的な連帯」というのも、包括的なだけに観念的なものでもあり、それだけで何らかの現実的な力を持つとは考えず、あくまで多層な集団の枠組みのひとつと数えて、他の集団主義である「ナショナリズム」などと合わせて「豊かさ」の総量を確保していくものと考えています。
「豊かさ」が「同じ集団の仲間」を重視するのに対して、「正しさ」はその枠組みを解体して、「すべての人間」あるいは「個人」という「最大と最小」を重視しようとします。
「個人としての合理性を超えて仲間に肩入れしようとすること」を解体していくのが「正しさ」で、それが強まると、人それぞれがバラバラの個人に向かう形で社会の土台が弱くなっていきます。
「正しさ」によって例えば、「すべての人間の権利が保障されるべきだが、その責任を負うのは政治家や経営者など集団のリーダーであり、余裕のない弱者である自分はもっと配慮されるべきだ」という態度を、有利なポジションを得た専門家や高所得者でさえとるようになっていく形で社会規範が失われていき、それによって起こる問題をこの動画では説明してきました。
加えて今回の動画では、「正しさ」は「最大」か「最小」に向かう形で「中間的な対立」を否定しようとするものの、理想に行き着く前に社会の破綻に直面し、例えば「世界大戦」や「子ありと子なしの対立」のような、より過激で深刻な対立が現実的には生じるという話もしてきました。
その上で、これから何らかの凄惨な状況が発生しうるとして、それは、むしろ「正しさ」が特定の人に適用される形で起こるのではないか……という懸念を示しました。
「正しさ」は「文明」が否定された「自然」であり、それ自体が文明に頼って生まれ育った我々にとって残酷な性質を持っています。
「すべての人間に権利があるとする一方、他人の権利のための強制も否定する」のが「正しさ」で、
「正しさ」の過剰により社会が限界を迎え深刻な対立が起こる
対立が強まって「同じ集団の仲間」の内側と外側ができる
外側の「仲間ではない人たち」に対して「正しさ」が適用される
といった機序で、むしろ「正しさ」が適用されることで人間に対する最低限の敬意が失われた状況が発生しうるので、「公正さ」を重視する今の社会の前提にも危険があると考えます。
このように「豊かさ」と「正しさ」の役割とバランスを考える必要があるという見方をしているのですが、その上で、これから労働人口がさらに減少していき医療や福祉などの負担が増え社会の継続が難しくなっていく問題をどうするかについて、「豊かさと正しさの相反」という見方をするなら、例えば「切り捨て」というのは実は有効な方法になりにくいのではないか……という主張があります。
「このままでは社会が保たないから過剰な福祉は続けられない」として、ただそこで「助かる人と助からない人の選別を強める」というやり方をすると、「マイナスの競争」が強まりコストカットにすらならない可能性があります。
「切り捨て」を強めても医療コストを削減できるとは限らない極端な例はアメリカで、経済的理由で医療を受けられない人や医療費で負債を抱える人が多く平均寿命が短い国なのに、GDPに占める医療費の割合が先進国の中でも特に高いです。
アメリカは保険や診療報酬が非常に複雑で、「この治療がされた場合、誰にどの保険が適用されいくら支払われるか」みたいな事務コストが大きく膨らみ、また訴訟リスクを避けるために必要性の低い検査や処置を行う「防衛医療」が生じやすい一方、支払いができない人には医療が与えられないことがあるような、うまく機能しているとは言いがたい状況になっています。
対して日本は、医療の質とアクセスが良いのにGDPに占める医療費の割合も特に高いわけではなく、医療を必要とする高齢層が多いことなども加味すれば、コストパフォーマンスの高い医療制度が運用されていると言えると思います。
日本の場合、「国民皆保険」や「高額療養費制度」などによって実質的に「全員を助けようとする」方針をとっていて、さらに「診療報酬制度」によって医療の公定価格を決める統制的なやり方で競争が抑えられています。
日本の「診療報酬制度」もその複雑さが問題視されることがありますが、アメリカのような膨大な保険プランがあったり病院と保険会社が個別に交渉しなければならなかったりするような状況と比べれば、「全員を助ける」という前提のもと「全国一律の同質的な基準」があることでコストが下がっている部分は確実にあると思います。
もっともそのような日本の医療も持続不可能と見られているし問題はあるのですが、ここで言いたいのは、「助かるべき人とそうでない人の選別」は過剰な「マイナスの競争」を引き起こして、むしろ全体の負担を増やすかもしれないということです。
医療崩壊が迫っていて「余裕がないから切り捨てよう(医療の提供範囲を限定しよう)」としても、「誰が助かるべきか?」の競争のコストが増えて、やり方によってはコストカットにすらならない可能性があります。
では継続が難しくなっている問題をどうすればいいのかというと、ここでは、より「豊かさ」を強めるために「さらに競争を否定する」という方法があると考えます。
「全員を助けようとする」という形で「マイナスの競争」が否定されている日本の医療を評価するとして、そこからさらに「競争」を否定する形で「豊かさ」を強めようとするなら、「プラスの競争」をも否定して、「優秀な人間に頼らずとも運用できる医療を目指す」というやり方になります。
これについてはこの動画で、「今より後を楽にする方法(必要なものの生産を効率的かつ完結的に行う方法)」について論じて、希少な資源や人材に頼らない「完結性」を評価するという話をしてきました。
この考え方においては、プラスの競争が否定された状態(競争に勝ったわけではない人たち)でも運用できるものの水準が高くなることが「豊かさ」になります。
相対的競争に勝った人しかそれを運用できないならば、そのことが制約になって低コスト化は頭打ちになるのに対して、競争に勝っていない人でも運用できる仕組みを評価することに「豊かさ」の可能性があります。
「プラスとマイナスの競争」が強く行われている場合は、例えば「優秀な人が、金持ちあるいは相対的弱者を助ける」というものになるとして、「マイナスの競争」が弱まると「優秀な人が、全員を助ける」となり、さらに「プラスの競争」が弱まると「平凡な人が、全員を助ける」となります。
個人の感覚としては納得しにくいものの、「優秀な人が弱者を助けようとする」場合は社会の土台が切り崩されていき、対して、「平凡な人でも楽に運用できる方法で問題に対処しようとする」場合に継続的な協力関係が成立する……という話を今回の動画ではしてきました。
賦課方式が「世代を超えて支え合う仕組み」などと言われる今の日本社会の前提におそらく若年層ほど欺瞞を感じていて、実際に、消費的に福祉が行われている現状において、今の高齢者が支えられることは、それを支える人が高齢者になったときに同じように福祉や医療が与えられることを意味しません。
対して、「今より後を楽にする方法」を意図して運用される仕組みならば、「今の人たちが受けている福祉」は、そのまま「後の人たちが同じかそれ以上の福祉を享受できる」ものになるはずです。
そのため、「豊かさ」を強める形でポジティブに問題に対処しようとするなら、「マイナスの競争」を起こしやすい「切り捨て」を強めようとするよりも、「善意によって全員を助けようとするが、ただし非専門家でも運用しやすい簡単で低コストな方法で」というものになると考えます。
問題は、AIやロボットなどを使って低コストで医療や福祉を行おうとする試みは、その初期段階においては、現状の「専門的分業システム」で提供されているものよりも質が劣る懸念があり、不手際や不具合が発生して「犠牲」が出る可能性を否めないことです。
そのような、問題がありつつも必要な試みを進めるために、ここで「豊かさ」としている働きを評価しようと考えるのですが、「豊かさ」は「犠牲」を肯定する「正しくない」性質を持っています。
「正しくない」が「土台」になる「豊かさ」の働きは、例えば、「低コスト運用を目指す仕組みの初期段階で発生する不十分」を「先人への敬意」と抱き合わせにするような「嘘」や「物語」によって協力関係を成立させようとします。
先に述べたように、もし未来が今より良くなっていくならば、たとえ高齢者や福祉受給者が社会に負担をかけていても、その人たちが悪いわけではなく、「まだその問題を解決する仕組みができていないだけ」であって、先人に対する敬意を放棄する理由にはなりません。
ただ、今のような状況になってしまったのにも「仕方ない事情」があったとして先人を責めるべきでないのと同時に、「低コストで運用できる仕組みで対処しようとせざるをえない」というのも今の社会の「仕方ない事情」です。
そこで、どちらも「仕方がない」として、「先人への敬意を失わない代わりに低コストな方法で対処することに納得してもらう」「まだ十分ではない仕組みを甘受しなければならない人たちだからこそ敬意を失うべきでない」……みたいな落とし所を暗に成立させて社会的協力関係を維持するのが「豊かさ」の働きだと考えています。
対して、そのような「豊かさ」を解体するように動くのが現在の司法やアカデミアで、これは悪意ではなく「正しさ」を重視することでそうなります。
「正しさ」は、例えば「人権」のような概念が基本的には所与のものとされるように、「まだ十分ではないがこれから十分にしていこうとすること」を評価しにくい部分があり、すでに出来上がったものを消費するよう働きます。
一方の「豊かさ」は、「もし未来が今より豊かになっていくならば、自分がその恩恵を受けられるわけではないにもかかわらず未来を良いものにしようとしてきた先人たちに敬意を持つべき」みたいな形で、「まだ十分ではない」ことを敬意に繋げる物語を作ろうとします。
しかしそこには「理不尽を誤魔化そうとするもの」があり、戦時中に「名誉や勲章を与えるからそのために戦ってくれ」みたいな取引があったように、「あなたたちへの敬意を失わない代わりに、福祉の効率化を目指す上で生じる問題には目を瞑ってください」みたいな取引を意図するのが「豊かさ」の働きで、犠牲を美化して誤魔化そうとする「正しくない」部分があります。
そして、それを批判するのは「正しい」ことですが、その「正しさ」は社会の現実的な土台になる部分を考慮できません。
このようにして、加害的な「豊かさ」と消費的な「正しさ」はどっちもどっちなのですが、このチャンネルでは、「正しいから豊かになるという倒錯」によって現状は「正しさ」が評価されやすいものの、今後は「豊かさ」を強めていかざるをえないだろうという話をしてきました。
では「豊かさ」を強めるための具体的な方法についてですが、過去動画が長くなりすぎているので今回のシリーズはこの動画で一区切りとして、次回から出す動画で説明しようと思っています。
今回のシリーズは、制作の過程で当初の構想から逸れて想定外に長くなったり、投稿期間が空いてしまったりしたのですが、ここまでご視聴してくださった方には大変感謝しています。
次回からは、過去動画とはいったん切り離して初見の視聴者も意識した内容になりますが、より具体的な問題に切り込んでいく動画を投稿していきたいと思っています。
重ねてになりますが、ここまでお付き合いいただいた皆様には改めて感謝を申し上げたいと思います。
長時間の内容にお付き合いいただきありがとうございました。
今後も動画を投稿していきたいと思っているので、よければ次回の動画などもご視聴いただけると嬉しいです。